適当短編集
静沢清司
目には目を、城田には城田を。
「佐藤さん?」
城田さんにそう呼ばれて、俺は頷き、運ばれたコーヒーカップの縁に口をつけた。苦い、と心のなかで一言。やっぱり恰好つけてコーヒーなんか頼むもんじゃないな、と鼻から息を吐いた。
「それでは、あなたが連絡をくれたあの佐藤さんですか?」
「ええ」彼女は納得したように顎を引く。
「あの、ご相談を聞いてくれるのは、本当なんでしょうか?」
彼女はいちいち確認が多いな、と眉を曲げたが、それも当然なのかもしれないと思って唇を緩めた。
「ええ」
「では、お願いします」と城田さんはそう言って、俺とは向かい側の席に座った。
一時間前。
仕事がない休日。二日前から続いていた三連休だったのだけれど、今日でそれも終わる。明日から仕事だ、とため息をつきながら寝床で横たわっていると、先日、先輩との会話を思い出した。
「お前、まだスマホに変えてないんだな」
先輩は、一重まぶたの細い目で俺を睨んだ。デスクでかちかちとキーを打っているとき、急に話しかけてきたものだから、思わず体を引いた。
「なんですか?」びっくりしたぁ、と小声で言う。
「いや、ずっと携帯のままだよなって思ってよ」
「まあ、そうですね」ポケットから携帯を取り出し、見つめる。「それがどうかしたんですか」
「ちょっと思いついたことがあってよ」
「思いついたこと?」俺は首をかしげた。
「テキバンで誰かにメール送れよ」
「テキバン?」
「適当な番号つって、適番」ああ、そういうことか、と俺は納得をするが、すぐに首をひねった。「なんで、俺がそんなことを?」
「罰ゲーム、なんにするか決めてなかったなと思ってよ」
俺はそこで「あ」と声をもらした。そういえば、先週飲み会へ行って、どっちが先に酔いつぶれるのかと勝負したところ、結局、俺が負けたのだった。勝負のまえに先輩は「負けたほう罰ゲームな」とまるで高校生のように顔をくしゃくしゃにして笑っていた。ちなみに負けたあとの記憶はない。
「やってくれるよな」
先輩は細い目をさらに細める。それは睨んでいるというわけではなく、微笑んでいるのだが、俺にはその微笑みが怖い。
「でも」と俺はためらった。
「いいじゃねえか。別に電話しろってわけでもねえんだからよ」
メールだとしても、電話だとしても、どちらとも迷惑行為には変わりないと思うのだが、と俺は言いそうになるのをこらえた。
「うーん」とうなったとき、先輩が俺の肩に手を置いた。ぽん、とコミカルな効果音が頭のなかに流れる。同時に映画「ジョーズ」のテーマがさらに俺の恐怖心をあおるように流れた。
「てことで、メール、よろしくな」
「そんなあ」俺は肩を落として、「メールするにしても、どの番号にかければ」
「そうだな、ならこれはどうよ」と先輩は言って、デスクの上にあったペンを手に取り、ふせんをバッグから取り出して、そこに書きだした。先輩は左利きだ。
「なんて送れば」と言いかけたところで先輩が「お悩み相談、受付中です、とでも書いとけ。本気で悩んでいる奴は、だいたいそれでつられる」なんてうそぶいて、文面までもそのふせんに書き足した。そのふせんを押しつけられるように渡され、「それじゃ上手くいったら報告よろしくな」と言われた。
そのふせんを、まだ持っているだろうかと俺はバッグをあさる。なかったら最高だな、と思っていたのだけれど、物事はそう簡単に都合よくは動かないとここで思い知った。見事、ファイルに挟んであった。
それで、俺はその番号にメールを送ってみた。
「お悩み相談、受付中です」という内容だ。我ながら怪しすぎると思ったのだが、知らない番号から送られれば、どんなに親切な内容でも人間は裏があると思ってしまう。たぶん人間は、表と裏とかを見ているんじゃなくて、前に伸びる影を見ようとしているのかもしれない。だからこの場合、メールに隠された裏ではなく、メールから伸びる影を見るのだろう。
そしてその三十分後に「それは、ほんとうなんですか?」という返信が来たのだから、世の中は本当にわからない。
それからメールのやり取りを続けると、相手が城田という名前であることと、ここの喫茶店で待ち合わせるということになった。
「なにか頼みます?」俺は訊ねる。すると「じゃあ、アイスコーヒーを」とためらいがちに言ったので、店員を呼んで注文した。このとき、俺は自分で二人分の代金を払おうとしたのだが、それではもっと怪しまれるのではないかと考えた。が、そもそもメールの時点で怪しいのだからあまり気にしないことにした。
