天使の落とし物
ミロク
1話 あなただけ見つめてる① プロローグ
それはあまりに突然のことだった。
いつものように登校し、道端でばったりと出会う幼馴染と共に学校へ向かう。
いつものように授業を受け、昼休みに教室で友達と絡んで遊ぶ。
放課後にも友達と絡んで、他愛も無い話をする。
家に帰り、食事と風呂を済ませると、部屋に戻って眠たくなるまで静かに読書した。
そしてそれを毎日繰り返す。
変わることのない日常。
僕はそうやって生きていく。植物も人間も、誰もが呼吸をするのを当たり前にするように。
社会の一部として動いていれば、それでいいのである。
そう……変わらないと信じていた。
僕の目の前に、物理法則を超えた現象と、その的にいる
「僕たちがオトした物を探してきてくれないかい?」
これが彼奴と僕の出会い。
腐れ縁の始まりである。
***
僕の名前は日高仭。
寝癖も直さずに欠伸を欠く間抜けな学生だ。
どこが間抜けなのかというと、それは性格である。
空気を読まずに思ったことを言ってしまったり、誰かとの言動や意志がずれてしまっていて、息が合わない。
要はデリカシーが無いのである。
それが自分でも分かっているのに、堪らず行ってしまうことも含めて間抜けと言ったのだ。
当然の如く、友人は少なく、今に三人程度ほどに至った。
けれど、今になってはそれでよかったとも思える。
友人関係を浅く広く……よりも、狭く深く……の方が心のキャパシティにすっぽりと収まっていた。これ以上増やすとめんどくさくなる。
そろそろ——この角を曲がった先に、友人の一人が立っている。
その友人とは幼馴染で、互いのプライベートやあまり知り合いには言えない事情も言える仲である。
「あっ! おっすー」
そう僕に声を掛けた女子……天海萌芽。
同い年の女子の中では、美人の類に入るだろう、端正な顔立ちながら幼さが残っていて、そのあどけなさが、男子からの人気を博している。告白されたことも何度かあるらしく、毎度断っているらしい。僕には無い話だ。
「おう。なんか髪型変わったか?」
僕は、萌芽の違和感を言った。
「えへへ。どう? ポニーテールにしたんだ」
「似合ってるな」
「ありがと」
萌芽は照れたように笑った。
二人で歩いていると、道すがら眠たそうに寝首を傾げる黒猫の姿が見えた。
萌芽の性格上、恐らく近寄って猫を可愛がることぐらい、僕の想定の範囲内だ。
案の定、彼女は猫に近寄り、その場にしゃがむと、人差し指を上手に使って、猫の顎を撫で始めた。
小動物はあまり好かないが、萌芽が立ち止まってしまっては仕方ないので、遅い足取りで猫に近寄ると、まるで僕のことを化け物かのように見る目つきで、猫は僕に威嚇をして見せた。
いつもこうなのだ。こうなってしまうから、萌芽にも猫にも申し訳が無い。
動物が僕を嫌う理由……自分が好いていないのだから当然なのかもしれない。その気持ちが、動物たちには見えているのだろう。全く僕と違って賢い生き物だ。
猫は壁をよじ登って、颯爽と去っていった。
「あーあ。分かってたけどいつも通りだね、仭くん」
「僕が好きじゃないんだから、それが出ちまってるんだろうね」
「うーん。なんで動物は君のことが嫌なのかなぁ……」
「それが分かれば苦労せんだろ」
僕は適当に返事をした。
萌芽はそんな僕の頭に、自分の手を置き、撫でた。
「いきなりなんだ?」
「いや。動物に好かれない可哀そうな君を慰めてあげようと思って」
「余計なお世話だろうに。ほら、早く行こうぜ。このままじゃ間に合わん」
僕がそう促すと、萌芽の生半可な言葉が返ってきた。
そこから他愛も無い話をしながら、僕たちは学校の門を潜った。
放課後になって、僕はもう一人の友人であり、同じクラスメイトである——幸田御幸と教室で期末テストの勉強を行っていた。その男、妙に幸に恵まれた氏名であるが、その名に反して非常に運が悪い。何もしていないのに、別のクラスの、花瓶を割った犯人にされたり(アリバイを証明しても何故かそれが罷り通らず、犯人が御幸として処理される)、火の元は見当たらないのに彼の頭上のスクリンプラーが作動して、水を被ったり……今日も弁当箱を開けた途端に横からの突風で弁当が地面にひっくり返ったりと、必ず一回は散々な目にあっている。
そんなんでもこの男は前向きに生きている。無理をしているわけでも無いし、ただ自分が生きていることに感謝している。その起源は恐らく、一度だけ命に関わる病気を患った経験があるからだろう。
生死を彷徨い、そこから這いずった人間だから、俺は生き残った、何気ない会話の中で御幸は神妙な声でそんなことをふと呟いたことがあった。
