第11話 彼女の家

……………え?

ええぇぇぇ……!?

「ほ、放課後……、先生の家に……?」

いつものように集めた宿題を先生のデスク脇に置くと、先生は、振り返って期待を込めた顔で私にそう聞いた。

思わずおう返ししてしまうくらい突然で衝撃的な質問だった。

「うんうん、どう?」

うそ……やばい……やばいやばい……やばいよ!

緊張しすぎて、もう手をどこに置いたらいいのかすら分からない。手汗が止まらない。

先生の家、行きたくないと言えば絶対ウソだ。

むしろ行きたい。すごくお招きに預かりたい。

しかし流石に早すぎない……?

「ねぇ、来いよ~」

先生は私に、冷静になって考える時間はくれなかった。

眉間にわずかに皺を浮かばせながら、微笑んで再度私に問う先生。

この微笑みを拒否できる人がこの地球上に存在するのだろうか…。

なんでこんないきなり、と聞こうとして開いた口から滑り落ちた言葉。

「行きます」


こうして、私はなぜか、今晩先生宅にお邪魔することになった。

「まだ終わらないのか……」

午後の自習の時間。

ちらちら時計を見ては、小さく独り言が漏れる。

早く早く、と祈りながら時計をガン見する。

そして終わりのチャイムが鳴った瞬間。

「晴星、また来週ね!」

とっくにまとめ終わっていた荷物をひったくるようにして持つと、晴星に声をかけながら教室を飛び出した。

一分早く着けば、一分早く先生の家に着けて、一分長く先生の家にいれる。

駄目だ駄目だ、落ち着け。

また初めてのデートの時みたいに、息切れと汗だくで先生の前に現れることになる。

そうならないようになるべく速く、しかし走らないように、大股速歩きで待ち合わせ地点まで行った。

「先生の車だ……」

待ち合わせ場所で、先生の車はエンジンを掛けたまま私を待っていた。

車の傍まで行くと、運転席の窓が降ろされる。

「先生、こんにちは……」

「うんうん、友理乗っちゃって~」

助手席の方に回り、慣れた手付きでドアノブを掴んだ。

このドアを開ければ、待っているのは、私に大きく扉を開いた先生の家…!

表情だけは平静を保ちながら助手席に乗り込む。

嗅ぎ慣れた百合の花の匂いがして、私の心臓はまた加速する。

「おうちの人には遅くなること伝えたわね?」

「い、言いました」

こくこくと頷いた私を見ながら、先生は笑った。

「うふふ、友理は今日も随分と早い到着なのね」

「そ、そうですか?普段一人で歩く時は大抵早足なので…」

少しでも早く玖嘉先生の家に行くために死力を尽くしました、とか言えるわけがない。

それに金曜日午後は先生の授業は無いはずだから、待たせたくなかったというのもある。

「そうなのね~、じゃあ早速出発しましょうか?」

「はい……!」

先生の家の場所は、この間バス停近くで会った時に言っていた、梧桐山ごどうさんの麓あたりとしか知らない。

今日やっと、詳しい住所を知ることができる。

とにかく、車の通った道を見て、先生の家への行き方を覚えておこう。

そうだ……先生に聞きたいことがあった。

「それで……」

「ん?」

「先生はなんでいきなり私を家に呼んだんですか?」

朝に誘って、午後には出発。覚悟する時間すらなかった。

告白の時もそうだし、家まで来た時もそうだ。先生のやることはいつも突然だ。

「うーん、なんとなく、友理に家まで来てほしいって思って。本当は前みたいに、一緒にどこかご飯食べに行こうかと思ってたんだけど、今週は中々予定が決まらなくてね。今日の朝になってやっと、放課後の会議なしって決まったの」

