運命のイタズラについて考えてみた
私は昔から健康ヲタクだ。
野菜に果物、肉魚、一週間のバランスを考えるのが好き。
それでも摂りきれない栄養はサプリメントの力を借りる。お陰ですこぶる元気。
運動は必須だ。今スポーツはしてない。しかし学生の頃は体育会系。大学生になって初めて文化系のサークルに入ったくらい。走る、泳ぐ、飛ぶ、体を動かすのが好き。
20代までは、誰でも無敵な体を持っている。でも過信はいけない。若さはほんの一瞬。その後は年とともに心と体のバランスをとることも大事。
ストレスは大敵! 分かっているからこそのストレス発散を日々挟む。
健康維持に頑張ったと思ったことは無い。習慣にして楽しんできたから。
休日は長距離ウォーキング。朝と夜のストレッチ。疲れた体がスッキリする。
だけどそれも天から見たら、ただ一匹の
熱に咳、痛みに吐き気、耐える耐える。三日経てば大概治る。そうして私は強くなってきた。
天は面白くない。健康に気をつけている人間が憎いのか?
ある時、元気に働きまわっていた途中で、天の矢に当たったようだ。お腹にグッサリ大きな矢が見えた気がした。気づけば、病院のベッドの上。大きな手術の跡。
ふとウクライナの罪なき犠牲者が頭に
天はなぜ強き無法者を助けるのか?
なぜ弱き健気な者を
生きるというのは、常に死と背中合わせだ。それを知るのは大人になったから。子供の頃の退屈な毎日に思いを馳せる。あの頃は無敵だった。友を助けるお節介ヒーローだった。自由に走ったり、飛んだりできる自分がいる。それだけで楽しかった。
大人は弱い生き物だ。少し身体が良くないと不安になる。重い病気なら尚更だ。家族や仕事、人生にさえ責任を感じる。運命の気まぐれに腹を立てる。もう健康ヲタクはやめよう。不健全に生きた方がよかった、などと自暴自棄の駄々をこねても誰も振り向かない哀しい生き物が大人だ。
やがて怒りも収まると、やっと前が見えてくる。同時に悲しみも湧いてきて、少し泣いて落ち着いた。
運命は人を選ばない。無差別級の不運の矢が放たれる。当たる確率二分の一。いやいや、次の矢も降ってくるから、その二分一、それから次もその二分の一。そうなれば全世界の人間全員にいつかは当たるのだろう。つまりは不公平でないのだ。
運命のイタズラとはよく言ったものだ。当事者にしてみたら、自分だけの不幸だ。イタズラのようなものだ。不公平に思うのだ。
たとえどんなに気をつけていても、抗っても、運命は容赦しない。
運命のイタズラは極めて平等だ。悪人にも善人にも、
それならこっちにも考えがある。
受け入れるしかないけれど、じっとそこにいる必要はない。前に進むのみ。
人間にはどんな逆境にあっても、復活させようとする力がある。叩きのめされても、いつかは笑顔で立ち直る力がある。不思議なことだか、これを奇跡という。
運命を書き換える力は、きっとどん底に落ちた者が最後に使える奇跡という力だ。
さて、そろそろ私も奇跡が与えられる頃。今まで頑張ってきた健康維持だって、きっと体のどこかで私の力になってくれてるはず。戦うのではなく、傷を癒すのだ。
運命のイタズラは奇跡には敵わない。生きる権利を邪魔することは出来ない。希望の光が差せば、それもまた力になる。奇跡を強くしてくれる。
大切な人のために生きるため。
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