第7話 冷眼 後編
「
兵によれば、今晩の食事を男女共々で行うという龍翔の提案に、王妃は大層怒ったらしい。王妃は龍翔の部屋に赴いて彼を叱責した。その際たまらず彼は私が発案者であることを明かしてしまったそうだ。あのヘタレブタガエルめ……!
「そんなこと言っても、もうここまで準備しちゃったんだから、今更戻せないわよ」
「でも、王妃様のことだから……もし逆上して、豊蕾の命まで奪おうとしたら」
「準備、進んでるみたいね」
不意に落ち着いた少女の声が耳に届いた。第5王女の
「それが……」
私が答えようとすると、彼女はそれを遮った。
「その後の事情も聞いてるわ。母上が大変ご立腹ってね。何かあったら任せなさいって言ったでしょ。龍翔の兄上なんか頼りにならないし」
「どうにかして下さいよ、蓮玉様! これも菊花様のためなんです!」
鈴香が手を組んで懇願するのを見て、彼女はいつものすまし顔のままふっと笑った。
「愛されてるのね、菊花は」
そして、腰に手を当てながら、準備が進んだ部屋を見回す。横顔から見えるその目つきは鋭い。
「いいわ、わたしが何とかしてあげる」
「本当ですか!?」
つい身を乗り出してしまう私に、彼女は余裕たっぷりといった様子で微笑んだ。その笑みには自信が溢れていた。
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「豊蕾、大丈夫なのですか……?」
一緒に廊下を歩く菊花様は、横から私の顔色を伺うように見上げてきた。私は彼女に微笑みかける。
「大丈夫ですよ。きっとうまくいきますから」
不安そうな彼女を安心させるための言葉であったが、半分は自分に言い聞かせるためのものだったかもしれない。
蓮玉様は手を打ってくれた。王から王妃を説得してもらえるよう、話を通してくれたのだ。しかし、それすら王妃に跳ね返されてしまったとしたら? そんな恐れを抱きつつ、私たちは食堂へ向かっていた。
向かう途中、いつもは見かけない人々が目の前を歩いていく。煌びやかな服をまとった王子や護衛たちのほか、第一、第二王子の妃らしい女や子供たちもいた。
「ほら、どうやら決行ということで、話がついたみたいですよ」
彼らに会釈をする菊花様にそう言うと、私にも頷いてみせてくれた。蓮玉様の、その13歳とは思えない実行力に舌を巻く思いだ。
「豊蕾、ありがとうございます。でも、あなたの身に危険が及ぶようなことは、もうやめてほしいです」
「大丈夫ですってば」
菊花様は困ったように微笑むだけだった。
食堂内では使用人が忙しなく料理を運んでいた。席がいつもの2倍以上設けられているのだから当然だ。料理は別の厨房からも運ばれてきていた。一つの料理場では今の人数分を賄えないのだろう。かなりの大仕事になってしまったようだ。今後これを継続していくとなると、料理人の負担が計り知れないものになりそうだな……。
その様子を眺めていると、入り口から龍翔とその護衛が入ってきた。こいつは提案者だから後で挨拶か何かするんだろうが、浮かない顔をしている。まさか緊張しているのか?
私は奴の近くまで歩み寄った。
「おい」
声をかけると、奴は黙ってこちらに目を向けた。
「なんだよ?」
いらついているのか重い声をしていた。私は構わず続ける。
「お前のヘマで頓挫しかけたが、蓮玉様のおかげでこの通りだ。まあ、お前にも感謝しないでもないがな。発起人になってくれたおかげで……」
龍翔は鼻を鳴らした。
「おれはお前に、ちゃんとやめろって言ったんだからな」
「今更、何を言っているんだ? 陛下が王妃様を説得なされたから……」
「父上が話をしたからって、母上の機嫌が直るかよ」
「何だよお前、ふてくされて……」
「ああもう、うるさいんだよ! おれは式辞を考えなきゃいけないんだ! 無難に済まさないと……」
そう言い放ち、龍翔は離れていった。何なんだあいつは。
「あの、豊蕾」
私は袖を引かれる。菊花様がこちらを見上げていた。眉尻を下げている。
「どうかしましたか?」
「その、一度、身を隠したほうが……」
菊花様は、龍翔の話を聞いて、私の身を案じてくれているようだ。だが、そこまで心配することはないだろう。龍翔よりは、蓮玉様を信じる。
「心配いりませんよ……」
その時だった。キツい花の油の香りが鼻をついた。その方を向く。
護衛の男たちを背に、その髪を黒く染め、顔を白く塗った女性は、顔に扇子を当て、厚く派手な服を揺らしながら、つかつかとこちらに歩いてきていた。
王妃だ。間違いなく私に近づいてきていた。細い目の中の黒い瞳が、私をしっかりと捉えている。その冷たさに私は硬直してしまった。
目の前に立ち止まる。扇子をたたみ、振り上げる。
頬に激痛が走った。乾いた音が食堂に響く。左頬が熱くなり、痛みが広がっていく。
頬に手を当て前を向いた。見開かれた王妃の目はひくひくと動き、怒りの色が浮かんでいた。
金属の扇子で叩かれた頬がひりつく。口の中で血の味が広がってきた。
「……余計なことをしおって……!」
扇子を握る拳が振り上げられ、私の頭を殴った。物を握りながらの拳骨は、高齢女性のものとは思えぬ威力がある。頭が揺れて視界がぶれるのを感じた。
「この、無礼者が!」
