ジョディの災難 3
人生の鳥羽口に立ったばかりの若造の心胆を寒からしめた。
あの戦慄の一幕からしばらくたったある日の事。
夫の方が一人で犬を連れてやってきた。
「今日、奥様はお留守番ですか」
関係性はどうあれ、いつも病院へは一緒にやってくる夫婦なのだ。
僕は何の斟酌もなく挨拶代わりに問いかけていた。
はっきりいって、私生活のありように何の興味もない相手だった。
そのせいもあり僕は前回の気まずさと緊張感を失念していたのだ。
「別居中なんですよ」
やらかしちまったと思ったが、時すでに遅かった。
人間のカウンセリングは専門外だしね。
元より人様の事情に首を突っ込む趣味はない。
ましてや夫婦間の仁義無き悶着の真相など、毛ほども知りたい思わなかった。
だがしくじった。
僕は犬の病気にかこつけた、おっさんの愚痴を聞かされる羽目に陥った。
僕は犬の治療をしながらどんよりとしてしまったね。
「ソーデスネー」
なんて、まったく心のこもらない相槌を何度打ったことか。
診療後、連れ合いへの悪口を垂れ流したおっさんは、尿閉を解除した雄猫みたいだった。
スッキリ顔で帰るおっさんの後ろ姿を僕はジト目で追った。
ジト目で追いながら、心底げっそりしたことを覚えている。
おっさんは夫婦二人で来院した時より、あきかに朗らかで元気そうだった。
愚痴を垂れ流す前ですら表情は明るかった。
今まで結婚なぞ考えたことも無い僕だった。
だがその事はひどく意外に思えた。
かつて普通の夫婦にしか見えなかった時だっておっさんはそんなに幸せそうじゃなかった。
犬ですら夫婦に連れられてきた時よりリラックスしていたのだし。
表情も柔らかくて楽しそうだったのはびっくりだ。
結婚って何だろう。
夫婦ってどうだろう。
僕は少しく考えこんでしまった。
「民事不介入。
これは鉄則だよ」
ともさんは一人と一匹を見送ってしばらくしてから、僕を手招きした。
「飼い主さんとは、表はニコニコ内では鉄面皮にな。
色んな人がいるからね。
いちいち生真面目に自分の全人格使って応接していたら身が持たないよ。
俺達は心理学者でもカウンセラーでもないからね」
「そーですか」
「なんだパイ。
そのひとを小馬鹿にしたような“そーですか”ってのは。
それにその目。
俺、今結構良いこと言ったのに。
お前の眼差しに敬意のケの字も感じられないぜ」
「えっ。
そんなこと無いですよ」
僕は唇を歪めてみせたのだが、大いにそんなことはあったのだ。
ともさんはいつだって、動物や飼い主さんの窮状に深く首を突っ込みすぎる。
そうして、しないでも良い苦労を背負い込んだり。
何の得にもならない喧嘩に腕をまくり上げたり。
挙句の果て負わなくても良かった心の傷に苦しめられることになるのだ。
僕は『その口で何を言いやがるのかこいつは、まったくもって呆れちゃう』って言う気持ちだったのだ。
ジョディの時だって、後日ともさんが往診に出て留守だったある日の午後。
母親と娘さんが果物を持って、礼を言いにいらしたのだよ?
母親の表情がとても明るくなっていた。
娘さんも先日とは打って変わって子供らしい笑顔だった。
そのことにはしらけ世代の僕だって、大いに気持ちが和んだものだ。
珍しいことに、スキッパーまで足元に座り心を込めて尻尾を振っていたのだからね。
これはもう、滅法筋の良い佇まいだったに違いないよ?
にこやかな母子のお礼は、治療に対するお礼ではないと言う事だった。
ともさんは不在だったのだが、ふたりはただひとことお礼が言いたかった。
そうおっしゃっていた。
おふたりは何ら説明のないまま直ぐに暇を告げた。
おふたりは本当に嬉しそうに頭を下げて帰って行った。
僕としては当初、おふたりの言いたかったお礼の意味が分からなかった。
「はぁ?」と困惑しきりだった。
さよならと会釈するふたりに取り敢えずは腰を折り。
そのまま果物の包みを胸にしてしばし立ちつくした。
そうしてボンヤリしていたところ。
スキッパーにいきなりな膝カックンをくらった。
不意打ちに驚いて我に返った僕は、何事ぞと振り返った。
すると半眼のスキッパーが『察しろボケが』と侮蔑の眼差しを送ってよこしたものだ。
どうもジョディが縛創で来院した一件の後のこと。
ともさんはあの険のある父親と結構じっくり話し込んだらしい。
電話でも数度遣り取りをしたという。
一度などこれは偶然だったらしいが、駅前の焼鳥屋で行き合わせた。
ともさんは父親を酔い潰し、家まで送ったのだとか。
時々に、どういう会話が交わされたのかは謎だ。
だがともさんがひとたらしのスキルを存分に使っただろうことは想像に難くない。
なればお得意の懐柔策を駆使して父親に意見でもしたのではと思い至った。
そうして獣医師の職分を大きく逸脱した余計なお節介を焼いた。
おそらくそう言うことではないだろうか。
母子のまとう雰囲気の変化がその結果と言うのであれば合点がいく。
訳の分からぬお礼の意味もそこに関連していたのなら納得だ。
そこまで考えて、僕に対するスキッパーの態度の意味がようやく理解できた。
スキッパーは僕みたいな青二才より、遥かに人情の機微に通じていらっしゃる。
そう言う事だ。
頭の痛いことに焼鳥屋の勘定は、ともさんの性格からすればおごりだったはずだ。
とすれば、ジュディについての収支は全くの赤字だったに違いない。
せめて領収書を持って帰ってくれればとそれだけが残念でならない。
領収書さえあれば、不詳経理担当の私めが接待交際費として計上したのに。
ため息がでたが、ともさんにそれは期待できなかった。
一連の出来事の後あすかちゃんは、すっかりともさんとスキッパーに懐いたようだった。
ちょくちょく病院に遊びにも来るようになった。
診察室の整理整頓や掃除を手伝ってくれたり。
彼女の友達や知り合いの犬猫を紹介してくれたり。
まあ、ともさんのお節介も全くの持ち出しにはならなかったわけだ。
とも動物病院の経営にとっては禁忌のはずの民事介入ですけどね。
ひとまずは幸いでありました。
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