仙人奇譚
Emotion Complex
第1話
――頭は大丈夫か?
フォンユーは思った。
もちろん顔には出したりしない。
その子は珍しい服を着ているだけであって、それで中身まで評価するのは本意ではない。
しかしだ――改めて、その子に意識を移す。
山道に点在する大きな岩の一つに座っている。左脚だけで胡坐をかくように、肉感的な右脚は投げ出して座っている。
俯いているため顔は見えないがまだ若そうだ。それでもフォンユーよりは上だろう。
何より着ている物が凄い。ほとんど下着だ。
派手な刺繍と、きらきら光を反射する飾りのついた布地は、首と胸元、それに腰しか隠していない。
袖と腰巻部分は半透明の布で腕と腰は晒されている。
――関わりたくないな。
そう思っても前を通らずには帰れない。
岩肌が覗く崖を切り崩した道は、石と土だけで視界の彩度は低かった。緑がほどんどないのは冬が近いからではない。
三ヶ月前の仙人大戦で、世界は変容を遂げた。
月のように浮かぶ丸い岩から降る雨に年中晒されている山――
墓石のように綺麗に面取りされた岩が並ぶ谷――
海から山へと遡って行く大きな川――
雲に乗って空を彷徨っている町――
今フォンユーが歩いているこの辺りも影響を受け、植物が全く育たなくなったという。
それでも人は、不可思議な世界で変わらずに生きていた。
彼女も変容を遂げた一部かと思いたいのを抑え、フォンユーは距離を縮めていった。
その子が顔を上げた。
明らかにフォンユーを意識している。
「お前、フォンユーでしょぅ?」
やはり声をかけてきた。
想定していたとはいえ、自分の名前を出されると平然とは対応できない。
フォンユーが顔を向けると、その子は微笑む表情を作った。大きく丸い目は光の加減で紫苑色を浮かせ、下がった目尻には愛嬌がある。つんとした鼻と艶やかな唇は美人の部類に入る。
ただ、それらが作る笑みは、どこか嘘を感じさせた。
「そうですが――君は?」
「あちきはチュンジュンといいますぅ。お前に有益な情報を持ってきましたよぉ」
語尾を伸ばして更に上がる妙な言葉の抑揚は、弾む会話を拒否しているようだ。
「さて。なんでしょうね」
「昔々、仙人の頂点を決めようと、ある流派の総帥が各地の仙人へ集まるように声をかけたぁ」
「そこからかい――」
フォンユーはうんざりした。
――長くなりそうだ……。
訊き返してしまった自分に説教したい気分であった。
「残ったのは武闘系の少女と白い猿ぅ。二人は総帥の企みに立ち向かうが、術は発動してしまぅ。その古代秘術により世界は変貌したぁ」
「昔じゃなくて、つい三ヶ月前の話しだろ、それ」
フォンユーの駄目出しも意に介せずチュンジュンは続けた。
「その時に使われた五つの玉が世界を変えたんだぁ」
「へえ」
「それは今も飛び回っているけど、一つだけ所在が分かってるぅ」
「どこにあるんだ?」
フォンユーの態度にその子――チュンジュンは怪訝な表情を作った。
「覚えはないかぁ?」
「そんな玉は見たことはないな。他を当たってくれ」
フォンユーはその場を離れる。
正直ほっとしていた。自分には関わりのない話しであった。
「おかしいな、記憶はあるはずなのにぃ」
「ないよ」
「飛んで来た光が身体に当たった記憶……ないかぁ?」
フォンユーは足を止める。
言われると、そんな記憶がある。
細い糸につながる過去を切れないように引っ張り出す。
いや、それは自分には当たっていない。
自分と対面している誰かの肩へと吸い込まれていった――
そんな記憶であった。
それがその仙石だとは言い切れない。
しかもそれが誰なのかも――。
そういえば――とフォンユーは思い当たる。
二ヶ月前、村で鬼騒動が起きた。
《
京劇の仮面のような隈取りと角、そして鎧のような筋肉で包まれた身体――村の自警団では歯が立たなかった。
フォンユーも二度だけ戦ったが、優れた体術に苦戦したものだ。
それほど悪さをしてないので決着を先延ばしていたら、《猩朱》はフォンユーの妹――リーチィを狙った。
フォンユーはリーチィを助ける為に《猩朱》と決着をつけた。
その時は必死で思いつかなかったが、なぜ妹が狙われたのか――という疑問が残る。
――もしかしてリーチィに仙石が?
