第52話 『人間』

 その家には気が弱そうな文学青年といった様子の父がいて、美しく穏やかだけれど奇妙に迫力のある母がいて、母の容姿を受け継いで将来きっと綺麗になるであろう娘がいた。


 娘は母に自分の出自や血統についていろいろなことを言われていたけれど、それは真実なのか、あるいは母の妄想なのか、判断がまだついていなかった。


 王家の血筋。


 それは『誇りなさい』とか『悲劇の血脈が』とか、そういう無駄な色合いを交えて語られた話ではなかった。

 ただ淡々と事実として母はリリティアの血筋についてリリティアに教え、『いずれこの血が原因で何か起こる可能性があるから、備えなさい』というように締められる話なのだった。


 だからリリティアも『自分はお姫様なんだ』などというふわふわした夢見がちなことを考えもせず、備えた。

 このあたりのロマンの欠片もないあたりに父は何か言いたそうではあったけれど、彼はその複雑な心境を言葉にすることはなく、いつでも『君たちは本当によく似た親子だよ』と疲れ切ったため息をつきながら笑っていた。


 たぶん『普通』ではない家族。


 けれどリリティアの感覚は、『何か特別な出自があるようだけれど、それはそれとして、自分は普通の村娘だ』というものだった。


 すなわちそれは、昨日まで続いた平和な農村暮らしが、きっと今日以降も続いていき、いずれこの村の中で大人になり、潜在スキルいかんによっては村に残ったり村を出たり、噂の『学園都市』なんかに行くこともあるのかもなあ、という、最近の十歳としても確固としていることをのぞけば、極めて普通の未来予想図を描いていた、ということだった。


 ……季節はうららかな日差しが降り注ぎ、気温がだんだんと上がっている時期だった。


 収穫を待つ麦が強い風に揺られて黄金のさざ波を立てている。

 潜在スキル鑑定の結果に一喜一憂する十五歳たちも、明日か、あるいは明後日ぐらいには、麦の収穫で忙しくなり、悩んでいる暇なんかなくなることだろう。


 リリティアは今日と地続きの場所に明日があるのだと信じて疑わなかった。

 記憶にもないほど幼いころには住まいを転々としていたという話だけれど、物心ついたころにはずっとここにいる。だからたぶん、この村でこのまま大きくなるのだろうと、いちいち考えるまでもなく信じきっていた。


 風が、強かった。


 この風が運んできたのは、花の子供や暖かな空気だけではなかった。


 木造の家がぽつぽつ並ぶ、畑に比べればずっとずっと狭い居住区に現れたのは、たくさんの神官だった。


 この農村には神殿がない。


 神殿のない農村というのは珍しくはなかった。だがこの村に神殿がないからこそリリティアの両親はこの村を棲家に選んだ。

 つまり、神官を避けていた。


 リリティアは列を組んで押し寄せる白服の集団をぼんやりながめていた。あれほどの人数が一糸乱れず行進してくる光景が珍しかったし、そろいの真っ白い服も、この村では見たことのないものだったからだ。


 リリティアはその集団に『珍しい』以上の感想はなかったのだが、母が慌てたように自分を家の中に連れ込んだことで、『あの集団は何かよからぬものなのかな』と予想した。


「リリィ、よくお聞きなさい。あなたはこれから、学園都市に向かうのです」


 あんまりにもいきなりだったのでリリティアはきょとんとしてしまった。

 しかし母の表情は真剣そのもので、だから『なぜ』を差し挟むこともできない。

 ただ、両肩に置かれた手は、強く強く、リリティアをつかんでいた。


「あの学園であれば……学園長であれば、あなたを受け入れる。それに、神殿勢力も迂闊に手出しができない。とにかく学園に入りなさい。『アルティアの子だから学園長に取り次いでほしい』と言えば、きっとあの男はあなたを迎え入れるでしょう」


 母の言葉に出てくる『学園長』は、信頼されているようでもあったし、同時に怪しまれているようでもあった。

 総じて言えばそれなりの親しさを感じさせる口ぶりだ。だからリリティアは母の話でしか知らない学園長に、ある程度の信頼をおいてみようと思った。


「いいですかリリィ。あなたは『人間』です。あなたの未来を作り上げるのは、生まれ持ったわたくし似の優れた容姿でも、先天スキルや潜在スキルでもありません。あなたの『人間』としての振る舞いこそが、あなたの未来を切り開くでしょう」


『宝石ではなく人間である』

『花ではなく人間である』

『スキルがなんであろうと人間である』


 母は繰り返しリリティアを『人間である』と言い続けた。

 リリティアはそう言われるたび『それはもちろん、そうに決まってるけど……』と戸惑った。自分が人間であることなどわかりきっている。なぜわざわざ言われるのかわからなかったのだ。

 あまりにも言われすぎて、逆に自分は人間ではないのかなとか思う日もあったほどだ。


 その冗談みたいな、口癖みたいな、なんの意味もないような、言い聞かされ続けた言葉が━━


 まさか、母にとって、何より重要な願いであることなど、感じ取れなかった。


 リリティアは利発な子供ではあったが、それでも察しきることなどできようはずもない。

【聖女】であり王族であった母がすべてを捨ててまで自分を守ろうとした理由。自分の正体。そんなものをリリティアは知らなかったのだから。


 だから母が切迫した様子で自分にいろいろ言い聞かせるのを、リリティアは最後まできょとんとしながら聞いていた。


『なんだかよくわからないけれど、母がこうまで真剣に言うのだから、まあとりあえず、言う通りにした方がいいのだろう』


 リリティアが学園都市を目指した理由はその程度のものだった。


「リリィ、しばらくは僕と一緒に行こうね」


 父が穏やかに微笑む。

 普段いつも胃痛を覚えているような父がこうまで穏やかな顔をするのは珍しかった。ささいなことにストレスを覚え、母のやらかしに振り回され、胃のあたりを押さえて顔を青くしていた父。