先生が小さくため息をつく。

「それに今週なんだか凄く疲れてて……、蓮塘れんとうを出るのも少し面倒で…。でも友理とは一緒にいたいし、って考えたら、じゃあ家に来てもらおうって思ったの!」

先生今週そんなに忙しかったんだ…。大変かな…。

ちょっと可哀想になってきた。

車が坂道を登り始める。

山の麓まで着いた所で、先生は左に曲がって、一つの小区ゲーテッド・コミュニティーに入っていった。

ここが先生の住んでいる所なのかー。

車に乗り込んで多分五分ほどしか経っていない。

先生の家への道のりを忘れないように、周りの風景を目に焼き付ける。

小区に入ると、また小さな坂道を登っていって、左折して止まった。

「……着きました?」

「着きましたよ~。ちょっと待ってね、今車を停めるから」

車を降りて、目の前にそびえる二十階はありそうなマンションを見上げる。

一番上まで見上げたら顎が外れそうだ。

先生はスマホでオートロックを解除すると、迷わずエレベーターに入っていき、音もなく上がるエレベーターはあっという間に十二階に辿り着いた。

先生はとあるドアの前で足を止めた。

十二階の二号室。なるほど……絶対忘れない。

先生の家のドアは、他の家と比べて随分と『綺麗』だった。

春聯しゅんれんも、ふくの字も貼られてない、まっさらなドア。

玄関で靴を脱いだ先生を真似して、私も靴を脱いで、先生の靴の横に揃えた。

先生は靴箱から二足同じスリッパを取り出して、私に渡した。

「はい、友理はこっちね」

ピンク色のもこもこスリッパが手渡される。

玄関からそのまま繋がっているリビングに着くと、先生はソファーの方に歩いていった。

ボフン、とソファーに座り込む姿はまるで、一気に空気が抜けていく風船のようだった。

「ふぅ、疲れたぁ……」

私も静かに先生の隣に座ってみる。

ふかふかしたソファーはとても気持ちがいい。

ここが先生の家。

1LDKの間取りは、一人暮らしには十分の広さ。

壁は白一色で塗られ、少ない家具も大して模様がないシンプルな物ばかり。

ソファー、ダイニングテーブル、椅子、小さな机。

それとテレビやケトルといった簡単な家電。

典型的な独身女性のお部屋といった感じ。

ん……?待って。

ダイニングテーブルの上に見えるあの大量のゴミは……なに?

