底辺

第68話 底辺(九竜サイド+橙木サイド)

「これは君が持っておくべき物だ。だから、取りに来るように」

 留守電には短く、そう残されていた。

 本音を言うのなら、顔を出したくなかった。自分がしてしまったことを思えば居ていいはずがないと。だが、葬儀の前日に葵は来なければ二度と部屋の敷居を跨がせないとオレに詰め寄った。


 葬儀の最中は顔を上げられなかった。

 微笑む小紫の遺影、遺体の納まってない棺は見るに堪えなかった。それ以上に精神を抉ったのが、オレたち以外に誰も顔をみせなかったことだ。

 衝撃を受けたなどという言葉だけでは、この感覚を言葉にすることなど到底できない。

 臓腑に鉛を流し込まれたかのように体を重く感じるのに、手足にはまともに力が入らない理解の出来ない感覚に支配されている。頭もまともに回っていない。

 俯いていると、先日の出来事を思い出す。橙木とおのぎのあの憎悪に満ちた目を。

 オレがここにいなければ、小紫はもっと多くの人に見送ってもらえたのではないか。それだけの資格が彼女にはあったと思う。あるべき時間を奪ってしまったという罪悪感がこの場から逃げ出させようとする。

 その思いをギリギリのところで繋ぎ止めたのが橙木だった。

 昼間を挟んで座っている彼女は涙こそ流していないものの強い視線を床に向けている。赤く腫れた目は泣きに泣いたことを悟らせた。


 葬儀が終わっても橙木が話しかけてくることはなかった。昼間も雨夜あまやもオレに構うことなく、橙木に付いていった。気にする素振りは見せていたが、オレよりも彼女の精神状態の方が気になったのだろう。

「よく逃げ出さなかったね」

 去って行く3人の背を見ていると葵が話しかけてきた。右手には浅紫色の布に包まれた太刀らしきものが握られている。

「…何か?」

 葵は最初に話しかけた切りオレの顔をジッと見つめている。

「自分のせいだとでも思ってる?」

 目を合わせて葵が問うてくる。

「…事実でしょう。オレじゃなければ、生きて帰れるチャンスはあったかもしれない」

「かもしれない…ね」

 葵は席に腰を下ろすと向かい側に座るよう促す。断っても座らされる可能性が高いため大人しく指示に従う。


「真理であろうと白聖だろうと生き残っていなかった。いや、少なくとも戦えるから2人は前に出るだろうね。そして、この場にはいなかった。あいつの判断は正しかったよ」

「慰めのつもりですか?」

「そんなことをして意味があるかな?死人が帰って来るなら幾らでも下らない言葉をかけてあげるけど?」

 小紫の遺影を前に容赦のない言葉を並べ立てる。だが、それが真理しんりで、決まりきったことで、どうあっても変えようのないもの。

 死んだら、何があっても生き返ることはない。

「取りあえず受け取ってもらうよ」

 本題に切り込み、葵は持っていた浅紫色の布に包まれた物体を手渡してくる。

 受け取って布を逸らすと予想通りに小紫が使っていた太刀があった。鞘を動かすとあのときと変わらない緑鋼の刀身が確認できた。

「…どうしてオレに?」

「清浄なワイルドロードから地上に出るまで、手放さずにずっと持っていたから。なら、最後まで責任は果たしてもらわないとね」

 言い換えれば、これで戦えということ。また、吸血鬼を殺せということ。

 それ自体にはもう抵抗はない。琵琶坂びわさかが言っていた倫理観の壁とやらは既にない。だが、今度は自分の一挙手一投足に求められる重さに押し潰されそうになっている。いや、既に負けている。


 理解しているつもりだった。この仕事に求められることは命を懸けるものであるということを。

 でも、それは驕りだった。オレは、理解などしていなかった。

 その重さが、余りにも重いものだということを、近くにいた人の死を通じて思い知らされる。あのときとは、また違う。


「すみません。オレは…」

「事故のとき、君は実父を失ったらしいね?付け足すなら、そこにいた人間たちの中で唯一人だけ生還した」

 突然の言葉に、オレは身構える。

「その話が…どうかしたんですか?」

 出来れば手を入れられたくない場所。遊び半分で触れてくることはないだろう。

「そんなに怖い?自分が誰かを殺してしまうことが」

 今にも太刀を抜いてしまいそうなほどに精神が昂っている。実際に手は柄にかかっている。

「知っていることが意外かな?誰にも話していないに、何故って?」

 葵の言うとおりだ。

 誰にもこの話はしていない。絶対にするつもりはない。

 懺悔を幾らしても償いきれないこの罪は死ぬまで永遠にオレだけが背負い続けるべき十字架だ。誰かに肩代わりしてもらえる物ではなく、明かすつもりもない。

 調べたのか、ブラフなのか判別がつかない。これまでの会話を思い出そうとしても上の空で聞いていたせいで内容がまるで思い出せない。

「ああ、そうだ。どうやって、そのことを?」

 どんな些細な変化があっても見逃さない。意識を葵に集中させる。


「そんな精神状態でアタシとやり合えると?」

 言っていることは否定のしようがない。ここに入るきっかけになった話し合いの席ですらオレは彼女のペースにあっさり呑まれた。しかも、前回は肉体や精神に何らかのハンデを負ってはいなかった。