「アイスコーヒー、好きなんですか?」
「いえ、あまり」
「嫌いなんですか?」俺は意外そうに言った。
「そうですね、コーヒーはあまり」それならなぜ、というような視線を送ると、それをくみ取ったのか、彼女は続けた。「嫌いなものを食べたり飲んだりすると、緊張がほぐれるから」
「へえ、そういうものなんですか」なんとなく既視感を覚える。
「まあ、そうです」城田さんは、あまり会話が好きなようには見えなかった。顎は細く、毛穴が目立たないほどのきれいな肌。二重まぶたで目は大きく、肩まで伸ばした髪は茶色だった。それと、丸眼鏡をかけていた。そのおかげで冷たそうな美人、という印象から愛嬌のある美人という印象になっている。年齢はおそらく二十代前半ほどだろう。対して俺は三十五。これではおっさんが若い女性をナンパしているようなものじゃないか、と俺は卑屈になる。
とりあえず、本題に入ろう。「それでは早速訊きますが、お悩みとはどんな?」と言うと、城田さんは少しうつむきがちに「えっと」と言葉を探しているようだった。言いにくいことなのだろうか。まあ、悩みとはそういうものなのだろうが。「えっと、わたし、ストーカーに遭っていて」
「え?」それなら、なぜと疑問が浮かぶ。そんな問題に直面しておきながら、知らないメールに返信するのだろうか。俺は少し心配になる。
正直に言えば、もうここで「あ、用事ができたんでさようなら」と言い捨てることもできた。これでもう罰ゲームは終わりだろうし、報告は適当にすればいい。
だが、なんとなく引き下がれない気分だった。これはおそらく、俺が昔から何かを中断するのを嫌う性格だからだろう。
「ストーカー?」俺は身を乗り出した。すると女性はびっくりしたように身を引いていたので、「ああ、すいません」と苦笑しながら俺も背もたれによりかかった。
「ストーカー、とはどういう?」俺は改めて訊ねた。城田さんは唇を細めながら、こう言った。「仕事帰り、後ろから追われているような感じで、ずっと視線を感じてるんです。それでつい先週、思い切って振り返ってみたら」
「みたら?」
「スーツ姿の男性がこちらを見つめてきて、わたし、もうそれで自分で自分がわかんなくなるぐらい、全力で走って帰ったんです」
「なるほど」それは確かに怖いな、と俺は眉をひそめる。「それで、俺にそのストーカーを退治してほしいとか?」
「退治はしなくていいですよ」そこで城田さんは笑った。「まあ、自分でもどうすればいいか、わかんないですけど」と言って、城田さんは左手でコップをもってアイスコーヒーを飲んだ。
「あ、そうだ」と俺は思いついたように顔を上げる。「そのストーカーはあれですよね、あなたに好意があって、そうしてるんですよね?」
城田さんは目を見開いて、首をひねりかけたり、顎を引いたりする。「ど、どうなんでしょう」
「だいたいはそうだと思うんです。なら、あなたと一緒に帰ってるところを見せつけたら、諦めるんじゃないですかね」
「ああ」なるほど、と城田さんは頷いた。俺はそこで眉を下げた。「どうしたんですか、そんな怖い顔して」と彼女が俺の顔を見つめる。
「いえ、なんでもないですよ」と微笑んだ。
そこで携帯電話が鳴った。右ポケットが震えている。俺はそこから携帯を取り出して、「すいません。ちょっと席外しますね」と言って彼女が頷く前に、店を出ようと扉を開けていた。
店の前で、俺は携帯を耳に当て、「もしもし?」と訊ねる。
「おう」先輩の声だった。「どうだったよ?」
「メールのことですか?」
「ああ。もう済ませたか?」
「まあ、一応返信は来たんです」
「おい、マジかよ」
「しかも女性で、ストーカー被害に遭ってるって」
「へえ、そりゃ大変だな」さほど大変とは思っていなさそうに先輩は言った。「最近は適番を使った詐欺とかもけっこう増えてるからな、そう思われねえように気をつけろよ」
「ちょっと俺、一仕事してきてもいいですか」
俺は喫茶店の窓際に座る城田さんに目を向ける。彼女も電話をしているようだった。
「なんでそんな確認──まあ、そうだよな。いいぜ、存分に仕事してこいや」
「ありがとうございます」
「さて」ふう、と先輩は息を吐いている。「俺も、一仕事してくるかね」
「なにするんです?」
