第4話 闇夜4(九竜サイド)

  踏んだり蹴ったりとは今日のようなことを言うのではないだろうか。


 朝は馬淵まぶちに絡まれクラスで値段の付かない嫉妬や怒りを買い、帰りに人身事故に遭遇して電車が止まった。これが昼にぶつかったのなら我慢のしようもあったが、夕方の帰宅ラッシュにぶつかったのが運の尽きだ。2駅前で止まったということも余計に悲しい話。


 おしくらまんじゅう状態の車両から降りると一目差に階段を駆け下りた。吐き出される人間に巻き込まれて潰されることは十分すぎるほどにあり得た。改札を潜ると夕刻の空と風が出迎えた。


 外に出ると地図アプリを起動した。普段使わない道は漠然としか方向が分からない。端末上に記されている地図を見ながら移動を始める。


 高架橋を道なりに進んで最寄り駅まで行くルートがあれば幸いだったが、半ばが工事中で通り抜けが出来ず回り道をする羽目になった。大通りを通り抜けて住宅街に入り込む。道はやや複雑で時折間違いそうになりながら進んだ。


 それから程なくして次の駅に差し掛かった。自分の現在位置を確認して再び歩き出そうとしたところで立ち止まった。


 誰かに見られているような気がした。不安になって後ろを向いたが、駅の近くには人身事故の影響で時間を持て余している多数の人間がいて誰が視線を自分に向けているのか区別がつかなった。


 気のせいなのか判別がつかないまま歩き出す。端末を取り出して操作するふりをしながら背景の様子を確認すると駅前で見た男が距離を置いて歩いている。行き先が同じだけという可能性もあるため断定するのはまだ早い。


 歩きながら頭の中で自分を追いかけて来る人間が誰なのか頭の中で検索をする。全体像がハッキリと見えたわけではないが思い当たる人物はいない。


 このまま家まで真っ直ぐ歩いて帰るのは愚策だと判断すると端末で地図を表示して人気がない場所がないかを調べて検討を付ける。


 ひとまず真っすぐ進んで自宅がある方向とは反対に足を向け、しばらく進んでから再び端末で背景を映し出す。変わらずに男がオレと一定以上の距離を保ちながら歩いている。周囲に目を向けても駅からずっとオレの近くにある人間、存在は何処にもない。現状は男が単独で動いていることが確認できた。


 頭の中で何が狙いかを考える。


 報復、強盗、殺人。色々と選択肢が頭の中に浮かんでは消える。オレではなく百葉を狙っているという確率もないわけではないが、それならば当人を狙うか家で待ち伏せをしているほうが合理的だ。オレを人質に取る線もなくはないが回りくどい。男を狙うよりも女を狙うほうがリスクは少ないため彼女を狙うほうが筋だろう。考えれば考えるほどに分からなくなる。


 30分ほど歩いているとようやく人気のない廃工場に辿り着き、振り向いた。オレの足が止まると同時に男の足も止まる。


 廃工場の詳細は見ていなかったが、廃棄されて埃を被った装置が脇に放置されている。年月も経過しているのか空気には砂と埃の匂いが染みこんでいる。広さは高校の体育館よりも少し大きいぐらいだった。


「何か御用ですか?」


 普段放っている人間嫌いの顔を隠してオレは男に問いかけつつ姿を確認する。


 手入れをしているとは思えないボサボサの黒髪と無精髭、青いスカジャンを羽織って下に黒いシャツを着た中年の男だった。背は猫背気味も合わさって迫力に欠ける。改めて確認してみてもオレが知りうる限りではこのような知り合い、親戚は存在しない。


