第1話 4

 代々木公園入口そばの売店で、長崎英郎はテーブルにぐったり顔を埋めた。


「あ~、ぜんっぜん、うまくいかねぇ……アツッ!」


 テーブルはバーベキューでもできそうなぐらい熱かった。


 公園の時計は正午をさし、売店や屋台車の前は人があふれており、フランクフルトや焼きそばの濃いめの匂いにクレープの甘い匂いを嗅ぐと、ぐぅ~~~、少年の腹が鳴った。


 朝ソーメンの効き目が切れたのだ。


「お待たせ」そのとき、少女が戻ってきた。


 お腹が空いたらしく、イチゴのクレープを買ってきたようだ。


「いいなぁ~」と、甘いスイーツをうらやましそうに見つめるも、


「絶対あげない」と返され、甘い炭酸で口をごまかす。


「悪いけど、もうやめない?」


「やめない。だって、まだ一人もインタビューしていないもん」


「そーだけどさ……俺のMPがヤバいんだよ……」


 MPことメンタルポイントが尽きた男子高校生は、またテーブルに顔を埋める。視線の先には美味しそうにサンドイッチを食べる女の子がいた。「腹減った……はぁ~」


 重い溜息の発端は、夢インタビューが断られ続けたことにある。


『インタビュー? (怪しい宗教……)けっこうです』


『夢ないかなー。さっちゃん、ある?』『ないかなー。てか彼氏ほしい』


『夢? よりも金がほしいね。大道芸人って儲からないし、今日の客も全然投げてくれなくて、ピンチなんだよね』 


 家族連れ、女子二人組、ジャグラーの大道芸人にお願いしたが三連敗だ。


 見ず知らずの他人に話しかけるのは、なかなか簡単なことじゃない。


 相手の素性もわからないし、運が悪ければ裏社会の組織かもしれない。


 どういう組織かはさておき、インタビューをお願いするだけでここまで疲れるのかと、他人に話を聞くことがこんなにも難しいのかと、英郎は感じていた。


 それは、他人であっても良心の呵責とやらで簡単だろうと、彼がインタビューをナメていたせいでもあるけれど、断られるたびに自分の自尊心が傷つく。


 相手にだって悪気はない。自分と目の前の少女が勝手に始めたものを、絶対に賛成して協力するかどうかの選択肢は、その人に選ぶ権利がある。


 公園で見ず知らずの二人組(一人はゴスロリ服の少女)から話しかけられれば、


「黒魔術かなにか?」と眉間にしわを寄せるはず。


 ましてや――、「あの、夢ありますか?」だ。


 何かの宗教団体が子供を勧誘に利用しているとも思える。


 つまり、怪しいと疑うのが普通の反応ともいえる。


 彼もこの点同感だ。それともう一つ、悲しかったことがある。


『そんなことより、俺の芸を見たなら金払ってよ』


 と、大道芸人から言われた。その悲しさは言葉に言い表すのが難しかった。


 彼も仕事でやっていることだろう、お金が欲しい理由もわかるけれども、料金を催促されたことが彼の好奇心を冷めさせた。夢を売っていてほしかった。


『いや、そんな持ってないんで』彼は払わなかった。


 すると、彼は舌打ちし、『じゃあ、金くれたらインタビュー受けるよ』


 笑顔で子供と戯れる数分前の彼とは違う、別の悪い顔だ。頬の星マークが歪む。


『なぁ、頼むって!』野球選手にサインをお願いしたら金をせびられたファンは、その人に対する敬意も好感も音を立てて崩れていくだろう。


 財布を出そうとした。しかし――、


『いえ、けっこうです』立ち尽くす彼の腕を引っ張ったのは、目の前で口元につくクリームに気づかないままクレープを食べるシェリだった。