僕はそれがとても記憶に残っている。そしてそれが僕と御幸の違いでもある。
今度は僕のことについて思おうかと思っていた矢先、御幸は僕に訊ねてきた。
「なァ、今日さ、体育の授業あっただろ」
真剣な目で言ってきたので、僕は少々身構えた。
御幸は目を細めて、
「胸元がふわりと開いて、ブラが見えたんだけど良くない?」
「何色だったんだ?」
「スポブラだったけど、薄ピンクだった」
何かの意志が一致したのか——まずその一致したものも分かっていないが——、僕と御幸は手を上げてハイタッチした。
「俺、今日はぐっすり寝れるわ」
勝ち誇ったように御幸は目元に涙を滲みさせてそう言った。
これで分かったと思うが、僕と御幸の——胸派か尻派か——所属する派閥は、胸だ。
「羨ましいよ、まったく」
「だろ? 一瞬が大事なんだよな。その一瞬でどう見るか」
「それは何言ってるか分かんないけど」
「分かれよ! 心の友だろ⁉」
「お前の変態具合が、僕の具合に追い付けないだけだ。一つ上言ってる」
「誉めるなよ」
「誉めてねぇよ」
こんな風に馬鹿な話をするのが、学校での僕とこいつだ。誰も聞いていないのを良いことに人目にはあまり言えないようなことを話している。こんなんがずっと続けばいいと思うのに、と僕はそんなことを惚けている。
良い時間になったところで、御幸はバイトに向かうために教室を出た。
それから僕は一人になって、読みかけの本を、日没前まで読書をしていた。
誰もいない教室で読書をするのも、また僕にとっては至高だった。
やがて帰り支度を済ませて教室を出た僕は、玄関口からではなく、裏口の方へ向かった。そちらは灯りが少ない道で、途中中庭に通る。その先に小さな階段があり、そこを降りると、校門を潜らずとも帰り道に繋がっているのである。一人の時はこちらを利用するのが、僕の中でルールになっていた。
いつもならば、何事も無く通り抜けるのだが、今日は違った。
校舎を出て、すぐに曲がった先で二人の影を見た。
瞬時にそれを気づいたとき、僕はすぐ左にあった木を壁に隠れた。
二人の影は男女であり、女の方はいつも一緒に登校している友人である。これは何かある。
木陰に身を潜めて、萌芽と対面している影に視線を移す。
あいつは——確か萌芽がよく言っていた、サッカー部の部長だったはず。
この状況は、もはやあれしかない。萌芽は、やはりモテるんだな。
あまり人の情事を見るのは失礼だから、この場から離れようとしたが、その時はもう始まってしまった。
「俺、萌芽のこと好きなんだ! いつも俺を支えてくれて、これからも俺を支えて欲しい。俺と、付き合ってくれ‼」
……どうしよう、今足を踏み出せば、落ちた枝葉を踏んで音を鳴らしてしまいそうだ。これは二人のが終わるまでこのまま待つしかなさそうだ。
それにしても、あれは本気の告白だ。疚しさは無さそうだし、萌芽もその人のことは悪く言ってなかった、むしろ良い印象だったと言っていたのを思い出す。お似合いだと、僕から見ると思えるんだが、萌芽の返事はどうなのだろう。けど、やはり……、
「ごめんなさい」
萌芽は頭を下げていた。
「先輩のことは悪く思ってませんし……私の方が先輩に励まされてたと思います。マネジャーの私に色々気を使ってくれましたし。そう言ってもらえて嬉しいです。でも、私は先輩の気持ちに答えられません。本当にごめんなさい」
振っていた。
何故なのだろうか。萌芽がそこまで頑なに男と付き合わないのはどうしてなのだろう。今のうちに男と遊ぶのは悪くない経験になると、僕は思うのだが。僕に、萌芽をとやかく言うことでは無いから、心の底に仕舞っておくが。
男も諦めきれず、必死になって言葉を探している。
「お、俺の何が悪いんだ⁉」
「先輩は何も悪くありません。でも私は先輩の恋人にはなれません」
萌芽は無慈悲に男に背を向ける。
男はその背中を覆うように、後ろから抱き着いた。
「俺は本当に好きなんだ! 愛おしいんだ!」
「こんな私を好きになってくれて本当に嬉しいです。けど、ごめんなさい」
けれど萌芽がそれを払い除けて、最後に捨て台詞のように言葉を吐き、頭を上げながらこの場を去っていった。
その時、僕の時が止まった気がした。
萌芽の発言が、僕の時を止めたのだ。
『私、世界で一番好きな人がいるんです』
それは一体誰なのだろう。
僕に見せたことが無い、どこまでも一途である萌芽だった。
その日は、何かフワフワと気持ちが浮いていた。
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