「用か…」


 男は含み笑いをしながら言う。


「お前の命を寄こせ」


 頭がいかれているとしか思えない発言をした男は一歩を踏み出す。


 酔っぱらい、薬の線を疑うも顔からはそれらの気配は感じられない。だが、十分すぎるほどに危険なことは判断がついてゆっくりと後ずさる。


「冗談でも十分すぎるほどに脅迫罪ですよ」


「通報するにしても生きていなければ出来ない」


 男は舌なめずりをして再び前に踏み出し、ゆっくりした動きが早くなる。本気だということを短いやり取りの中で理解できたオレは男が迫る方向とは反対側に走った。


「ちっ」舌打ちをして正面の窓ガラスを破って外へ出ようとする。だが、男の動きは想像以上に早く、襟首をつかまれて強烈な力で首が締まる。


「逃げるなよ。お楽しみはこれからなんだからよぉ?」


 肌の上を這いずり回るような粘り気のある声音が耳に届き、体を床に押し付けられる。うつ伏せになっていた体が仰向けにされ、男が馬乗りになる。


「怯えろよ。お前」


 男の顔が怪訝に染まる。期待したものを得ることが出来ない男だったが、顔が醜く歪んでいく。唇から覗き見えた長い犬歯が人間とは思えなかった。


「震える顔を見せろよぉ‼」


 平手打ちが左頬を打ち付ける。百葉ももはに何度か叩かれたことはあったが、比にならないほどの強い痛みが頬を襲った。それは一度で収まらず3回ほど往復し、続けて殴打の嵐が顔を襲った。口内が切れて血の味が舌に染みこむ。


「どうだぁ?ちょっとは怖くなったかぁ?」


 グーで殴られたのは生まれて初めての経験だった。漫画などで目にして痛いだろうということは漠然と理解していたが、こんなに痛いとは思わなかった。


「ああ…。とんでもなく怖い…」


 涙で視界が滲んだ。自分の浅慮を少なからず後悔したが、ここで殴られているのが自分でよかったと心の底から思った。


 男は生暖かい吐息が感じられるほどに顔を近づける。


「死にたくないか?」


「…ああ」と間髪入れずに答える。

 衝撃でまともに働かない頭では満足に答えることが出来そうもなく奴を満足させる答え意外は与えることが出来そうもなかった。


「いい顔だぁ。その顔を見ていると気分がよくなる。生きていると感じられる…」


 声音からだけでも最高にこの状況を楽しんでいると分かる。暴力を心の底から楽しみ、苦痛に歪む顔を見て悦に浸っている姿にゾッとした。


 嫌でも死を意識させられる。生きているのならいつかは来るものだ。だが、こんな突然に訪れるとは夢にも思っていなかった。


 それは男も同じだっただろう。


「同感だ。お前のようなバカを殺すのは心躍る」


 女の声が聞こえた時には男の左目を刃が貫いていた。


 男は何が起きたのか理解できていないようだった。悲鳴は口を手で封じられているせいで聞こえない。行き場を失った声にならない声が漏れる。


「それ以上に傲慢なバカが慄く顔は、よりそそる」


 次に男の胸をナイフが襲う。一度で終わらず、執拗にグリグリと捻じ込む。抑えている指が口から逆流した血で染まる。力を失った男の体はオレの横に倒れた。砂と埃で汚れた床は傷口から流れた血に飲まれる。


「無事かな?少年」


 人を殺した直後とは思えないほどに清々しい笑顔と声が降り注いだ。極限状態から解放されて現実感がないままに差し出された手を握り、オレは立ち上がった。直後に命が繋がったことへの安心から力が抜けた。


「っと、無事じゃあないね」


 崩れそうになっていたところを支えられ、オレは壁まで連れていかれた。女はひとまず安全な場所に移動できたと判断したのか電話を始めた。声が小さいため内容は聞き取れなかった。


「治療は少し待ってね」


 女は告げるとオレに水の入ったペットボトルを渡す。


「あなたは…」と問いかけようとしたところで女の顔が間近に迫る。


 改めて姿を見ると長いブロンドの髪に翠の瞳は人間離れしているほどに美しいが、身に纏っているストライプの入った黒のスーツが彼女は現実の存在であると意識を塗り替える。


「ま、そのうちね」


 女は短く告げると扉に向かって歩いていく。呼び止めようとするも顔の痛みで上手く声が出ず、去る彼女を見送るしかなかった。

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