第1話 闇夜1(九竜サイド)

 ジリリッ‼という耳をつんざかんばかりの目覚ましの音が響き渡る。寝坊をしてしまうオレのために姉が配慮して買い与えてくれたもので威力は折り紙付きだが、少しばかり突き抜け過ぎてしまっているような気がするのは気のせいではないだろう。


 睡眠状態の中にある脳が強烈な音で揺さぶられて意識が覚醒する。眠け眼で時計を手繰り寄せると針が示す時刻は6時前。セットした時間からは5分ほど過ぎてしまっているが十分許容範囲内だろう。


 ベッドから起き上がって布団を畳むと寝間着を脱ぎ捨てて制服に袖を通す。

 紺色のブレザーの制服は着始めて1年が経過しているため新鮮味はない。初めて袖を通した日から2週間ほどは新たな日常への期待と不安は少なからずあった。


 何の想いもなく着替えを終えると部屋を出て1階に続く階段を下り、浴室に入って顔を洗った。僅かに残っていた眠気は水の冷たさで払拭される。

 真っ白なタオルで顔を拭くと真っすぐリビングへ向かった。奥から朝食を用意する良い匂いがした。


「おはよう」と挨拶をして台所に足を踏み入れる。


「おはよー朱仁あけひと」と姉の百葉ももはがいつも通りの調子で返してくる。


 九竜百葉くりゅうももは。弟のオレから見ても目鼻立ちの整った凛とした美人で高校、大学は優秀な成績で卒業。それからは国家公務員として霞が関に勤めている優等生。中学時代までは男勝りで喧嘩っ早い強い女の子であったことは当人から口止めされている。


 顔はこっちに向けられておらず目線を一瞬だけ逸らすだけなのもいつも通り。料理中は緊急事態でもない限りは声をかけない。それがオレたち姉弟の間でずっと守られてきた不文律だ。


 後ろを素通りして冷蔵庫を開けて未開封のミネラルウォーターが入ったペットボトルを取り出し、隣にある棚からコップを2つ取ってテーブルに向かう。テーブルの上には白米、味噌汁、箸が丁寧に配置されている。


 待っている間は手持ち無沙汰であるため端末を取り出してニュースを確認していると昨日に無差別殺人があったらしい。

 内容を読み進めていると、犯人は突入班によって皆殺しにされたらしい。肝心の巻き込まれた人々は半分ほどが逃走に成功したらしいが、多くの人が凶弾に倒れたとのことだった。突入班からも犠牲者が出たようだ。


 別の記事に移ろうとしたところで声がかかった。

 殆ど完成間近だったらしい。


 立ち上がると百葉から2人分の皿を乗せたプレートを受け取った。サラダ、目玉焼き、軽く炒めたベーコンが盛り付けられている。踵を返して皿をテーブルに置いて席に着く。


「いただきます」と席に就こうとしている百葉ももはに宣言し、ベーコンを口に運んだ。


「今日も美味しい」


「ありがと」


 いつもと変わらない誉め言葉に百葉ももはは微笑んで答える。その言葉を区切りに少しの間、沈黙が流れる。それを最初に破ったのは百葉だった。


「来月は期末テストでしょ?ちゃんと対策してる?」


「やってるよ。去年の成績表は見たろ?心配はいらないよ」


 学年が上がってから初めての中間テストがもうすぐやって来る。百葉ももはに口うるさく言われ、時には監禁に近い対応をされたおかげで勉強することはすっかり習慣として身についており、中学と去年の成績は常に上の方にある。


 それでも、弟を気に掛ける姉としては最も重要なことだろう。それがオレを育ててくれた姉への恩返しに繋がることは頭では理解している。とはいえ、何度も言われると自分は信じられていないのではないかと感じてしまうのも事実だ。