 そのまま少女は彼を入り口前まで連れ、その大好きなクレープに至っている。


「――話しかけるのけっこう疲れるし、代わりに鳥海さんがやってよ」


「やだ。もうバイト代払ってるし、やって」


「じゃあ、返すからさ」


「……逃げるの? 負けを認めるの?」


「べ、別に逃げるわけじゃ……」妙なプライドが言葉を濁す。


「じゃあ、インタビューしようよ」


「……はい」ガクッと首が垂れた。上目遣いで少女を見ると、シェリは二股の分かれ道にある大きな木の向こう、人だかりを眺めていた。


 目を細めて英郎も見る。どうやらピエロが演芸をしているようだ。


 シェリが言う。「次はあの人に聞いて」


「え~、大道芸人はやめようよ。せめて女の子とか」


「さっきのこと、気にしているの?」


 その通りだ。「……切なくなって、さ」


「でも、あの人は違うよ。きっと」


「なんでわかるの?」


「女の勘」


 便利な装置をお持ちのようで……英郎はシェリに従った。


 ピエロはミニスカートでカラフルな衣装に黄色い大きな鼻と、先っぽが二股に分かれるジェスターハットをかぶるお姉さんだ。少し遠目からパントマイムを眺めることにした。




 どうやら家に帰ったものの、カギがないらしい。服を上から下へ叩いても、カギがどこにもない。  


 ピエロはスカートをめくるも、目の前の男の子に気づき、恥ずかしそうに顔を両手で覆った。


 男の子も赤面してしまう。


 気づいたピエロはキャンディーをひとつあげ、男の子と握手して仲直りだ。


 そして、家のカギを探す大冒険が始まった。


 建物を見つけたピエロはドアをノックして中に入った。中にはいくつもの扉がある。


 どんどん進んでいくと、どんどんピエロが小さくなっていく。


 これには困った。慌てて引き返すも扉が開かない。


 叩いても、蹴っても、体当たりしてもビクともしない


 しょうがなく次の扉を開けよう。


 だけど、あらら……? 体が勝手に右へ右へと動いていく。


 懸命に走るも、動く床なので、流れに身を任せるしかないようだ。


 すると、どぼん、と川に落ちてしまった。


 さー大変だ、身体が小さいままのピエロは、魚には格好のエサだった。


 ピエロは手足をばたつかせて、懸命に泳ぐ。


 やっとこさ陸に到着するも、服がびちょびちょでしょんぼり顔。


 そのとき――、


 「ピエロさん、ガンバレ!」と、最前列の女の子が叫んだ。


 他の子供たちも声援を送る。ぽんっ! 


 ピエロは元気が出たのか、大きく胸を叩いて、大冒険を再開する。


 遠目で観ていた英郎は知らず知らず、近くで観ていた。


 声もなく、道具もなく、コミカルな動きと表情で拍手と笑いを起こしていく魔法使いのようなピエロのお姉さんに、子供たちは魅了されていた。


 その後、ピエロは巨大樹を登り、なんとかカギを見つけることができた。


 だけど、困ったぞ~? 


 どうやって家に帰ったらわからないのか、両手を広げて大きく首を傾げた。


 そして、思いつく――


「そうだ、ここを家にしちゃおう! こうして、ピエロさんは新しいお家を見つけることができたのでした。――どうも、ご覧いただき、ありがとうございました♪」


 帽子をとって丁寧にお辞儀をするピエロ、観衆は大きな拍手と感謝のしるしとしてチップを帽子に入れていく。もちろん英郎も入れた。五円を――。


 


