影の言葉

sisi

影の言葉

 川一面を染めるほど真っ赤な夕日が、ボーンボーンと鳴いている。


 三味馬さみばは、疲れ果てた、寂しい気持ちで遠くの空を眺めていた。この町では、滅多に烏が鳴かないせいで、通り過ぎる夕焼けだけがぽつりと終わりを告げている。真っ赤な、真っ赤な空は、遠くを走る車の音も、さよならを告げる子供の声も、全てを遠のかせていく。彼には、ひどく早い一日に思えた。


 そう、彼はずっと、帰る場所を探していた。あの恐るべき両親も、ろくに連絡を取らなくなった友人も、きっとそうなのだろうと、彼は心の中でささやいた。きっとそうなのだろう。きっとそうなのだろう。


 そのための方法としては、ずっと川辺の道を歩み続ける自分の姿は、ひどく不恰好に見えた。これがどうしようもないのだと弁明するような思いは、彼の中にはなかった。それでも、夜明けはまだずっと来ない。


「あれ、三味馬さんですか?」


 そうだ、俺は三味馬だった。忘れそうになる輪郭は、別に、彼を許してくれるものではなかった。


「ああ、懐かしいな。あれからどうしているのかと、ずいぶん思っていたんですよ」


 三味馬は何を言わずに、赤い夕日でできた自分の影だけを見、歩みを止めない。


「無視しないで下さいよ。ねえ、どうしたんですか」


 三味馬はやはり黙り込んだまま、俯いたまま、声に背を向けて歩いた。こういう奴ほど、まるで信用できないものはないのだ。それが自分を苦しめる鎖であったとしても、その鎖を放つことさえも苦しみなら、俺はなんだっていい。彼は心の中で、そっとそうささやいた。それでも相手は、思いのほか辛抱強い。「そこ踏むと転びますよ」とか、「最近はよく歩くんですか?」とか、「どこか行く予定があるんですか?」と、いつまでも背中から、独り言に近い問いを三味馬に投げかけている。


 歩くたびに、こだまが聞こえるようだった。彼は、地面に足をしたたかに叩きつけて、怒鳴った。


「うるさいな」


 三味馬は立ち止まってからまず、思いのほか大きな声が出たな、と思った。それから、ちょっと申し訳ないことをしたかもしれないと気がついた。なんの音も聞こえなくなったような気がして、彼は心配になって、俯けていた顔をすっと上げた。


 あたりを見渡すと、もうすっかり夕日はしぼんで、月だけが、からんからんと晴れている。そうやって、夜が青く咲こうとしていた。肌をかすめる風も、こころなしか冷たい。いつのまにか、あの真っ赤な夕日の音さえも、ずっと遠くで響く祭囃子まつりばやしのようだ。


 あの相手はもうどこにもいない。


 「おーい」


 彼は手で口に筒を作って、叫んだ。今度はどうしてか、とても小さな声だった。声は川を超えて、山を越えて、どこかでかすれ続けながら、どこまでもどこまでも響く。夕日にさえも聞こえたかもしれない。


「おーい」


 口から、さっきよりは大きな声が出た。その声はどこまでも、闇にある光のように駆けていく。とうとう、川のせせらぎも、そばに生えるアシのこすれる音も、全部が全部、一つの輪郭を成していた。


 そうか。彼は心の中でつぶやいた。


 そうか。


「まだ夜も更けるのだろう」


 彼は、心に浮かんだ、何か確信めいた言葉を口に出して言った。


 彼も、多分笑っていた。

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影の言葉 sisi @caso

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