「そんなにオレが信用できない?」


「そうじゃないけど、やっぱり気になるんだよね」


 半分ほど平らげた茶碗をテーブルの上に置いて百葉ももはは手を合わせて続けようとする。何処か煮え切らない様子だ。


「ちゃんとした仕事に就くよ。姉さんの期待を裏切るつもりはない」


 それに百葉ももはが反論しようとしたところで遮るように続ける。


「この場で念書を書かないと信じてもらえない?」


 畳みかけるように言葉を続ける。これ以上話を続けるつもりはないという意思は十分に伝わるだろう。


「…分かった。この話はお終い」


 百葉ももはは宣言すると茶碗を左手に持って早々に食事を終えた。対するオレは話のテーマが重かったこともあって食欲が少し減った。


「ごちそうさまでした」


 いい音が鳴るほどに手を叩くと食器をシンクにまで運んだ。


「あと頼んだよ。それと今日はたぶん遅くなるから早く寝ててね。あ、宿題もちゃんとやるのよ?」


 捲し立てて言うと百葉ももははリビングを出て行った。忙しないなと思いながら食べ続けていると食欲が少しずつ戻り、時間を置かずに食器は空になった。


                   ♥


 駅まで徒歩で10分、電車で揺られること30分、更に徒歩で10分。そこにオレの通学する高校がある。


 家には資産家の親が残してくれた遺産があり、百葉ももはは勉強が出来たオレを私立の進学校に行かせようと考えていたようだが、オレ自身が乗り気になれず今の公立学校に進学した。


 生活態度は静かを通り越して存在があるのかどうか分からない立ち位置にいる。クラスの雰囲気に馴染むというのはどうしても無理だった。


 クラス替えが行われて2か月経過しても友人と言える存在はいない。そんな孤高というよりも孤立している学生がどのような生活を送るかは凡そ決まっている。本を読む、勉強をするぐらいしかない。いじめに遭っていないだけで十分幸運であると言えるだろう。


 最初のころは特に問題なくこれらをルーティンとして出来るようになったが、3か月ほど経過してしまえば飽きることになる。当然と言えば当然だ。


 オレには目指すべき世界が何もない。百葉ももはのように背負うもの、夢追い人が持つべき夢も願いも何1つとして。


 校門を通って敷地に入ると校舎が出迎える。


 建築してから時間が経過しているらしい校舎は風雨に晒され、塗装が剥がれて灰色に変色している。階層は5階で屋上が設けられている。敷地内にはプールやグランド、体育館など公立学校に必要な設備がしっかり整えられている。


 校舎に入って階段を上がり、教室に足を踏み入れる。後は時間を潰して下校の時刻になるまで待つだけだ。それでも、クラスには陰キャを放っておかない陽キャというアニメや漫画など二次元にしかいないだろうと思える人物が現実に存在する。

 席に背を預けて本を読んでいると1人の女子生徒が近づいてくる。


「今日は何読んでるの?」


 クラスで中心人物の馬淵海まぶちかいが近づいてくる。


「何か用?」


 本を閉じてオレは嫌悪を混ぜた視線を送る。


 馬淵海まぶちかい


 明るさと世話焼き気質、本当に日本人かと問いたくなる美しいロングの銀髪と青い瞳を持った美少女だ。性格も良しで容姿も良し。更に勉強も出来て運動神経も抜群となれば男女ともに人気は高く慕われて不思議はない。つまるところ、生きる世界が違う。彼女がオレに関わるということが余計な悪感情をクラスに振りまくことになるのは火を見るよりも明らかなことだ。