「友理、今日の夜ご飯どうしようか?デリバリーでも呼ぶ?もし好きなものがないなら外で食べてもいいよ」

先生がそう話しかけてくれるが、テーブルの上に積まれたゴミの山に私の心中は穏やかじゃなかった。

「せ、先生……、あの、テーブルの上のゴミは……?」

「あぁ、ごめんごめん。あれはデリバリーの箱とかそんなのよ。最近夜はいつもデリバリーだからゴミが増えちゃって」

「いえ、私が聞きたいのはそういうことじゃなくて……、ここのゴミはもう何日捨ててないんですか……?」

「み、三日くらいだけよ?その……、毎朝ゴミを出すのを忘れちゃうから、少し溜まってから捨てようかなと思って……」

自分で言ってて流石に良くないと思ったのか、声がどんどん小さくなっていく。

「匂いとゴキ○リが出るでしょうが!!!」

堪らず説教じみた一言が口をついて出る。

よく見てみると、家の中全体が結構散らかっている。

椅子の上に無造作に掛けられたパジャマに、ぐちゃぐちゃに絡まったコンセント。

置かれたいくつかのゴミ箱の中身は全て溢れんばかりになっている。

「床も汚い!!」

先生自身も、車の中も綺麗でいい匂いがしていたから、当然家も綺麗にされていると思っていた……。

「あ……、でも友理、散らかっているのも……最近だけなのよ?」

苦笑いしてそう言いながら、両手を顔の前で振る。

家が汚いという自覚はあるようだね……。

「ほら、お掃除ロボットもあるの……!この子に掃除させよ……!」

そう言いながら、先生はあたふたスマホを取り出してロボットを起動させようとした。


「……あ、あれ?おかしいわね。反応しないわ……」

「あー……、コンセントが外れてます……。今挿しますね」

「え!つまり充電が終わるまで使えない…?」


……………。

「先生……ほうきちりり……貸していただけましょう……」

こうして…私は、なぜか先生の家の掃除をすることになった。

「こういったコードは、こんな感じでまとめておくとすっきりします。コードを整理するための箱なんかも売られているので、そういうのがあれば尚良いです」

「あと、このゴミ!すぐに片付けてください。特に生ゴミとか食事で出たゴミはその日の内に出しておくこと!」

忙しく片付けながら、先生に一つ一つ言い聞かせる。

こうして掃除を始めてから三十分。

「わ~、すごいわ!リビングがキラキラして見える!ごめんね、友理にこんなことさせちゃって……ありがとう!」

「まったく本当ですよ……。いいですか?掃除ロボットのコンセントは抜かないように。今の状態をきちんと保ってくださいね」

広い家じゃなくて良かった……じゃなかったらどれだけ時間がかかってたかも分からない。

夜ご飯を作り終わって時計を見ると、針は六時半を指していた。

四月上旬の空がやっと赤らみ始めている。

「わぁ!すごい、美味しそう!これ全部友理が作ったの?」

簡単な料理しか作っていないにも関わらず、テーブルに並べると先生はご馳走でも見たかのように喜んだ。

「このブロッコリーと豚肉の炒め美味しい!」

あの高級レストランで食事した時も、こんなに美味しそうにはしていなかった。

「よ、よく作られている家庭料理ですよ……」

あまりに喜ぶから、なんだか恥ずかしくなってきた……。

先生が普段外で食べてるものは、こんなただの惣菜よりもっと良いものなのに。

「だって本当に美味しいんだもの!それに彼女が作ってくれた料理だって思うと百倍美味しい!」

先生のキラキラした笑顔が私の心にクリティカルヒットして、私の顔も熱とともに赤く色づく。

外の空が段々光を失っていくのを見て、太陽の光は多分先生に全部吸い取られちゃったんだなと思った……。

そう言えば、あのゴミを見るに、先生は普段デリバリーしか食べないの?

でも冷蔵庫には色んな野菜とか肉が詰め込まれていた。

「先生は料理作ったりするんですか?」

「偶にね。でも、その……、時々食べれない物を作り出してしまうのよね」

た、食べれない物……?

「前に豚肉を焼こうとしたのだけど、出来たのは、硬くてパサパサしてて、味がなくて、しかも所々焦げてて苦かったの……」

私の脳裏に、先生が作ったダークマターが浮かぶ。

先生は頭をかきながら、えへへ、と可愛さで誤魔化そうとする。

「それに作った後の片付けも得意じゃなくて……、デリバリーにいい加減飽きてきたから、どうしようもなくなって自分で作ろうとしたの」

そう言いながら先生は鶏肉を口に運んだ。

「ん~~~、美味しい!友理コックさんになれるわよ!レストラン開いてみる気ない?私毎日通うわよ!」

先生がまた大げさに私の料理を褒める。

そのせいで少し真面目に、レストランを開いてコックをしている自分を想像する羽目になった。

「まさか家で、誰かが作ってくれた手料理を食べれるとは思わなかったわ…」

ふと、この間歩道橋で見た、あの笑ってるような寂しげような表情が浮かんだ。

……。

「もし良かったら、私……これからも作りますよ?」

「……ほ、本当!?いいの!?良かった!楽しみ!」

ご飯を食べ終わると、空は完全に暗くなっていた。

先生の家の灯りはほとんど、私の好きな暖色系だ。

私は先生とソファーに並んで座って、前に伸ばしてぷらぷら揺れる先生の足をながめていた。

家でしか見れない先生の姿を楽しむ。

テレビでは深圳しんせん公共こうきょう頻道チャンネルが出されており、古い広州のドラマの最新話が放映されていた。

来年には三千話を超えるらしいこのドラマの画質は、私が小学生の頃と対して変わっていない。

「本当に長く続くドラマよね、これ」

先生が私と同じ感想を口にする。

「ふふ、そうですね」

食べ終わってからテレビを点けた時には、既にドラマ開始から大分過ぎていたらしく、ストーリーもまだ理解しない内にドラマが終わってしまった。

背もたれに寄りかかっていた先生が、こてんと横に倒れて目を閉じた。

「ふぅ……、やっぱり寝転んでいるのが一番楽ね。帰ってきてすぐに掃除して、少し疲れちゃった」

今晩の先生は、いつもより疲労の色が濃いように見える。

私はリモコンを持ち上げてテレビを消した。

「先生、今日は早めにシャワーして寝ましょう。私は後で自分で帰りますから」

先生はうっすら目を開くと、一等優しげな声で、私の名前を呼ぶと、腕を伸ばして私を誘った。

まるで催眠術に掛けられたかのように、私は抵抗もせず、その腕の中に倒れ込んだ……。

前に車の中で抱きしめられたのと同じ感触と香りが私の呼吸を乱す……。

「友理、私のこと…お姉ちゃんって呼んでみて」

え?