 去っていく子供たちに大きく手を振って別れを惜しんでいたピエロに、


「あ、あの――」


 少年の声にお姉さんは振り向いた。「はい?」


「じ、実は――」英郎が言葉を継ぐ前に、「もしかして、リア充さん?」と、茶目っ気たっぷりに少年と少女を指さした。


 シェリが激しく黒髪を揺らす。「ぜんっぜん、違います!」


「そこまで否定しなくても……」


 好きではないけれども、さりげなくフラれた気がして、気分は空のように青い。


「あちゃー! 私、悪いことしちゃった?」


「あ、別に、そこまでは……」 


 お姉さんが申し訳なそうに謝り、「何か用ですか?」と尋ねた。


 本題を思い出し、英郎は咳払いしてから切り出す。


「実は、夢インタビューをお願いしていまして、ピエロさんの夢を聞かせてもらう代わりに、僕がその夢の絵を描いてプレゼントするもので――」


「えー、なにそれ! おもしろそ!」


「へ? おもしろい、ですか?」


 ニコニコなお姉さんは話を進める。「うん! あ、私の名前は和泉優子いずみゆうこ。みんなからイズピーって呼ばれているから、そう呼んでね!」


 ものすごく明るい性格のようだ。


「あ、ありがとうございます! 俺は長崎英郎で、鳥海シェリで、同じ高校で」


「OK! じゃあ、あっちの日陰でやろうよ!」


 と、和泉は木の下、テーブルベンチを確保しに行く。


 活発なピエロに英郎は放心していた。初めて成功したうれしさと、親切なお姉さんへの疑問が交差し合っていた。隣のシェリが言う。


「ほら、大丈夫だったじゃん」


 あどけない笑顔は、少年の疑問を吹き飛ばした。


 考えるよりも直接聞けばいいよな、と二人は小走りで向かった。




「準備、完了であります!」


 ビシッと敬礼し、和泉はスケッチブックを持つ英郎にいった。


「あ、はい! では、始めさせていただきます……」


 とはいえ、これが初めての相手。隣のシェリはロボット顔でお姉さんをガン見している。和泉は無表情の少女に少し困惑気味だ。


「鳥海さん、なんて聞けばいいの?」


 手順がわからず、英郎はコソコソ尋ねる。


「私もわからない」


「えぇ?!」衝撃だ。丸投げ宣言だ。


 唖然とする男子高校生を察したのか、和泉は優しいトーンで言った。


「もしかして……私が初めて、とか?」


 図星で、さらに彼が驚いた顔をするので、


「うんうん♪ 初めての相手が私とはラッキーですな」と、色気で場を和ませる。


だが、慣れていない英郎は肩をすぼめる。「すみません……!」


 冗談が通じず、気恥ずかしくなる和泉だ。


「ううん、謝らなくていいよ! ちょうど休憩するところだったし」


 ――なんて、天使……! あ~、五〇〇円にすべきだった。


 己の器と相手の器の差を痛感し、英郎は情けない気持ちになるも、まずはインタビューの説明をすることにした。


「えっと、ですね。はじめに夢を聞かせてください。いろいろ聞きながら、イズピーさんに合った絵を描いていきますので」


「ほぉ♪ ずいぶん芸達者ですね。――私の夢はズバリ、ちちんぷいぷい、悩みよ悩みよ飛んでいけ、ですね!」


「……なんです、それは?」予想以上に抽象的だった。


「二十六にもなって、バカだよねぇ。――ま、私がピエロをやってる理由と関係してくるんだけどさ……」


 表情に陰りがさした。青空を見上げ、和泉は続ける。


「私ね、ちっちゃい頃、父親にDV受けてたの。両親が共働きでね。きまって、お母さんが仕事で、その人が休みのとき……」


『ゆーこ、お父さんの言うことが聞けないのか? 悪い子だ、こっちこい!』


『ヤーダァ! ヤーダァ! ゆーこ、悪いことしてないよォ!』


 脳はバカだ。検索をかければ、望んでもないのに映像と激情を持ってくる。


「土曜日が多かったかな。バレないよう頭叩いたり……あざができても、お母さんには『公園で転んだんだよ』とか……子供をストレスのはけ口にするとはサイテーだったな」


「あ、あの……話したくなければ、大丈夫ですから」


 英郎は強まる口調につい止めた。というより、覚悟が足りなかったのだ。