体を押され、姿勢を崩してしまう。倒れた私の背に痛みが走る。扇子で叩かれているのだ。
「お前が、こんなこと、しなければ!」
背中を何度も叩かれる。服越しでも痛い。声が漏れる。
龍翔の言う通り、王妃はいまだに怒っていた。身をもって知る。あまりの痛みに、思考が止まる……。
「やめて下さい! 母上、おやめ下さい!!」
菊花様の声が響き、我に返る。菊花様の小さな手が王妃の手首を掴んでいた。
「菊花、お前の使いが、こんな馬鹿げた真似を!」
菊花様を振り払い言い放つ。その声は辛辣で、菊花様を見る目は鋭く冷たい。
菊花様は目を伏せながらも口を開いた。
「……すべてわたしのせいなのです」
「なに?」
「わたしのためなのです。晩餐を、皆と共にしようと……」
菊花様は顔を伏せたままそう言った。おびえたように手が震えている。
それに対し、王妃は慈悲を見せることなど無かった。王妃の手は怒りで震えていた。
「菊花。妾はここのところ、お前に甘くしすぎていたようだな」
そして扇子を横に薙ぐ。菊花様の頭に当たり、鈍い音が響き渡った。
「菊花様!」
菊花様は痛そうに俯き、頭を押さえた。力んで叩かれた背中が痛んだ。
「笑うことも忘れたか……」
王妃の冷淡な声。
「お前はただ笑っていればよいと言ってきたであろう。それが、どうだ? このような、反抗的な目をしおって!」
見上げる菊花様に向かって腕が振るわれる。扇子は再び菊花様へと向かっていた。
体が動いていた。とっさに彼女の前に立ちふさがる。肩に扇子を受けた。切れそうな程の痛み。
「豊蕾!」
「お前……!」
王妃が睨みつけてくる。私は、菊花様を胸に抱きながら睨み返した。
王妃への反抗。自殺行為に等しいことだ。だが。
「ただ笑っていれば良いと、言いましたね……」
私の言葉に、王妃の目は鋭さを増した。
「菊花様の笑顔は、素晴らしいものです。でもそれは、あなた方に向けてきた笑顔ではない。作られた笑顔なんかのことではないのです」
互いに睨み合いながら、私は続けた。
「あなたは菊花様から、本当の笑顔を奪った。彼女の意志を踏みにじって」
彼女の悲しみの原因であるこの女が、私は許せない。
「豊蕾……」
胸の中にいる菊花様が、私の腕をぎゅっと握った。
「だから、私は……」
そこまで言うと、王妃の目は冷酷の極みと化した。人の情などない。背筋が凍る。
「お前は死刑だ」
身がすくむ。周囲がどよめき始めた。
やってしまった。だが言わずにはいられなかったのだ。菊花様が、また以前のように作った笑顔を振りまき、意志を殺してしまうと思うと。
「そんな……」
胸の中の菊花様から声が漏れる。その体は震えていて、顔を覗くと青ざめていた。
「菊花。おまえにはもう側近をつけぬ。侍女も誰もいないまま、独りで生きていくがよいわ」
王妃の冷酷な言葉が響く。その言葉は私の心にも突き刺さった。命に替えた言葉が、逆に菊花様を追い詰めてしまった。後悔の念に押しつぶされそうになる。
「わ……わたしなど、よいのです……どうか、豊蕾だけは助けてください……」
震える声が耳に届いた瞬間、私の心は揺さぶられた。ああ、なんて優しい方なのだろう。自分のことよりも他人を思いやる心を持っているのだ。やはりこの人は、どんな境遇に置かれても、優しく美しい人なのだな。最後にそんな彼女の温もりを感じられてよかった。その温かさを死の瞬間まで忘れぬようにと、全身の感覚を心に刻み込んだ。
「王妃様、本当に……?」
近くにいた兵がやってきていたようだ。
「ああ。この者を捕らえよ」
「わ、わかりました」
菊花様をずっと抱きしめていたかったが、そうもいかないようだ。力を緩める。
「豊蕾……豊蕾……」
彼女の体がさらに震えだす。涙が溢れていた。
「私は大丈夫ですから、泣かないでください……」
そう言って頭を撫でたが、涙が止まることはなかった。
兵達が近づいてくる音がする。そろそろ離れなければ。
「これ、
張りのある男の声。この声には聞き覚えがあった。
その声は王妃の方から聞こえた。見ると、王陛下が王妃の肩を背後から叩いていた。王は整った髭面の顔に笑みを浮かべている。まるで悪戯好きの小童のようだ。
「へ、陛下……」
王妃は、これまでの強い口調とは打って変わって弱々しい声を上げた。
「よい、よい。昔のように、
そう言って陛下は笑い声を上げた。陛下のお言葉に王妃は耳を赤く染める。
あんな様子の王妃を見たのは初めてだ。とても意外だった。いつもふてぶてしい人だと思っていたのだが。
「陛下、お戯れはおやめくださいませ」
「はは、百麗よ。なにも彼女、豊蕾を処刑する必要はないのではないか?」
「ですが……」
なんと、陛下が私を庇ってくれている。
私の腕を掴む菊花様の手がまた握られた。菊花様は陛下と王妃の様子をじっと眺めていた。
再び菊花様の体を抱く力を強め、私は陛下と王妃の話の行く末を、黙って見守ることにした。
「百麗の機嫌を損ねてしまったのは、なにも彼女の仕業というわけではないわい。元はと言えば、儂じゃろ?」
「別に、妾の機嫌がどうとかではありませぬ」
王妃の声は弱々しかった。あの気の強い人がこうなるとは驚きだ。それだけ陛下の力が強いということか? それとも……?
