第400話 臨界29(葵サイド)

「なに?」そっぽを向いたままでグラナートは応じる。チラチラと葵の様子を伺っている態度はいじらしい。


 こんな状況でなければ色々とやりたいことがあった。この愛らしい姉を、唯一の家族を満たしたい。


「変わっていない。そう断言できる?」


「そんなことか」つまらないことを聞くなと思いっているのか、わざとらしくため息を吐くとグラナートは目を開く。翠から赤に変わった瞳を。


「変わらない。あのとき、別れたときからわたしは何も変わっていない。王位を簒奪したから偉ぶると思った?そんなわけないじゃない。望んでない冠ならただのお飾り。欲しいと思うし、似合うようになりたいって思うから変わるの。だからさ、」


 グラナートは素足のまま、ペタペタと小さな音を立てながら床に転がっているドラグラングを手に取る。


「わたしは変わらない。それを欲しくないって分かっているから。わたしにとって大事なのは大好きな家族と過ごす時間だけ。それだけが今も忘れられない時間。それだけ、それだけが大切な思い出。他のことなんてどうだっていい」


 理屈は語ったと「ふぅ…」と浅い呼吸をする。僅かに刺した肌の赤はずっと、ずっと胸の奥に秘めていた本音を明かせたと物語っていた。


「満足してくれた?」


「ああ、とても」


 互いに浮かべる表情は、微笑み。その下は、まるで違うだろう。それを白日の下に晒したところで何の意味もないのは両者ともに理解している。


 そろりとグラナートは軽い足取りで葵の元に寄ってくる。攻撃の気配はなかった。殺意も戦意も何も感じられない動作は、それこそ瞬間移動のような速さ。反応は勿論遅れた。


 白い指が葵の体に伸びる。触った場所は凹み、肌と肉は触れる指を跳ね返そうと抵抗している。そんな程度で止まるグラナートなわけがないのだが。


「ルナは、わたしのことをずっとどう思っていたの?」


 長いまつげが閉じた。額から落ちたブロンドの一房は何も動いていないこの空間で唯一動いているもののように思えるほどにその動きが美しかった。


「ずっと、愛しているよ」


 答える言葉はぎこちなくならざるを得ない。この隙間がグラナートの耳に届いているのかどうかは分からない。聞こえていないことを願うばかりだ。


「そうじゃないんだよね。わたしが知りたいこと」


 いじらしくグラナートは葵の体に這わせた指を少しずつ、少しずつ顔に上げていく。見上げる顔は少しばかりの不満が滲んでいた。


「ルナは、わたしのこと怖くなかった?」


 予想の斜め上の質問に葵は動揺した。


 ドクンと撥ねた心音が触れてはいけない場所に手が及んでしまったことを物語っている。


「どうしたの?何か、聞いちゃいけないことを聞いた?」


 見えているのに見えていないと振る舞っている素振りはない。自然に、ごく当たり前にグラナートは自分の望んだ言葉が返ってこないことを不思議に思っている。


 ―それ以上、聞かないで。


 その問いかけは、毒だ。一度浸透すればあらゆる抗体を受け付けない致死そのもの。殺すまで、骨を露わにするまで止まらない。


「いや、今更になってと思って…」


「あー、そりゃそうなるよね~」


 這わせていた指とは反対の手でもさもさのブロンドの毛先を弄りながらグラナートはどこから話そうかと思案しているようだ。この予想の「よ」の字もなかった展開を切り抜けるには、この方法しかない。


 自ずと未だ突き刺さったままの導器ミーセスに意識を向けた。その一瞬の動きを戦慣れしているグラナートは見逃さない。


「いいよ。取っても。質問にちゃんとこたえてくれるなら、ね」


 言葉尻に妙に力が籠っていた。戦ってくれさえすれば、後のことはどうだっていいと物語っている。


「さっきみたいにアタシがズルをするかもしれない」


「別にどうだっていいけど?」


 指を引っ込めるどころか胸元にまで指先を這わせてくる。


「どうしたの?気になって仕方がないんでしょ?」


 上げた顔には一点の曇りもない。そう、何ら光も闇も何もかもが存在していない。目の前にある赤い瞳には揺るぎない闘争への本能と戦意だけが、ただあるがままにこの世界に確立している。


 思い返してみれば、葵にとって姉は憧れであると同時に恐れ。ずっと漠然としていた理由がこうして敵と味方、白と赤に分かれることでようやく形を帯びた。


「本当は、怖かったよ。姉さんは誰よりも強くて、誰にも興味がなくて、それなのにアタシだけを愛してくれた。そのアンバランスさがとんでもなく恐ろしかったよ」


 暫しの沈黙が流れ、グラナートが這わせていた指を引っ込めた。腕を組んでしきりにウンウンと唸っている。それから、テストで90点間近でケアレスミスを犯してしまった生徒のような口ぶりで言う。


「そっ~か。そんな風に映ってたんだねわたし。それは確かに同じ立場だったら怖くなっちゃうかもしれないね~」


 自らの行動や言動を思い返してみているよう見えるグラナートの仕草はしっかりと反省していると思えるもの。だが、分かっているのは、目の前にある赤い瞳が見ているのはあくまでも自分を見ているからということを前提に組み立てている。それが、葵にとっては恐ろしくてたまらないのだ。


 言葉にしたことの半分は、正解。半分は、嘘だ。


 この人は、いつか他人に示すその残虐性を自分や自分の周りにも悪意も何もなく、何の前触れもなく振りかざしてくるのではないか。罪悪感も躊躇いも顔に張り付けることなく無邪気に蟻を潰して喜ぶ子どもと何も変わらない残虐さを自分たちに見せてくるのではないかと。


 顔を俯けて思案していたグラナートは体感2分ほどで顔を上げた。キラキラのエフェクトを付けたくなるほどに輝く笑顔は、形容しがたい何かを孕んでいた。


「じゃ、痛くしないであげる」

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