 この時の彼の表情は日常のどの瞬間よりも気楽そうに見えて、しかし、その背後には、日常のどんな瞬間にも感じ取れなかった『断固としたもの』が見え隠れしているようだった。


 反対にいつも楽しそうにしていた母アルティアは、とても真剣で悲壮な顔をしていた。

 その母をなぐさめるように父が微笑みかけると、母は血の気を失った顔で笑った。


「きっと、学園都市で会いましょう」

「うん。リリィは必ず送り届ける」


 ほんの短いやりとりのあとに、リリティアは隠れるようにしながら父とともに村を出る。


 ……昼日中の明るい空の下で、黄金の麦穂がさざ波を立てている。

 海は見たことがなかった。本物の波も知らなかった。けれど両親の昔話に出てくる、夕暮れ時の海の話は好きだった。

 あの麦穂畑のような黄金のきらめきが、ずっとずっと、ものすごくずっと遠くまで続いていて、風もないのに途切れず、ゆらゆらと動き続けるらしい。


 なんとなく、振り返って、目に焼き付けた。


「リリィ、行くよ」


 父は焦った様子こそ見せなかったが、それでもたしかに、リリティアを急かした。

 そうして━━


 リリティアは、村を出る。


 戻ることの叶わない旅路の始まりだった。



 ほんの三日ほどの旅でリリティアは疲れ果ててしまって、反対に、虚弱そうで、そして実際常に胃痛を抱えている父は、おどろくほど平然としていた。

 いつでも微笑を浮かべてリリティアのことを気遣い、リリティアを決して焦らせることはなく、それから、村で何が起こって、母はなぜ残ったのかという質問にだけは、決して答えてくれなかった。


 リリティアが疲れ果ててしまったのは肉体の幼さ以上に、隠れひそみ続ける旅路が精神を削っているせいだ。


 何かが常に、周囲にいる。


 父はリリティアに周囲の気配についてたずね、それを避けるようなルートを選んでいるようだった。

 リリティアが気配や視線に敏感だというのは昔からそうで、それはどうにも潜在スキルの受動的パッシブ技能のようだ。

 潜在スキルの名称については教えてもらえていない。


 こんな時なんだから教えてくれてもいいのに、と思った。


 ……リリティアはまだ事態の全容を把握していなかったけれど、明らかに異常事態が起こっていることだけはわかっていた。

 だから自分の潜在スキルが役に立つと思って、それを父に問いかけた。父も母と同じく神官だから、リリティアの潜在スキルを鑑定できるはずなのだ。


 状況を思えば教えるべきだろう。

 父に気配を察知する能力はないのだ。すでにリリティアの感覚に頼っている。だから今さら潜在スキルを伏せる必要なんかないじゃないか。それとも神殿の提唱する『スキル鑑定は十五歳になってから』というのは、そこまで優先すべき決まり事なのか━━


「僕がリリィに潜在スキルを明かさないのは、聖典にそうあるからというのが理由なのだけれど、別に、盲目的に従っているというわけじゃあないんだよ。聖典にそうあるだけの必然性を認めているから、その方針を採用しているんだ」


 父は母と意見が対立した時には自分の意見を伏せてしまって、とにかく母をなだめるような動きをする。

 だからこうして『父の意見』みたいなものを聞くのは初めての機会だったかもしれない。リリティアは興味深く思っていることを視線で伝えた。


 父は旅路が始まってから初めて、いつも村で浮かべているような、気弱な笑みを浮かべた。


「十五歳ぐらいになるとね、ようやく人の個性がはっきりするようになると、僕は思うんだ。リリィぐらいの歳で形成されつつある個性は、十三歳や十四歳ぐらいで確固たるものになろうとあがく・・・過程を経て、ようやく十五歳で大人になっても続く性質みたいなものが固まる。その前に潜在スキルを教えてしまうのはよくないと、考えているんだよ」


 まあ、アルティアみたいに特別我が強くて、子供のうちから完成してしまっている子もいるけれど━━と穏やかに笑って、


「僕はね、幼いころに自分の潜在スキルが【占い師】だと判明したんだ。まあ、なんていうのかな……神殿の先輩たちの意地悪でね。神殿内だとよくあることなんだけれど……だからね、【占い師】らしくあろうとした。そうして、自分の個性を見失ったんだと思う」


 人格があやふやな時期に潜在スキルについて知ってしまうと、みずからの性格をそちらに寄せてしまうことがある。


「……まあ、大人になるといろいろあるからね。『自分の個性』なんていらないと思う時もある。『スキルらしさ』を貫いた方が楽なことは多い。剣士は勇猛な方がいいし、騎士は高潔な方がいい。その方がわかりやすいだろう?」


 リリティアはうなずく。

 父は、笑って頭を撫でてくれた。


「でも、スキルに影響されていない個性こそ、この世界に住まう人が誰でも持つことのできる宝物だと思うようになったんだ。お母さんのお陰でね。だからリリィにも、スキルの前に、『自分』を確立してほしい。君から宝物を得る機会を奪うようなことは、なるべくしたくないんだよ」


 その『自分』こそが、母の語る『人間』なのだろう。


 リリティアは父の話をすべては理解できなかった。

 ……せがんで、理解できるまで噛み砕いてもらうべきだったのかもしれない。


 翌日、ついにリリティアと父は神官戦士に見つかってしまった。


 学園都市まであとわずかという地点。

 ついにリリティアは、一人になった。

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