「1回目の敗北は仕方が無いと見ていた人間は理解する。だけど、次、更に次も敗北となればそれは覆しようのない現実で事実」

「何が言いたい?」

「要するに、君じゃアタシには勝てないってこと。単純な腕力勝負、知恵比べ、ゲーム、その他諸々」

 口角を上げ、葵は言う。絶対的に揺るがない自信が伝わってくる。

「求めることはただ1つ。自分の失態の埋め合わせ。断ってもいいよ?ただし、真理以上の痛みは伴うことになることは覚悟してもらう」

 必要ならば手を挙げることも辞さないという意思表示。

 言われなくても分かっている。逃げることなどもう出来ない。

 違う。もう、逃げる道すらなくなっている。

 最初に手をかけたときに、オレは自分で帰るための道を塞いでしまった。


「何故かな?あれだけの死に触れた君がいくら親しくしていたとはいえ1人の死にそこまで動揺するのか」

 不思議でたまらないと葵の表情は物語っている。

 本当は知っている。オレが小紫の死にこれほど動揺している理由は自分が一番理解している。恐らく、葵もこの事実に気づいている。知っていながら、敢えて指摘せずにいる。

「アンタは…とんだ人でなしだ」

「人でなしか…。酷い言われようだね。でも、君は元々アタシに対して全くと言っていいほど気を許してはいなかったね」

 オレに批判されても葵は余裕のある態度を崩さない。

「アンタは、もう気が付いているんだろ?」

 決定的な一言を投げる。どっちに答えようともオレが戦うという選択肢は変わらない。

 しかし、他者の口からその事実を言われたい。

 間違っていないことへの保険。その確証が欲しい。


「死との距離感。本来は遠い場所にあるはずのものが一度に押し寄せてしまったせいで君はそれに対する恐怖が欠如している。いや、少しは残っているね。その現象を見て悲しみ、絶望の底に叩きつけられる人間がいるという事実に胸を痛めるんだから。ついで言っておくなら、君が戦いを前に恐怖しているのは痛みからの恐怖だよ。死に対するそれとは違う」

 ひとしきり喋り終えた葵は短く息を吐き、「満足してくれた?」と続ける。対するオレは頷いて答える。

「そっちの問いかけには答えたから今度はこっちの質問に答えてもらうよ。受け取るのか受け取らないのか」

 決まりきった答えであってもオレの口から言わせたいらしい。

「…やりますよ」

 オレは一言だけ答える。そう言いつつ、太刀を葵に向ける。

「ですが、今の自分には重すぎます」

 少しだけ沈黙を挟んで葵は太刀を受け取る。

「逃げないでね。部下を2人も死なせるなんて嫌だからさ」

 言い残して葵は立ち去った。


                  ♥


 壁を殴る手が痛んだ。もう皮膚が切れて血が滲んでいる。壁にも血が少し付着している。

 幾度殴っているかなんて数えていない。それでも、手を止めることが出来ない。止めてしまったら、引き返してあいつを罵倒して殴ってしまうことが分かっているから。場違いで理不尽極まりない行動で言動だったことは頭の中で分かっている。

 あいつは悪くない。それが覆しようのない事実で、現実。あの場にいたのが私でも間違いなく殺されていただろうことは自分が一番理解できている。


「もう止めろ」

 昼間が腕を掴む。私よりも鍛えているだけあってすぐには動かせそうもない。

「…分かってる。…分かってるわよ」

 涙が止まらない。怒りと憎しみが綯い交ぜになって頭の中を支配している。止めてくれなければずっと同じアクションを繰り返していただろう。

 そのまま脱力して壁に凭れかかる。立っているのも億劫で落ちていくに任せて床に腰を下ろす。リノリウムの冷たさが布を超えて臀部に伝わる。


「おかしなものよね」

「何が?」

 思わず零れた言葉に昼間が聞き返す。

「涙なんて、もう…枯れたと思ってたのに…」

「人間なら流したって不思議じゃないだろ?恥ずかしがる必要なんてどこにもない」

「そう言ってアンタは流さないのね」

 横目で確認してみると昼間の目は潤んでいない。泣き腫らした様子もない。


「泣いている暇があるなら、強くなる」

「どれだけ?」

 抑えていた涙がまた流れる。今更でも顔を見られたくなくて足に押し付けて隠す。

「全部倒しきるまで…だな」

 感情を押し殺した声。本当は今にも叫びたいのだろうと思わせるほどのエネルギーが感じられる。

「なあ」と昼間が声を続け、私は顔を上げる。

「今日は…一緒にいてほしい」

 その言葉に私は乾いた笑いしか出なかった。

「最低ね…」

 軽蔑の念を込めた視線を送り、立ち上がった。

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