第3話
カウンターで返却された書籍の整理をしていると、隣に座っている志鶴さんが「あっ」とつぶやいた。
「そうそう、大事なことを伝え忘れてた」
その声に何気なく志鶴さんを見る。隣に座っていると分かっていたのに距離の近さにクラクラした。
「もしも私がいないときに分からないことがあったら、あの人に聞くといいよ」
志鶴さんはそう言って図書室の奥の一角を指さした。そこには、本を読む女生徒の姿がある。その顔には見覚えがあった。
「えっと、確か……田所詠深(たどころよみ)さん?」
「知ってる子だった?」
「同じクラスです。まだ話したことはないんですけど」
「そうなんだね。あの子、図書室の主(ぬし)って呼ばれてるんだよ」
「主?」
「そう。ずっと図書室にいるから、ここにどんな本があるのか私よりも知ってると思うよ」
「委員長がそれでいいんですか?」
「別に、いいんでちょ」
志鶴さんの会心の笑みに、私は言葉を無くして見つめてしまう。すると、志鶴さんはみるみる赤くなった。
そんな顔を見て、ああ、好きだな、と思ってしまう。
「すみません、笑った方が良かったですか? あははっ」
「やめて、余計に傷つく」
顔を伏せた志鶴さんの姿に思わず笑みがこぼれた。諦めるために図書委員になったのに、余計に惹かれてどうするんだ、と心の中で自分を戒める。
この作戦は失敗だったのかもしれない。そう思いはじめていたとき、図書室のドアが開きひとりの生徒が入ってきた。
「そろそろ終わりだよね? 迎えに来た」
志鶴さんだけをまっすぐに見つめてそう言ったのは、ウチのバカ兄貴だった。
志鶴さんの表情がパッと明るくなる。頬の赤みや瞳の輝きが今までとは違うように見えた。私と二人のときには見せない顔に、ときめきと痛みを感じる。
「あとは閉めるだけだから、ちょっと待っててくれる?」
志鶴さんはそう言うと私に向き直った。
「じゃあ、閉めたら一緒に帰ろうか」
「「え?」」
私と兄貴の声がハモる。
「いやいやいや」
私が大きく首を振りながら言うと志鶴さんは小さく首を傾げた。
「でも、有村くんと美咲ちゃん、一緒の家に帰るんだし」
「兄貴と一緒に帰るなんて絶対イヤです」
「それはこっちのセリフだ」
私と兄貴の反論にも、志鶴さんは納得できないという顔をしている。
「あとは残ってる人を追い出して鍵を閉めるだけですよね? 私がやっておくので志鶴さんは兄貴と先に帰ってください」
「え、でも……」
渋る志鶴さんを無視して、私は志鶴さんの鞄を兄貴に押し付けると、二人の背中を押して図書室の外へと追いやった。
確かに、志鶴さんを諦めるために図書委員になった。だけど、三人肩を並べて帰るなんて冗談じゃない。兄貴が現れたときのあの表情だけで十分だ。
一緒に帰ってさらに見せ付けられた方が早く諦められるかもしれない。だけど、そこまでの痛みに立ち向かう勇気もない。結局中途半端なのだ。
諦めるためといいながら、本当は志鶴さんに少しでも近付きたいと思っているだけかもしれない。そんな浅ましい自分が嫌になる。
私は、一息つくと図書室に唯一残っている田所さんが座る席まで行った。その間、ざっと見回して他に残っている人がいないかも確認する。
「田所さん、もう閉める時間なんだけど」
田所さんのすぐ脇に立って言ったのだがまったく反応がない。
「田所さん?」
もう一度声を掛けたが反応はなかった。参ったな、と思いつつため息を付いたとき、田所さんがやっと動いた。
本をパサリと閉じると、本に手を当てたまま目を閉じて「ほぅ」と大きく息をつく。その深い吐息は、物語りの世界から現実へと戻ってくる儀式めいていた。
そこでもう一度「田所さん」と声を掛ける。すると、今度は私の声に気が付いて顔を上げてくれた。
「もう閉める時間なんだけど」
「あ、もうそんな時間? ごめんなさい。すぐに片づけます」
田所さんはそう言うと本を持って立ち上がり、書架の奥へと消えた。私はカウンターに戻り田所さんが来るのを待つ。
さほど時間もかからず、田所さんは荷物を持って現れた。そして、私に向かって「ごめんなさい」と頭を下げた。
「ところで、どうして私の名前を知っているんですか?」
本当に不思議そうな顔をする田所さんになんだか体の力が抜けてしまう。
「同じクラスなので」
「え? あ、そうだったんですね。すみません」
申し訳なさそうな顔をしたが、私はそれほど気にならなかった。田所さんはいつも本を読んでいたし話したこともない。私は、すぐにクラスメートの顔と名前を覚えたが、田所さんにとっては本を読むことの方が重要なのだろう。
そこまで徹底されると逆に清々しい。
「本、好きなんですね」
「はい」
「それなら、なんで図書委員にならなかったんですか?」
「図書委員になったら、本が読めないじゃないですか」
田所さんは何を当たり前のことを聞くんだという顔をしている。図書委員には本好きの人が多いのは事実だ。だが、田所さんの本好きは、そのレベルを超えているのだろう。
それは、回遊魚のようなものだ。泳ぎ続けなければいけない回遊魚のように、本を読み続けたい田所さんが、図書室にいるのに本が読めない状況は拷問のようなものだろう。
そんな会話を経て田所さんを見送り、私は図書室を閉めて帰路についた。
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