「まあちょっとな」先輩は声を高めて、言った。「目には目を城田には城田を、ってやつだ」
* * *
スーツ姿の男は、夜道を歩く。こんなにもあっさりとつれるなんて思わなかったな、と男はにやけた。つい数時間前の、電話でのやり取りを思い出す。
「へえ、けっこう乗り気なんだな」男は公園のベンチに腰をかけて、足を組む。「ちょろ」
「ちょろいよね」女は言う。
「まあ、二個目の曲がり角でなんだな?」
「うん、よろしく」
男は両手をポケットに入れて、気だるそうに歩く。ちゃんとついてきて、と数メートル離れた女に声をかけられる。わかったって、と男は小走りになり、ちょうど二個目の曲がり角の近くに来た。
よし、と男は心のなかで覚悟を決める。あと三歩ほど曲がり角に着く。
一歩、男は唇をゆがめる。
二歩、女と目を合わせる。
三歩、曲がり角を曲がり、男の胸元にぶつかる。
「よう」男の胸元にぶつかった男は、話を聞いたところでは、佐藤という名前とのことだった。「おっさん」だがあえて、男は佐藤とは呼ばなかった。
対して佐藤は何も答えない。うろたえることもしない。体が硬直しているのだろうか。だっせえ、と男は噴き出す。ぽんぽん、と男は佐藤の頭を叩く。
「お前さ、俺の女につきまとわないでくれる?」
佐藤は少しばかり身長の高い男の顔を見上げるだけだ。
男は壁に手をついて、後頭部を荒々しく掻く。
「あのさ、聞いてん──」のか、と手を伸ばしたとき、佐藤が男の手首をつかみ取り、ひねり上げる。男がいてて、と喚いたあと、男の顔は空を向いていた。男はなんで、と頭のなかで疑問ばかりが埋め尽くされる。先ほどまで佐藤の顔を見ていたはずが、空が視界にある。そう認識したと同時に腹に衝撃が走る。外皮に衝撃がいったというより、内部から衝撃が生まれたような感覚だった。唐突に、息ができなくなる。みぞおちを殴られたらしい。そう理解したあとで男は抵抗さえできずに、佐藤は握られた手首を引いて、男の足をひっかけて、転ばせた。男は後ろへ倒れこみ、背中を思い切り地面にぶつける。
「なんで」という声が、男の口から洩れる。だが、あまりに弱々しい声だった。聞いていた話と違う、と男は女に怒りを覚え、結局、意識を失った。
* * *
「なんで」とスーツ姿の男性の口から言葉がこぼれた。なんでもなにも、と俺は深くため息をつく。俺は向こうの電柱に身を寄せて震えている女性に視線を向ける。美人なのにもったいない、と俺は肩を落として、その女性へ近寄った。
や、やめて……と女性は上ずった声を出している。やめてほしいと思うなら今のうちに逃げればいいのでは、と俺は提案しようとしたが、やめた。どうせ脅しかなんかだと思われる。
女性の眼前にまで来て、俺は足を止める。「なんで、こんなことしたんですか」と訊ねる。だが女性は、ごめんなさい、という言葉を繰り返すだけ。
「もう一度訊きます。なんでこんなことしたんですか」俺は言った。「城田さん」
「だって」
「だって?」
「暇だったし」
「暇なときにする遊びにしては、過激すぎるんじゃないかな」
「あんたには」関係ない、と彼女が言うまえに「関係あるないじゃないと思うけど」すると女性は黙りこくった。だがしばらくして、また口を開いた。
「いつから」
「いつから?」
「いつから、気づいていたの」と俺を睨んでいる。いや、睨んでいるというよりこちらの出方をうかがっているのだろう。「うーんとね。城田って名前を知ったときから?」
「そんな前から?」城田さんは驚いたように目を見開いている。
「正確に言うなら、君さ、アイスコーヒー頼んだでしょ?」
「は、はい」と曖昧に頷く。
「そんときさ、ずっと左で持ってたよね」
「ええ」
「まあ、そこで少しずつ確信に変わってって──で、これは間違いないって思ったのは、君に提案したときと俺が店を出たあとかな」
「提案?」
「提案っていうのはほら、君といっしょに帰れば諦めてくれるんじゃないかっていうやつ」でさ、と俺は続ける。「それ言ったあと、君はすぐに乗り気になったよね。普通ストーカーに遭ってるならさ、警戒心とか恐怖心とか、けっこう限界値まで行ってると思うんだよ。だからもし、俺がストーカー被害にあってる人ならこう思うんだ」
城田さんは黙って聞いている。
「この人怪しいなって、もしかして実はこの人がストーカーで、わたしの電話番号とか知ってて、それでメールをしてきたんじゃないかって」
