第15話 失恋
月曜日の雷雨によって、その後数日の気温がガクッと下がった。
渦巻く灰色の雲はまだこの街の上空を漂っていて、憂鬱な雰囲気を漂わせている。
学校も全ての課外活動を中止し、学生たちもテスト期間にシフトしていった。
この数日、耳に入ってくるのは先生達の声と雨音だけ。
職員室まで玖嘉先生に宿題を届けに行った時の話題も勉強のことだけ。
恵ちゃんのことで言い争ったあの日から、先生と私は勉強以外のことを話さなかった。
私も先生と他の話がしようとはしなかった。
もうすぐテストだし、そっちの方が好都合だと思った。
他のことはテストが終わってからでも遅くはない。
「もう金曜日かぁ……」
校舎の玄関口に立って手を外に伸ばすと、雨水がパタパタと手の平に落ちてくる。
「冷た……」
天気予報を信じるべきじゃなかった……!
今日は一日曇りなんて言っていたから傘を持たずに出てきたら、放課後には小雨が降り出してしまった。
大きい雨ではないが、十分以上かかる家までの道のりを傘をささずに歩いていけば流石にびしょ濡れにはなる。
この数日ずっと雨だったのに、天気予報を過信して傘を置いてきた私も大概馬鹿だ。
どうしたものか、と立ち尽くしていると。
「友理」
後ろから聞き慣れた声が掛けられた。
振り返ると、頭に浮かべたとおりの姿があった。
え……「玖嘉先生……、こんにちは」
「雨が降ってきたわね。友理、今日は私が車で送って帰るわ。車は校舎の近くに止めたから濡れないわよ」
「ありがとうございます。……でもそしたら先生が遠回りになっちゃうのでは?私は自分で帰れますよ」
「平気よ。たったの数分車だと大して変わらないわ。……もし私を気遣ってくれるのなら私の家に来てくれてもいいのよ?」
…………うん。恵ちゃんのことではまだ納得できてない部分もあるが、いつ止まるか分からない雨をここで待つよりは、送ってもらった方がいいだろう。
「行きましょう?」
そう言って先生は私に笑いかけた。
なんだか久しぶりに先生の笑った顔を見た気がする。
雨音も聞こえないくらいの小さな雨がガラスに水滴を作っていく。
濡れる心配のない車の中で座り心地の良いシートに座りながら、窓の外の雨を眺めるのはなんだか気持ちがいい。
「来週の授業は、今より進みが早くなるかも」
「今週の授業も前よりずっと早くなっていましたよね」
「うん、月曜日に友理に復習スケジュールを見てもらっておいて良かった。詳しく説明する必要のある部分とない部分をまとめてくれて、大分時間を省略することができたわ。元々のスケジュールのままだったら、復習にかける時間をあまり取れなかったから。ありがとう、友理」
「いえ、そんな……。英語係の仕事をしたまでですから……」
雨のすだれが外の風景を白ませていたせいか、気が付くといつの間にか車はもう先生の家の下に着いていた。
先生は車を、雨が当たらない屋根のあるところに停め車を降りた。
それから先生の家に着くまで、私と先生は一言も喋らなかった……。
先生の家に入ると、直ぐにテーブルに積まれたデリバリーの空箱の山に気が付いた。
椅子の上にも畳まれていない服が無造作に掛けられている。
この間の掃除からまだ二週間しか経っていないのに、すっかり元通りになっていた。
長続きする雨のせいで洗濯物が中々乾かないのだろう。
ベランダに吊るされた服は数を増しており、元々明るくない部屋を更に暗くしていた。
遠くに見えるはずの梧桐山は煙たい雲に巻かれて見えなくなっている。
「友理、座って」
ソファーに腰を下ろした先生が、隣をぽんぽんと叩いて私に座るよう促す。
私はリュックを降ろして、先生の示すままに腰を下ろした。
「水飲む?」
「い、いえ、水筒にまだ温かい水が残っているので……」
「そう……」
「…………」
「ねぇ、友理」
「はい」
「なんだか今日の、……ううん、最近の友理、少し冷たい感じがするのは気のせいかしら?」
「え、そうですか…………?すみません」
先生は勢いよくこちらに顔を向けると、ぐいっと距離を縮めてきた。
「そうよ!チャットでも積極的に話しかけてくれないし、返信も遅いわ。職員室に来た時もなんだか表情が冷たいし……。私ずっと友理から話しかけてくれるのを待っていたよの?……私がこの数日間、どれだけ疲れててどれだけあなたのことを必要としていたか分かる?」
ぐちゃぐちゃになった不満な気持ちをぶつけるように、先生は少しずつ身体を近づかせてくるから、私はそれに合わせて少しずつ後ろに下がっていった。
「なんで慰めてくれないの……?なんでそんなに冷たいの……?」
どうすればいいか分からず、私は小声で小さく謝るしかなかった……。
「……ネット友達と遊びに行かせなかったから……?」
初めて先生が恵ちゃんのことを口にした。
恵ちゃんのことをどう解決すればいいか、どう話せばいいか分からないし、話したくもない……
「やっぱりあの子のこと……」
「ち、違うんです……。ただ、どう先生に返事すればいいか分からなくて……」
思わず先生の言葉を遮って答えた。
気が付けば、先生の右腕が私の首に、左腕が腰に回されて、ソファーに押し倒されていた。
視界いっぱいに、灰色の天井が広がる。
「せ、先生……?」
「私が友理の彼女なのよ……?」
「せ、先生……」
「私は友理しかいらないの、友理がいてくれればいいの……!」
独り言のような声量で呟かれる言葉。
先生の髪が首筋に当たってくすぐったいのに、身体を動かすことが出来ない。
耳の横で、布と肌が擦れる音がして、先生が頭を横に傾けたのが分かった。
冷たい唇が首筋に触れて鳥肌が立つ。
先生は頭を私の首にうずめたまま、ゆっくりと何かを探るように、何か答えを得ようとするように、頭を動かしていく。
「先生……!」
大きな声を出したお陰か、先生は動きを止めて起き上がった。
私も急いで身体を起こす。
「ご、ごめんなさい友理……。嫌だった……?」
呼吸が落ち着いてくるに従って、心もどんより……落ち込んでいくのが分かった。
「すみません……先生。今日の先生は少し冷静ではないのようなので……、私は帰りますね……」
「ごめんなさい……。でも雨が降っているわ。私が送って……」
「いえ、自分で帰れるので」
きっぱりと先生の申し出を断り、床に置いたままのバッグを拾い上げて玄関に向かう。
ただ一心にここを離れたかった。
時間を掛けずに靴を履き終え先生の家を出る。
ドアの隙間越しに見えたのは、暗い部屋の中で一人ソファーに座ったままの先生だった。
なんであんなに嫌だったの?
もし以前だったら……、こんなふうに先生に抱きしめられたら、きっと嬉しさで舞い上がっていたはずなのに……。
細かな雨が服を少しずつ濡らしていく。
私はそれを何かで遮ろうともせず、服が肌に張り付こうとも気にしなかった。
雨で冷たくなった風が顔に吹き付け、息を吸うごとに肺を冷やして呼吸を重くする。
私は先生が好きだ……。
好きだけど……、今は先生といることに……息苦しさを感じるようになってしまっていた。
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