『俺は、最強の勇者になる!』


 アニメの、主人公のセリフを思い出せば、その背景には凄惨な過去がある。当時の幼い自分は「かわいそう」と他人事の言葉を吐いていた。


 でも、目と鼻の先にいる女の人はその主人公と同じ気持ちを持っている。


 それも、他人に話したくないであろう、心の傷だ。


 キラキラ、太陽の光が三人を照らした。和泉の顔が晴れる。


「重い話だよねぇ~。でも、今は性暴力がなかっただけマシって感じ」


「あの――」シェリがいう。「どうやって乗り越えたんですか?」


 英郎は止めようとした。あまりにも無神経な質問だから。


 でも、和泉は足元に咲く花のよう、ニコニコ答えた。


「それはね、ピエロのおかげさ♪ 私はピエロに救われたのさ♪」


「ピエロに……?」


「五歳のこどもの日に、ピエロが保育園に来てくれたの。当時の私は内気な子で、人の目を合わせることもできなかった。虐待がバレたら、どんなひどい目に遭うかわからないからって思ったんだね。でも、そんな私を、ピエロは優しく声をかけてくれた」


『ねぇ、キャンディーほしい?』


「――って、初めは嫌がったと思うけど、ジャグリングやバルーンを観ていたら、『なんか、すごい!』って、トキめいた! で、マジックのとき、トランプだったんだけど、私が選んだハートのエースを見事にピエロが当てたの! 『私の心がわかるの?』って、めっちゃビックリした! パフォーマンスが終わって、話しかけたいけど、ウジウジしていた私にピエロは言ったの」


『悩み事があるなら、言ってごらん。力になってあげるよ』


「――ってね。私はそこで勇気を出せた。『ピエロさんなら、なんとかしてくれる』って信頼できたの。これがきっかけでお母さんはあの人と離婚して、私はこうしてすくすく育ちましたとさ、めでたしめでたし♪」


 二人は自然と手を叩いた。無邪気な子供の声が耳に届く。


「すごいですね、そのピエロの人って。悩みに気づくなんて」


「今思うと、保育士に頼まれていたのかもね。保育園に行ったとき、私も頼まれたことがあるの。『~ちゃんに悩みがないか聞いてもらいませんか?』って」


「へー、連携プレーですね」


「お子ちゃまは大人がわかるものさ。逆に、保育士から虐待のケースもあるし……って、守秘義務に関わるからこれ以上はナシ、で!」


「は、ハイッ! 話してくれて、ありがとうございました!」


 頭を下げる彼の横で、シェリが話をまとめる。


「つまり、イズピーさんはその過去があって、ピエロをやっていらっしゃると」


「そうだね、学生時代にNPOのボランティアをやってからだね。悩みを抱えている子供はもちろん、親御さん抱えているからやりがいあるよ」


「あの、そしたらプロのピエロなんですか?」


「ううん、プロじゃないよ! まだ力不足だし。――私、仕事が化粧品販売なの。日本橋でマダムに売ってるんだけど、今年から副店長で、辞めるなんてマネージャーに言ったら……わわわ!」


 突如、仕事の大変さか、慌てふためきだすので、「その――」と英郎が尋ねた。


「大道芸人のプロって、大変なんですか? その、生活で」


 和泉は表裏のない聞き方に、正直に返す。


「そりゃあ、大変だって。仕事がそれ一本だし、バイトしている人もいる。もしかして、興味あったりするの?」


「あ、いや――」言葉が濁るも、先ほどのジャグラーの件を話した。


 和泉は眉を寄せ、険しい顔で腕を組む。邪悪なピエロだ。


「都内で大道芸をやる場合、《ヘブンアーティスト》っていうライセンスが必要だけど、たぶんその人は無許可じゃないかな。意外といるんだよね、動画配信者とかで」


「そんな制度があるんですね」


「私は趣味の延長だけど、投げ銭するかは観衆の権利だと思うの。パフォーマーが強制したら、それは大道芸じゃない。だって、あくまで公共の場所を使わせていただく側だから、自分で施設借りてやれって話だよ。狭い道でやられたら、興味ない人にとっては邪魔でしかない。私に言わせれば、その人たちを巻き込めるスキルと魅力がないと自覚している裏返しだ……って、私は高校生相手になんつー文句を……わわわ!」