「あ」城田さんが、たしかに、というような顔をしている。
「でしょ? 女性は勘が鋭いって先輩が言ってたし。あと君、あれでしょ。こういうことにあまり慣れてないでしょ。初めてではないにしろ、数回だけこなしてきた感じ。で、そのどれもが成功したから調子に乗ってる感じでもある」
下唇を軽く噛んで、城田さんの目を見据えた。
「あと俺が店を出たあと、君も電話をしてたよね。すっごい悪い顔しながら」
そこで、「さっすがだなあ、佐藤」というこちらを褒め称えるように声高らかに俺を呼ぶ。「先輩、遅いですよ」
「え?」城田さんは顔を横に向ける。薄暗い道の向こうから、かつかつ、と足音を立ててやってきたのは先輩──城田先輩だ。
「お兄ちゃん?」
「よう、バカ妹」
そこで、俺はあとねとさらに続けた。「君が城田先輩と兄妹関係にあることもなんとなく気づいてた。左でカップ持ってたとかっていうのは、そういうこと」
「みゆ」と先輩は彼女の名を呼ぶ。「お前、この前も言ったよな。こういうことはもうやめろって」
「なんで、ここに」
「そんなの決まってんだろうが。バカ妹と兄妹喧嘩しにきたんだっての」
先週の飲み会で、城田先輩はこういうことも言っていた。妹が最近やんちゃして困ってる、と。城田先輩は妹と二人で暮らしているらしいのだが、最近反抗期だちくしょう、などと言ってストレスを溜めていた。
「だからってなんでこんなこと」
「まあ、佐藤には協力してもらったんだよ」
ほぼ押しつけられるような形だけど、という言葉が出かかる。
「あの番号って、適当なんかじゃなくて、妹さんの番号なんですよね」それをふせんに書いたのも、意図的なもののはずだ。
「ああ、そうだ」先輩はため息をつく。「こいつな、適番使った詐欺とかけっこうやってたんだよ」と妹さんを指さす。「適番でメール送ってよ、誰かと待ち合わせして、そんでいっしょに帰り道を歩くように話を持ってく。それで逆にその誰かさんをストーカーに仕立て上げて、金をもらう」
「それはひどい」と俺は大げさに言ってみせた。
「だろ?」ひどいもんだぜ、と先輩は付け足した。「これがさらに、妹がやってんだから世話ねえよ。だからよ、みゆ。こっちから仕掛けてやったんだ。俺一人で解決しようにも、兄貴の俺がでしゃばると警戒されて逆に何事もないかのような顔をされるからな。──知ってるか? 佐藤はな、むかし親父さんに格闘術習ってたんだよ。だからこいつに協力してもらって、おまえの男をいっちょ転ばす。そしたら、大抵の奴は怯える。とくにみゆは、怖がりだからな」
「でも、それなら俺に事情話したっていいじゃないですか」と俺は文句を言うように訊ねた。すると先輩は「こんなこと事前に話したらお前、面倒だから嫌ですよ、とか言うだろうが」それはたしかに、と俺は納得する。だから途中までやったら引き下がれない俺の性格を利用したということか。
「まあ、そういうわけでよ。もうこんなのやめろよ。どうせ警戒して今までの奴らの番号残してんだろ? 俺が一緒に謝りにいってやっから、金を返しにいこうや」
「で、でも……」
「もう遅いってか?」先輩は肩を落とす。「謝るのに遅いもクソもねえんだよ。誠心誠意謝れば、過ぎた時間なんか関係ねえ」
「ほんと?」と妹さんはまるで小動物のように先輩の顔を見上げている。先輩は「ああ、もちろんだ」と言って、二人は抱きしめ合った。
とりあえず、これで一件落着ってところかな、と思っていると、先輩がふと思いついたように妹さんから離れる。肩をつかんで、妹さんを見つめていた。
「なあ、みゆ」
「どうしたの?」
「ちなみによ、なんでこんなことしたんだ?」
「え?」それは暇だったから、と言うのだと思ったが、彼女は違う答えを言った。「家賃、四か月くらい払ってもらってないって大家さんに怒られて、わたしもお金ないし、お兄ちゃんも余裕そうには見えたかったし……それで、彼氏に相談したら、これをやろうって誘われたから、なんだけど」
「あ」先輩は気まずそうに俺のほうを見てくる。「たしかに俺、払ってねえ」
俺はそんな先輩をいったいどのような目で見ていたのか。冷たい目で見ていたのか、驚きに満ちた瞳で見つめていたのか。どちらにしても共通して言えることが一つある。
「アホらし」
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