3 その後


 ……いきなり口にするのは初心者のオレにはハードルが高すぎた。一旦騒がしい心を落ち着かせる為、先に唇で頬に触れた。時間を稼ぎたかったのに余計に胸の音が速くなる。


 ついた嘘がバレないように内心必死だ。だけど表面上は澄ました顔をしている……筈。



 オレと一緒でキスが初めてらしい柚佳の反応が可愛い。彼女の想い人、篤への憎悪が膨らむ。



「海里」



 名を呼ばれて少しぼーっとした頭で考える。彼女は声も可愛い。年相応のトーンなのに不思議と聴いていて落ち着く深みがある。



「口にして」


 覚悟を決めたように澄んだ瞳を向けられた。



 それまで何度も脳内で反芻していた僅かな知識。ドラマや漫画で見たキスシーン。大丈夫。口と口を合わせるだけ……そう繰り返し自分に言い聞かせていた。


 篤をイチコロにするキスとは恐らくディープキスというものだろうと薄ら思い浮かべていた。しかし今の自分には到底到達できない境地なので、柚佳の為の練習という体だけどオレも同時に練習させてもらうしかない。もちろん気付かれないように。


 そんな不安や苦肉の作戦でせめぎ合っていた脳内が、意識が。……柚佳の挙動に集中する。





 口にキスする事を許された。ずっと好きだった子に。





 この場面で舞い上がらずにいられる人っているのだろうか。



 重ねた唇は思っていたよりも柔らかくて、終わった後は涙が出そうな程の満たされた感覚に心が震えた。ただの練習で相手に気持ちがないとしても、長い片想いが報われたような錯覚さえする。


 だけど……よくない。


 オレの中で「もっとしたい」という欲求が肥大して、目を背けたら奈落に落ちてしまいそうなゾクッとした感覚が背筋を這う。



 焦る心臓を宥め賺して横を向いた。テレビにはゲームのデモ映像。オレたちがそれを中断している間、ずっと流れ続けていた。



「あっ……のっ……」


 左側から上擦ったような声が聞こえて柚佳を見る。彼女は立ち上がって素早く帰り支度をした。



「今日はもう帰るね。色々えっと……ありがとう。また明日、学校でね!」


 制服の灰色いスカートが揺れる。彼女はオレの横を通り過ぎて、玄関から外へ逃げるように出て行った。少し涙目だったような気もする。



 もしかして嫌われた? 必死に抑えていたのに、彼女を好きな気持ちや邪な欲望を気取られてしまったのかもしれない。好きでもない男からの好意なんてすごく迷惑で気持ち悪いものなのでは、と考え至る。キスしてみて「やっぱ無理」と思われた可能性も高い。



 あああ……。


 頭を抱えて座った状態から畳へ横向きに身を投げる。明日から口を利いてもらえなくなったらどうしよう。


 けれど後悔は微塵もなかった。今まで何にもなかった幼馴染との進展。たとえ拒絶されたとしても。今日の出来事はオレにとって一生の思い出になる。間違いない。



 仰向けになって感極まっていたら、いつの間に帰っていたのかランドセルを背負って立つ陽介がこちらを見下ろしていて視線が合った。


 陽介は五歳年下のオレの弟だ。背が学年で一番高いらしく中高生と間違われる事も多い。



「海里、何してんだ? ニヤニヤして気持ち悪っ」



 幼い頃にオレと陽介、二人で見た事がある脚がたくさん生えた虫。それに出くわしてしまった時にするような顔をした後、居間の隣にある台所へ移動する弟。冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出している。



「なあ……。お前キスした事ある?」


「……は?」



 眉間に皺を寄せて聞き返された。陽介は陰気なオレと違いさっぱりとした性格で運動神経もいい。きっと学校ではモテるのではないだろうか。



「何だよ? まさか柚姉ちゃんとしてねーだろうな? そんな訳ねーよな」


「……」


「……マジで? ついに告った?」


「いや、告ってはいない……」


「じゃあ告られた?」



 さらっと言う陽介に首を横に振ってみせる。


「何だよ、歯切れわりぃな」


 訝しげに見下ろされたけど、これって言ってもいいんだろうか? 相談できる友達もいるにはいるがアイツ口軽いしな。小六の弟に相談するオレって……。苦笑いに口を歪める。藁にも縋りたい気持ちとはこの事かもしれない。



 コップに注いだ牛乳を一気飲みしている弟に言った。



「付き合ってない。柚佳には篤っていう好きな奴がいて……。オレは篤を落とす為のキスの練習相手になったんだ」



 陽介は冷蔵庫の扉へ盛大に牛乳を噴いて咽せた後、鼻からの滴りを手で拭いながら顔をこちらに向けた。さっきより大きな声で聞き返された。




「は?」



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