 英郎が思いつめた顔をしていたのだ。和泉の言葉が胸に響いていたから。


 ――そっか、魅力がないとダメだよな……。


 慌てふためく和泉に、シェリがきっぱり。


「私もそー思います。プロなら、アンチを手のひら返しさせなきゃ!」


「シェリちゃん、わかる子だねぇ。けっきょく、アンチを黙らすウルトラソウルがなきゃあ、お金を払って見たいかって話なんだよね! つまり、ヘイ、だよね!」


「そーです! イズピーさん、ヘイです!」


 がっちり! 女の友情が生まれた瞬間だ。


 なんだこの展開は……ヘイってなんだよ。


 目がテンになった英郎の手元、テンション高めのシェリが気づく。


「あ、全然描いていない! 何してたの? アホなの?」


 スケッチブックは白いままだ。少年が小鼻を膨らまし、


「アホじゃねーよ! インタビュー中に描けるわけないじゃん!」


「それをどーにかするのがプロじゃん!」


「プロじゃないよ! てか、俺はなんのプロなんだよ」


 口げんかする二人に、和泉が妬く。「もぉ、アツアツぅ~♪」


 ムスッ、シェリが小鼻を膨らましたとき、一人の女の子がやってきた。


「ピエロさん、今度は何時にやりますか?」


 あっ! 和泉は思い出す、次の準備を。


「ごめん! 待ってる子供たちがいるから、戻るね!」


 英郎は咄嗟に言った。「絵、終わるまでに描きますから!」


 ピエロは振り向き、両手を大きく広げておどけてみせた。。


 その姿は、彼の記憶の奥から幼心を引きずり出す。


 母親と自分、二人だけで行った遊園地の映像だ。右側にいた人は彼の知らない、空の彼方にいってしまったから。母親が彼の左手を強く握りしめていた。


 とても痛かった。でも、遊園地のアーチをくぐると、とても優しかった。


 目の前に現れたピエロが親子を出迎えた。


『夢の国へ、ようこそ!』その一言で彼は笑った――。




「これだ!」


 英郎は色鉛筆を握った。頭に浮かんだインスピレーションを頼りに、白いキャンパスに色を足していく。黄色、青、赤、緑……。


 鮮やかな虹がかかっていく。ピエロが笑うと、子供たちが笑った。


 雲一つとない表情は晴れやかで、彼らの笑みが大人も、犬も猫も笑わせる。


 真ん中の愛らしいキャラクターのおかげで、その一帯が明るくなった。


 眩しい光は、心をも照らす。頬がクスリと緩む、涙がキラリと輝く。


 笑顔一つで、ぽかぽかとお腹いっぱい、幸せになった――。


「おおーっ! すごいじゃん! ヒデ君、天才じゃん!」


 渡された絵を見て、イズピーの疲れはどこか吹き飛んでいく。


「喜んでもらえてよかったです」英郎は謙遜する。


「いやぁ、うれしいな♪ 当分の間はハッピーだよ! 明日の仕事も元気100%で頑張れますよ! ヒデ君にシェリちゃん、どうもありがと!」


 小躍りするピエロのお姉さんに、少年は心から照れる。


 何のゆかりもない、今日出会ったばかりの自分を受け入れ、封印したくなる過去をも話してくれ、最後に感謝されたのだ。はにかみながら、


「話してくれて、どうもありがとうございました!」と頭を下げた。


 それは隣で少しだけ笑う、横の少女への感謝でもあった。




 二人は日暮里駅前で別れた。


 英郎は自転車をこぎながら自宅へと向かう。


 ――このバイト、やってよかった。そうだ、小説にできるかも!


 爽やかな気持ちで風を切る彼は、まだシェリについて何も知らない。


 和泉と話して気づいた、夢の背景にある心の記憶――。


 当時の気持ちと、中学時代の傷――。


 それは、少女も同じだ。もちろん、彼も――。


「はぁ、ダメだ。こんな声じゃ歌えない。このままじゃ、死んだ方がマシだ……」


 少女は一人、部屋で悶えに悶えていた。


 紙クズとゴスロリ服でちらかった床を踏み鳴らし、ベッドに体を投げた。


 真っ白な天井に向かって、声帯を震わせる。


 以前と違う、鼻にかかる声はトゲをさす痛みに似て、少女を泣かせ続けた。


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