「そなたを構えぬ日が続いてしまったな。許せ」
陛下はそう言うと頭を一度下げては、笑みを王妃に向けた。
「そ、そういうことではないと言っているでしょう! 妾はただ、娘たちにあの男共の酒宴に付き合わせたくないだけです」
王妃はそう言って扇子を広げ顔を隠す。さっきまで私と菊花様を痛めつけていた鈍器が、今は王妃の顔を鮮やかな花柄で彩り、彼女の恥じらいを覆い隠していた。
「ふむ、それもあったかのう。すまぬ、すまぬ。もう、娘たちには強いたりはせんよ。それとな……儂と百麗の席は、あれじゃ」
陛下が指をさす先にあるのは、長机の先にある中央奥の席だった。
そういう席には、格上の者が座るのだろう。そう漠然と思えたが、何か特別な意味があるのだろうか?
「陛下は、皆に囲まれながら、酒をあおるのがお好きなのでは……」
「女を侍らせていたのが嫌だったのであろう? 今宵は側室らとも離れ、百麗、お前と飲みたい」
「妾のような年寄りなど……」
王妃は目を伏せる。
すると王は、後ろに控える従者を手招きし、彼から何かを預かった後、それを王妃に差し出した。それは金細工で作られた小さな箱だった。中には大粒の宝石のついた首飾りが入っている。
「これは?」
「贈り物じゃ」
「なぜです? こんな高価なものをいただく理由がわかりませぬ……」
「そなたとは、
そう語りながら王は王妃が持つ箱から首飾りを取り、王妃の首にかけた。
王妃は陛下の微笑む顔を、惚けたように見つめていた。まるで少女のようだった。先程まで私達を苦しめていた人物とは思えないくらい、可愛らしい顔をしているように見えた。
陛下のことを心から慕っているのだということがわかった。二人の間に何があったのかは知らないけれど、きっと二人は深い絆で結ばれているに違いないと感じたのだった。
結局、食事のときに男女分けられていた原因は、王妃の嫉妬心だったようだ。王もそれに気付いており、だからこそ、彼女を労いたいと思ったのかもしれない。そして今、それは成功したように見える。なら、私の処分は……?
私と菊花様が陛下に視線を送っていると、王はこちらに振り向き、微笑みながら手のひらを上げて見せた。王妃は目をそらしながらも、頷いていた。
どうやら殺されずに済みそうだ。力が抜けた。大きなため息を漏らし、床に座り込む。菊花様も安心したのか、私にもたれかかるようにして座った。
彼女はまだ少し震えていたが、表情は先程よりも明るくなっている気がした。私の肩を掴み、身を寄せ、頭を私の首元に押し当ててきた。
「豊蕾……よかったです……」
「……菊花様……!」
心音を聞かれているのか! 顔が熱くなる。彼女の髪の匂いが鼻をくすぐる。鼓動が早まった。恥ずかしくてたまらない。
だが、同時に嬉しくもあった。何というか、菊花様が私を頼りにしてくれているような感じがしたからだ。
私も、菊花様の体に手を回して……。
「豊蕾ぃ! 良かったぁ!」
鈴香が駆けてくるやいなや、背中から抱き着いてきた。驚きのあまり、菊花様に伸ばしていた手を引っ込めた。
「り、鈴香」
「もうダメかと思った! そしたら、あたし……」
鈴香の目も赤い。本気で心配してくれていたのだとわかった。
「鈴香ったら、今は駄目でしょう、もう」
玉英が鈴香を宥める声が聞こえた。どうやら二人とも、いつの間にか食堂に入ってきていたようだ。
「豊蕾、怪我はないかしら?」
玉英が私に歩み寄りながら言った。
「ああ。これくらい、剣の稽古や戦いに比べたらなんともない」
笑って答えると、玉英も微笑み返してくれた。
菊花様は、しばらく私の胸で心音を聞き続けていた。
私にはそれがとても心地良かった。
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