第287話 破戒31(マレーネサイド)

 自分の努力が水泡に帰した。そう実感するには十分すぎるほどの景色を、血生臭さは如実に物語っている。階層が20ほどあるオフィスビルを陣取っているにもかかわらず人の枠にとらわれない五感は逃さずに戦場の色を、匂いを捕らえている。乱れる冷たい風をしっかりと防ぐ鎧はついさっき捨てられたことを恨みに思ってかしっかりとマレーネの体を包んで保護している。


 この結果は、マレーネにとっても予想の埒外だった。偉そうなことを堂々と物語っていたエウリッピの顔を思い出すとどう問い詰めてやろうかと余計な考えが頭を擡げる。


 役目は既に終わっている。万事が万事を己の望んだ形に運ぶことまでは出来なかったにしても望まれた結果を形にすることは出来ている。手にしたい目的に至るためにの手段は揃っている。にもかかわらず、自分が何故無駄に足を運んでいるのかは正直なところ理解の及ぶところにはない。強いて言えば、丁度いいサンドバッグがあればぶん殴ってやりたいというのが本音か。


 報酬の1000万円。普段の2倍だ。エウリッピが提示した標的を殺すだけの仕事。普段と変わらないだけに身構えたが、結末は呆気ない。呆気ないついでにこの後はどうしようかと考えていると愛おしい九竜が入り込んで来る。


 次のデートは何を贈ったら喜んでくれるだろうか。女の子だから男の子のことはよく分からない。不愛想で希望何て口にしてくれないだろうから自分で選ぶしかないかなと思いつつ、あれこれとプレゼント候補が浮かぶ。


 前に雑誌で目にした最有力候補は腕時計。ネクタイは少し背伸びしすぎかな。金は結構余っているからいいところの品を仕入れることも難しくはないはず。


 読書好きという観点から話題の漫画を大人買いなんてのも喜んでくれるかもしれない。もしかしたら、この前のデートのときみたいにケーキを一緒に食べるなんてのが喜ばれるかもしれない。


 でも、一番喜んでくれるのは、これかなと自分の下腹部をさする。少し下の個所が温かくて冷たい。


 ここが戦場の只中ということを忘れて妄想の森に迷い込みそうになったところで、相反する炸裂音が戦場であることを思い出させる。


 眼下に広がる光景は、筆舌に尽くしがたい地獄。赤と灰色をメインに据え、紺色と黒で色付けした1つの芸術品をまばらに散った全ての者たちが己の命を使って仕立てている。


 しかし、マレーネの目はしっかりと均衡の節を見抜く。そこを砕き折ればこの勝負をエウリッピが望んだ結果に導くことも不可能ではない。ついでに報酬を更に増やしてもらうことも夢ではないと結論付ける。


 仮面をつけ、マレーネは陣取っていたビルから飛び降りようとする。今度は外れないように気を付けたい。目撃した敵の尽くを皆殺しにしなければならないのは骨が折れる。


『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼』


 ドラゴンか何かと錯覚するほどの轟音が大地を、空を揺らした。驚いて降りる気を逸して出鼻を挫かれ、咄嗟に発信源を確認しようと抜き足で淵まで近づくべく一歩目を踏み出そうとしたところで、足を止める。耳障りなノイズの中に聞き知った音が存在していたからだ。


『撤退■…』


『本当に?』


 言葉は事実だろうと思いながらも反芻する。


『そう■す。今■■■…』


 途切れ途切れの言葉は幸いなことに穴埋めが出来ないほどではない。


『了解』


 この状況ならば妥当な判断かと納得し、爪先を反対側に向ける。下手に目立って潰される芽を敢えて育てる必要はない。まずマレーネの基準に合わない。出しすぎた欲は己の身を亡ぼすことは良く知っている。


 あの咆哮の主の正体を知る機会を得ず後ろ髪を引かれる思いを胸に抱きながらオフィスビルの屋上から離れた。

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