第7話

 そして、何度目かの水曜日。

 その日も志鶴さんと兄貴を先に帰して本に没頭する田所さんの元に行った。

「田所さん、そろそろ時間だけど」

 声を掛けたが田所さんは答えない。どうやら今日はとても深く潜っているようだ。

 田所さんの手元の本は残り数ページだった。私はすぐ前の席に座って読み終えるのを待つことにした。

 頬杖をついて田所さんをじっと見つめてみたが、少しも気づく様子はない。せっかくなので田所さんをじっくりと観察してみることにした。

 ページをめくる指先が綺麗だなと思う。あまり笑ったところは見ないけれど、好きな本の話をするときは本当にうれしそうな顔をする。

 田所さんを花に例えるなら何になるだろう

 梅の花かな?

 私の脳には梅の花しかないのだろうか。発想力が貧困なのは、小説を読んでいないからかもしれない。

 田所さんと志鶴さんとは全く違うタイプだと思う。だけど、田所さんも梅の花がしっくりくるような気がするのだ。

 桜のように人に囲まれ称賛されなくてもマイペースに花を咲かせる。だけど、その香は雄弁にその存在感をあらわにする。それは、話し掛ければ饒舌に語り出す田所さんそのものだと感じた。

 そんなことを考えていると田所さんはパタリと本を閉じた。そして、本に手を置いたまま「ほぅ」と満足気なため息をつく。文字の海から戻ってきた合図だ。

「今日は深く潜ってたね」

「うん……。これ、返してくるね」

 田所さんは立ち上がって本を返しに行ったが、少しだけ足元がフワフワして見る。今日の本はかなり深く潜れたようだ。

「今日はどんな話を読んでたの?」

 帰り道、私は田所さんに聞く。

「失恋をするはなし」

「へ?」

「本のタイトル。『失恋をするはなし』っていう本」

「なんともストレートなタイトルだね」

「そうだね」

「失恋するって分かってる話を読んで面白いの?」

「うん。すごくよかったよ。『この恋は、決して実らない。実らせたいとも、思わない。』っていうフレーズからはじまるの。主人公はすでに失恋しているんだよ」

「なんだか、それを聞いただけで気が滅入ってくるんだけど」

 だって、まるで私のようではないか。

「失恋の話だから楽しいというよりも切ないんだけど、とても綺麗だったの。主人公が見ている世界がとても美しくて、本当に素敵だった」

「失恋する人が見る世界が美しいって、ちょっと理解できない」

 私は率直な感想を言う。失恋は美しくなんかない。悲しい、切ない、苦しい、そんな心の裏には、必ずどす黒い醜い感情が潜んでいる。私のように――。

「読んでみれば分かるよ。よかったら読んでみて」

 田所さんは邪気のない笑顔で言う。私は、冗談じゃないと思っていた。

 だが私は、田所さんから話を聞いた翌日『失恋をするはなし』というタイトルの小説を借りた。少しだけ興味があったのだ。私と同じように失恋をする主人公が、どうやって恋を終わらせるのか。

 ただでさえ読むのが遅いのに、ページをめくるたびに気が重くなり、なかなか読み進めることができなかった。

 土曜日には図書館にその本を持って行き、何とか読み終えることができた。田所さんが『綺麗』と言った話を、私は少しも『綺麗』だとは思えなかった。苦くて、口の中にザラザラとした砂が残っているような嫌な感覚しかない。

 いつものように図書館に来ていた田所さんを捕まえて、私はその感想を伝えた。

「受け取り方は人それぞれだからね。それも小説の面白さだよね」

 田所さんは気を悪くする様子もなくサラッと言う。だが、次の瞬間、少し考えるような仕草をした。

「有村さんは好きな人いる?」

「え?」

 もちろん頭の中には志鶴さんの顔が浮かんでいた。

「失恋したことある?」

 当然、志鶴さんの顔が浮かぶ。

「一体、何の質問?」

 私は不快な気持ちを抑えて聞いた。

「恋や失恋の経験がある人とない人では、感じ方が違うのかなって思って」

 なるほど。やはり田所さんの頭は本を中心に回っているようだ。

「私たち高二だよ。それくらいあるでしょう?」

「私はないから」

「そうなの?」

 そう言いながら、そうだろうなと納得していた。田所さんが誰かに恋をしたり、失恋をして泣いたりしているイメージが全く浮かばない。

「小説の中ではたくさん経験してるんだけど、実際にはないんだよね」

 小説を読んだだけのものは『経験』とは言わないと思う。

「きっと実際に経験してから読むと違う印象を得られるよね。私も失恋してみたいなぁ。失恋をしてからもう一度あの本を読んだら、私はどんな感想を持つんだろう」

 その恍惚とした表情はまるで恋をする乙女だ。小説を読むために失恋がしたいなんてちょっと常軌を逸している。

「とりあえず今は無理なんじゃない?」

 私は田所さんに冷たい視線を送りながら言った。すると、田所さんはあからさまにムッとした表情をする。

「どうして? 私だって失恋くらいできるでしょう」

「いやいや、失恋をするためには、まず人を好きにならなきゃいけないんだよ。田所さん、小説以外に興味ないでしょう?」

 すると、田所さんはマヌケな顔で「あ、そうか」と言った。

「人を好きになるためには、まず人に興味を持つことからはじめないと。その上で好きな人ができて、やっと失恋になるんだよ。かなりハードル高くない?」

「高いね。すごく高いね……」

 がっかりした表情で田所さんは足元に視線を落とした。別に凹ませたかったわけではないので、少々胸は痛むがそれは事実だ。

 それに失恋真っ只中の私にとっては、楽しいことのように「失恋がしたい」と言われると少々腹が立つ。

 田所さんにそんなつもりがないことは分かっているが、いつまでも吹っ切ることができない恋を馬鹿にされているような気持ちになる。

「そうだよね。私が話しをする人なんて、有村さんくらいしかいないもんね……」

「だから、いきなり失恋なんて無理だよ」

 そう言った私の顔を田所さんがマジマジと見た。そして、なんだか嫌な雰囲気の笑みを浮かべた。

「そっか、有村さんしかいないのなら、有村さんにすればいいんじゃないかな?」

「は?」

「だから、私が有村さんのことを好きになって、有村さんが私のことをフってくれれば失恋ができるんじゃないかな?」

 思考がおかしい。全部がおかしいので、どこからどう突っ込んでいいものかわからない。

「それは絶対におかしいから」

「そう?」

「まず好きになるって宣言して好きになるなんてことないから」

「そうなの?」

「好きになるつもりなんてないのに好きになっちゃうのが恋でしょう?」

「確かに小説ではそんな感じではあるけど……。でも、好きになろうと思って、本当に好きになることもあるんじゃない?」

 私はひとつため息をつく。

「まあ、それは百歩譲ってそれはいいとしても、今から好きになるね、なんて言われて私はどうすればいいの?」

「今まで通りでいいんじゃない?」

「できるわけないでしょう」

「そうかな?」

「しかも、フってくれって最初に言われてるなんて居心地が悪いから」

「別に気にしなくてもいいよ」

「気にするよ。それに私、好きな人がいるから、そんな遊びに付き合ってる余裕はないんだよ」

 ついつい口が滑ってしまった。すると、田所さんはパッと明るい顔をする。

「それは好都合じゃない。私が有村さんを好きなれば失恋確定でしょう。有村さんは今まで通りにしてくれればいいから」

 それからも、なんとか田所さんにバカな実験を諦めさせようとしたが、最後まで止めるとは言わなかった。

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