クロスロードの鳥
霞(@tera1012)
第1話
We are at a crossroads . 私たちは岐路に立っています。
どこかで見た、その例文が忘れられない。
「あーあ、俺も鳥になりてえ」
目の前で机に突っ伏した
「いやおまえ、ある意味もう、なってんだろ。……この、トリ頭が」
「うう……頭だけ鳥とか、それなんの罰ゲーム……」
「いいからさっさと、例文和訳しろよ。できたなら寄越せ……」
そこで俺の言葉は途切れた。
体を起こした颯斗のノートには、現実逃避に片手間に描いたのだろう、窓を眺める俺の横顔のスケッチ。
それを見た瞬間、俺の全身の血が逆流する。
どうしてだ。どうしてそんなに、迷いのない線が描けるんだ。
俺は、颯斗につかみかかり、その喉を締め上げたい衝動をやっとのことでこらえる。
「……お前、やる気ないんなら、帰るぞ、俺」
「いやー、お願い、助けてください。今度赤点だったらマジでピンチなんだって。神さま仏さま、
「……だったらさっさとやれ。脊髄反射で和訳が出てくるまでやれ、吐くまでやれ、単語帳食え」
「単語帳食ってすむんなら食いたいわ……」
俺はため息をつき、しぶしぶ英語のテキストに取り組み始めた親友の仏頂面を眺める。
目の前で電子辞書片手に四苦八苦しているこいつは、俺から見れば、とっくに大空を自由に飛んでいる、優雅な鳥だった。
県内でも有数の進学校であるこの高校で、颯斗は入学当初から、明らかに異彩を放っていた。高校2年の夏休みの今、たいていのこいつの言動は、「颯斗だから」という理由で、教師たちからさえも黙認されている。
こいつは、筋金入りの芸術家肌だった。
父親が前衛芸術家。家で鷹を飼うために、田舎に越してきてこの高校に入った。一年生の文化祭で、教室で個展を開いて自作のポストカードを売っていた。
こいつに出会わなければ、俺は、美大などという進路が選択肢に入る人生に、生涯触れることもなかっただろう。
子供のころから、絵を描くことは好きだった。ことさら意識してはいなかったが、おそらく他の何よりも好きだった。高校に入り、美術部があることを知った時は嬉しかった。田舎の公立中学校には、文化部は吹奏楽部しかなかったのだ。
光るものがある、美術教師からそういわれた時、俺は有頂天になった。そしてそこから、俺の苦しみは始まった。
「俺も鳥になりてえな」
胸の中でつぶやいたつもりの独り言は、口から漏れ出てしまっていたようだ。
「なりてえよな、気持ちよさそうじゃん、空をこうひゅーんって……」
「まあ俺は、お前と違って頭が重いからな。鳥になっても、一生飛べずに終わるかもな……」
いくら親友相手でも、他人にこんなクソつまらないセリフを吐いてしまうくらいには、俺は追い詰められていた。美大を目指すなら、これまで全く専門教育を受けていない俺は、少なくとも1年は専門の予備校に通わなくてはならない。それでも、おそらく現役合格は無理だろう。そして、その道を目指すのなら、普通の大学入試の受験勉強を同級生たちと同等にこなすのは、不可能だった。
「……いいじゃん、空を飛ばない鳥だって、かっけえよ」
「……どこがだよ。ペンギンとか見てみろよ、あれ、どう考えても進化の失敗例だろ」
地上を不器用によちよちと歩く鳥。えさを求めて、1か月も海まで行軍し、崖を登れず何度も転げ落ちる鳥。いつかTVで見た、ペンギンの衝撃的にぶざまな姿を、俺は思い浮かべる。
「ええ、ペンギンは超絶かっけえだろ。海ん中で飛び回るじゃん。空飛ぶよりかっけえよ」
「……そうなのか」
「え、渉、ペンギンが本気で泳いでるとこ見たことないの。すげえよ。……渉って、頭良くて何でも知ってそうなのに、時々びっくりするぐらい、物知らねえよな」
「……うるせー」
俺は、颯斗のノートのスケッチの美しい線を見つめながら、つぶやいた。
描きたい。今すぐ、
そのとき俺の中にあったのは、ただその欲望だけだった。
俺は鳥になりたい。
この身体から生えているものが、地を蹴る手足ではなく翼だと、感じているから。
必死に羽ばたいても、大空を飛ぶことができなくても、その向こうに、俺のまだ知らない海原が、広がっているかもしれない。
それを見ることができるのは、多分、鳥になろうとした者だけだから。
「ああ、腹減ったー。帰りに、マック寄ろうぜ」
あっという間に集中力を切らしたらしい颯斗の言葉に、俺はニヤリと笑い返す。
「おう。ここまで付き合ったんだぞ、今日はお前のおごりだよな」
「ええー。俺、今、サイフピンチなんだけど……」
笑いながら目をやった窓の外では、抜けるような青空を、名前も知らない大きな鳥が軽やかに横切って行った。
クロスロードの鳥 霞(@tera1012) @tera1012
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