17
「!」
扉の向こうには、明治時代の石崎の町並みが広がっていた。藁葺き屋根の木造家屋が並んでいる。今と比べて家の数は少ないようだが、密集度はそれほど変わらない。しかし……その風景は、まるで夕方のように暗かった。昼の一時過ぎのはずなのに。そしてそれは、ほぼ真上にある太陽からも明らかだった。だが、この太陽もまた、ずいぶん暗い。そして、やっぱり物の色が違って見えるようだ。例えば、藁葺き屋根は茶色っぽいはずだが、なんだか紫がかっているように見える。草の葉は緑のはずだが、暗い灰色だ。そうか……これがヤスが言っていた、赤方偏移ってヤツなんだな。
「カズ、シオリ」
声に振り返ると、ヤスだった。同じ時間の流れにいるからか、この異常な色使いの世界の中で、ヤスとシオリだけはいつもと変わらない色合いだった。まるで二人だけ背景から浮き上がっているように見える。
「あれ、声は普通に聞こえるんだな」
「ああ。たぶんおれは今、十倍の速さで喋ってる。だからこの世界の人が聞いたらものすごい早口の高い声で聞こえるはずだ。だけど同じ時間の進み方のお前らには普通に聞こえる。ただ、音速も十分の一になってるから、口パクと声が合わないかもだけどな」
またもやヤスの科学知識が炸裂だ。なるほど。言われてみれば確かに彼の声は口の動きよりも少し遅れて聞こえるような気がする。ヤスは続ける。
「さ、隊長。指示してくれ」
なんというか、今回の作戦ではなぜかぼくが隊長になってしまった。まあ、たまたま自分の学校で学級委員長をしている、っていうのもあるけど、ヤスはあんまりリーダーになりたくないらしい。「おれは船長よりも科学主任の立場の方が向いてるからな」と言うんだが……なんのことやらさっぱりわからない。聞いてみたら、イチロウ伯父さんが大好きな古いSF宇宙映画の話らしい。彼もその映画が大好きなんだそうだ。
「う、うん。それじゃ、ぼくはここからまっすぐに行く。ヤスは右側、シオリは左側を頼む。十分後に西宮神社に集合。いい?」
「ああ」
「うん」
ヤスとシオリが同時にうなずく。
「よし。それじゃ、行くぞ!」
合図と同時に、ぼくらは散開した。
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不思議な感覚だった。
普通に歩くだけでもグイグイと風景が進んでいく。ただ、ものすごい向かい風の中を進んでいるようだ。これが十倍の空気抵抗なのか……
そして、確かにヤスの言う通り、あまり意識しなくても結構なジャンプになってしまう。全力でジャンプしたら、おそらくこの世界の家なら屋根を軽々越えられるんじゃないだろうか。ただ時間の速度が十倍になっただけなのに、とんでもないチート能力を授かったみたいだ。
ぼくは一番手前の家の玄関の引き戸を開ける。少し力をこめるだけでも、まるで吹っ飛んでいくような勢いで戸がスライドするのだ。
玄関を上がってすぐ
ヤスの言った通りだった。光が全然見えない。レーザーポインターの前に左手を差し出してみる。なるほど、確かに手のひらの上でレーザー光線による赤い光点が明るく輝いている。ぼくは女の人の方にレーザー光線が向くように左手と右手を動かして、左手を払う。これで女の人にレーザー光線が当たったはず。
次の瞬間。
彼女の真下の床に、まるでくり抜かれたように丸くて黒い穴が出現した。そして、スローモーションで女の人と赤ちゃんがその中に飲み込まれていく。
よかった。「神」は約束を守ってくれたんだ。これならここに残っている村人を全員ワームホールで避難させることができそうだ。
ぼくは玄関を出て、そのまま次の家に向かう。
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石崎は基本的に昔から漁師町だ。そして今の時間、男たちはみな漁船で漁に出ていた。町に残っているのはほとんどが女子供か老人だった。トイレの最中の人がいたらどうしようかと思ったが、ありがたいことに一人もいなかった。
そして、ぼくの受け持ちの家は全部終了した。西宮神社に着く。目の前は石崎漁港のはずだが、今のように防波堤もなく、単なる砂浜だった。そして……昼間なのに、夜のように黒い海。まあ、空が暗いので当然なのかもしれない。
「カズ兄!」
振り返ると、ちょうど浮き上がっていたシオリがふんわりと着地したところだった。
「おう、シオリ、どうだった?」
「うん。ウチの担当は、全部終わったと思う。でも……お兄ちゃん、来んね……」
「ああ、どうしたんだろう……」
たまたま人が多かったんだろうか。ずいぶん時間がかかっているみたいだ。だけど、ぼくらの時間であと2分後に爆弾が落ちてくる。それまでに帰らないと、ぼくらも巻き添えになってしまう。
「シオリ、お前は先に戻って、避難させた村人たちに説明しておいてくれ。何が何だかわからない状態だと思うから」
「え、でも、カズ兄、どうすらん?」
「ぼくはヤスを探す。何かあったのかもしれないから」
「で、でも……」
「これは隊長命令だ。いいな、シオリ」
ぼくが真剣な顔で言うと、シオリもようやくうなずく。
「分かった。カズ兄、絶対、無理せんといてね」
「ああ。それじゃな」
「うん」
シオリがレーザーポインターを足元に向けた。そこから黒いワームホールが広がって、彼女の体はゆっくりとその中に吸い込まれていく。
「カズ兄! 絶対帰ってこなダメやさけね!」
シオリの声を背中に聞いて、ぼくは走り出した。
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「ヤスー! どこだー! 返事をしろー!」
叫びながら、ぼくは街の中を探し回った。
「カズ! ここだ! 手伝ってくれ!」
「!」
声の方に振り向くと、そこはかなり大きめの家だったが、玄関に「石崎小學校」と書かれた木の板がぶら下がっていた。
そうか! ここは小学校なんだ。ってことは……子どもたちがたくさんいる……それで時間がかかっていたのか……
入り口から中に飛び込む。部屋が二つあり、一番手前のそれの中には既に誰もいなかった。おそらくヤスが全員避難させたのだろう。奥の部屋に、ヤスがいた。
「ヤス!」
「すまん、カズ! 他の児童や先生は全員避難させた。あとはここにいる子どもたちだけだ!」
「分かった!」
部屋には子どもがまだ十人くらい残っていた。みんな怯えた顔でこちらを見ている。そりゃそうだ。たぶん子どもたちにはぼくらは、やたら動きの速い怪物のように見えているはずだ。怖いだろうな。悲鳴を上げているのだろうが、間延びした低い声しか聞こえない。
ごめんな、脅かして。だけどこれも全部君らのためなんだからね。
心の中で詫びながら、ぼくは次々に子どもたちの真下にレーザーポインターを向けて、ワームホールの中に沈ませていく。
「よし、これで全員完了だ!」
スマホの時計を見ると、もう時間がない。爆弾は既に上空に出現しているはずだ。ぼくとヤスは自分の足元にレーザーポインターを向ける。
瞬時にワームホールが生成され、ぼくたちは宙に浮いたような無重力状態になる。
しかし……
なかなか進まない。それは当然だ。確かに加速はしているようだが、なんたって落下速度も十分の一なのだ。うう……気持ち悪い……胃が裏返りそうだ……
ようやく頭の辺りまでワームホールに沈んだ、その時。
すさまじい大音響と共に、ぼくたちは吹っ飛ばされた。
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