「用がないなら早く戻った方がいい」


 視線を馬淵まぶちが元居た場所に送る。男女混合のグループがオレに怒りと嫌悪を混ぜた視線を送っている。


「用がないなら来ちゃいけない?」


 口元に笑みを浮かべて馬淵まぶちは顔を近づける。こっちの気も知らないで…と思わずにいられないが彼女を前にするとその言葉をいつも飲み下すことになる。


「…分かったよ」


 立ち上がると廊下に出る。あとで顰蹙を買うことになるだろうが、馬淵を巻き込んで事態をややこしくするよりは余程いいと割り切る。


 廊下に出て、階段を上って屋上の手前で止まる。屋上は昼休みと放課後に限って解放されている。今はこの場に人はいない。


「ここまで来なくたって誰も邪魔しないよ?」


「オレが嫌なんだ」


「何でわたしは認めてくれたの?」


 壁にもたれかかりながら馬淵が問いかける。答えは知っているだろうと突っ込みたくなる衝動を抑えて答えを言う。


「あそこまで粘られたら折れるしかないだろ」


 縁が出来たのは去年、入学式があった日だ。


 うっかり上履きを忘れるというのは珍しくない話だ。スリッパを借りて終わりという話だが、馬淵まぶちはギリギリに来たらしく借りに行くだけの時間を作ることが出来そうになかった。その場面に遭遇してしまったオレは持っていたスリッパを貸した。今となっては余計なことをしたと後悔している。


「近づくなって空気はちゃんと纏っていたはずだぞ」


 思い返すまでもなく登校初日を始めに今日までオレの態度は一貫している。


 他人に干渉しない、させない。棘だらけの鎧を身に纏っていれば下手に近づこうと考える人間はいない。普通の人間ならば触れようとはしない。


「ちゃんとお礼は言っておきたいじゃん」


「言えば終わりの話しだろ」


「まあ、そうなんだけどね」


 少しだけ馬淵まぶちは言い淀む。彼女が思っていることは何となく察しが付く。


「友達になりたいとでも言うつもりか?」


「勿論。九竜くりゅう君って他の子とは違うからね」


 他の人間と違うのは当たり前だろう。十人十色というぐらいに人間は個人個人で考えが違う。


馬淵まぶちほど交友関係が広いなら刺激的な話をしてくれる人間だっているだろ?」


「そうでもないよ。何処でも自己研鑽を怠らない勤勉な生徒はわたしが知る中にはいないよ」


「生憎とオレはお前のお眼鏡に適うような人間じゃない。オレがしている読書は勉強ではなくただの自己防衛だ」


 その言い草が面白かったのか馬淵が噴き出す。


「本当に1人になりたい人はそんな風には言わないよ」


 一瞬だけ自分の中の芯のようなものが揺れたような気がし、「これ以上近づけるな」という警告文と共に頭の中で警報音が鳴り響く。


「断っても損はない。失うものはそっちにない。わたしがちょっと火傷するだけで済む。違う?」


 こちらが反論する前に馬淵まぶちは畳みかけるように言葉を続けた。


「傷つくだけではすまないだろう。オレと下手に関わればお前の評価が下がる。付き合いが悪くなればそれだけ今後の交友関係に響く」


 負けじと反論する。その言葉が目の前にいる少女のために言っているのか自分のために言っているのか分からなくなりそうになって馬淵まぶちのためであると言い聞かせる。直後に予鈴が鳴った。


「そろそろ戻らなきゃね」


 一足先に馬淵は階段を下りていく。オレは彼女の背中を見送る。続かないことを疑問に思って彼女が振り向く。


「どうしたの?」


「オレは後で行く。先に戻っていてくれ」


 実際にはそんなつもりはないと心中で付け足しておく。


「分かった。じゃ、後でね」


 納得したのかは分からないが馬淵は立ち去った。気配が完全になくなると階段を降りる。


 1限目は教室に戻るつもりはない。お楽しみタイムの最中に馬淵まぶちという話の回し役を連れ去ってしまったオレをクラスメイトは許さない。以前に同じような出来事があった際に見事にクラスメイトに絡まれた。相手は女子だった。


 しかし、想像以上に鬱陶しかった上に口調が癇に障ったため徹底的に論破して泣かせた。そこから消火作業に当たるのは面倒なことこの上なかった。普通に考えてみればいじめに発展してしまいそうなものだが、馬淵の存在が抑止につながって最悪な事態に発展はしなかった。


 階段を下りていると1つの疑問が浮かび上がる。


 何故、高々スリッパを貸した程度でここまで付きまとわれるのか。物語のテンプレートな展開をなぞるのならば、惚れているからだろう。だが、魅力的な人間などオレ以外にいくらでも居る。自分から他人を徹底的に拒絶する問題児などよりも。


 いくら考えても結論の出ない思考の整理も兼ねて保健室を目指した。

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