「……なんでですか?」

「なんでって、私はあなたより年上なのよ?」

どうみても私の方が姉に見えるのに……?

こんなにも甘えん坊で人懐こい先生の方が妹要素が強いでしょ。

それなのになぜか私に姉と呼ばせようとするのに、私はムッとして言い返す。

「嫌です。先生って呼びます。それにどちらかと言えば先生が私を姉と呼ぶべきでしょう……?」

「あら、私より六歳も年下のくせに、うふふふ」

自分で言ってて面白くなってきたのか、声もさっきより大きくなって元気が出てきたようだ。

私はまた子供扱いされたみたいだけど……。

「……きっと、私は友理から離れられないわね。そんな気がする……」

耳元で囁かれる声に頭がぼーっとする。

「あと一月もしない内に中間テスト……。復習スケジュール、沢山の会議……、やることがいっぱいだわ……」

そう言えばそうだ。テスト前の準備をそろそろ始めなければならない。

テスト期間、生徒たちはいつも疲れた疲れた、と口にするが、その裏で先生たちがどれだけの労力を注いでいるか考えたこともなかった。

「実はね、前学期のテストの成績、私の受け持つクラスだけ平均より低かったの。中間も期末も……。きっとテストの要点となるポイントをあまり強調して話さなかったからだと思うの。私の教え方に問題があったばかりに、皆には……申し訳ないことをしたわ……」

自責と自分の能力に対する懐疑。

独り言にも似たその言葉には、そんな感情がありありと浮かんでいた。

どんな言葉で慰めればいいかなんて私には分からない。

だから、私は頭に浮かんだままに両手を先生の背中に回して抱きしめた。

細い腰だ……、すごく痩せている……。

普段ちゃんとご飯食べているのかな……。

教師もテストに対して、こんなにプレッシャーを感じていたなんて初めて知った。

でもそれって先生がすごく責任感あるってことだよね。

「先生は、教えることが好きで先生になったんですか?」

「違うよ」

凄くあっさりと先生はそう答えた。

そして付け足すようにしてこう言った。

「学校の先生には夏休みと冬休みがあるって聞いたから。それに深圳の高校教師ってお給料がいいから先生を始めたの」

先生の腰に回していた腕が無意識に緩む……

「んん……なにか、こう、崇高すうこうな理想とか持ってなったんじゃないんですか?」

だって先生はこんなにも真面目に教師という仕事に向き合っているから、てっきりそういう憧れとか理想とか持っているのかと……。

「な、ないわよ…ここのお給料は本当に魅力的なのよ…それにちゃんと仕事しているでしょ!」

先生がアセアセと理由を並べるのを見て、教師をしている理由が単純に「給料が高い」というとても現実的なものだと知った。

ここまで聞いて、私はなぜが笑いがこみ上げてきた。

「これからの一ヶ月はどんどん忙しくなるわ。きっと友理と過ごす時間もあまり取れなくなるかも……。そう考えたら一気にへこんじゃって……」

「大丈夫ですよ。私達、学校で会えるじゃないですか。週末になったら私が先生に会いに来ます。先生の家の場所は、もうバッチリ覚えたので~」

先生が喜びそうな言葉を並べる。

「うん……。友理は私が忙しいからって浮気しちゃ駄目よ?なんだか誰かに取られそうだわ」

いや、『取られそう』って……。

「遊びに行くのは良いけど、絶対私に教えること」

遊びに行くのにわざわざ先生に言わなきゃいけないのか……。

恐らく先週、私が先輩や恵ちゃんとアニメフェアに行ったことがトラウマになっているのだろう。

玖嘉先生って、やっぱりヤキモチ焼きのお子様だ。

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