「仙石は仙人には宝だぁ。これからも狙われるぞぉ」
聞き捨てならない言葉が背中を叩いた。
それはリーチィが狙われる――ということと同じ意味か。
フォンユーは問い直してやろうと振り返った
そこには誰もいなかった。
岩の上にはなんの痕跡もなく、ただ夕暮れの風が通り過ぎるだけであった。
* * *
日暮れが早まる季節は、傾いた日差しの赤橙色に厚みがある気がする。
濃い夕陽をかき分けるようにフォンユーは家路を急いだ。
いつのも狩り場である西の森からの帰り道だ。
西の森は動植物が豊富で、岩道を行き来する価値のある場所であった。
村と村を繋ぐ街道は、西の森から緩やかな坂になり、登りきると開けた場所に出る。
岩がごつごつと並んでいる。落石して地面に埋まり、残った部分が不規則に並んでいるのだ。大小様々な楕円の岩が作る迷路のようだ。
村の知り合いの子は「流れ星ですの」と豪語していた。
チュンジュンと会ったのはそこだ。
そこを抜けると、山と山に挟まれた谷間の道が村まで続く。
山から開放されると道は下り、村へ達するのだが、フォンユーの家はその途中にある。
下り道が湾曲した横に民家が忽然と現れる。
それがフォンユーと妹のリーチィが暮らす家だ。
二人では広すぎるくらいの家であった。
庭も大きく、その家屋が三つ以上入るほどなのに、薪置場と洗濯物を干す場所にしか使われていない。
頼りないほど小さい影が、庭の開いた場所で剣の修練をしている。
妹のリーチィだ。
剣を回し、捻り、止めては突く。その度に刃は夕明かりを弾かせた。
上半身を反らせ、右足を軸に左脚を突き出し、剣を左右に揺らしながら軸足を中心に回る。
ひゅんひゅんと空気を切る音が彼女の動きにまとわりつく。
斜めに一刀を下ろし、弧を描いて上へ持っていってピタリと止まる。剣を持っていない左手を峰に当て、左足一本で立つ。
性格を表すように、型一つ一つを生真面目に決めていく。
始めて二ヶ月ほどとは思えないほどの上達振りだ。
リーチィは村の仕立て屋から依頼を受け、服の仕立てを手伝っている。
他にも洗濯や掃除をこなし、空いた時間を剣の鍛錬に費やしていた。
地面に突き刺した二対の太い木の棒が物干しの土台だ。それぞれに渡った紐に、洗濯物が揺れていた。自分たちの衣服の他にも、終わった仕立物も含まれている。
夕暮れの紅い風を受け、布が踊るように揺れていた。
やることをやっているので、剣の修行を止める理由がなかった。
フォンユーが見ても、お世辞抜きに筋が良い。
流れる剣捌きと演舞は充分実戦に使えるほどだ。
――嬉しくないけどな。
それがフォンユーの本音だ。
リーチィが剣の訓練を始めたのは二ヶ月前――《猩朱》事件の後だ。
フォンユーに助けられたのが気に入らなかったのか。
それともぎりぎりの戦いをした兄に不安を感じたせいなのか。
どちらにしろフォンユーへの信頼不振にしか思えなかった。
「お帰り」
リーチィがフォンユーに気付いて言った。
明るい浅緑地に似紫色の糸で草花の刺繍が施されている服は自作のものだ。
薄い胸がまだ上下して空気を求めている。
汗はそれほどかいていないようだが、温度差で薄く湯気が彼女を囲んでいる。
「ただいま」
フォンユーは庭へ入っていった。
迎えるようにリーチィも近付いてくる。
身長はフォンユーの胸辺りまでしかない。細身で体重ならフォンユーの半分ほどかもしれない。
さらさらの髪が風に揺れた。
村へ来た時にばっさりと切ったのだが、もう肩まで伸びている。
身体を動かしていたからか、頬が桃色に染まっていた。
主張は少ないが通った鼻の下で、小さな唇はしっかり結ばれている。
切れ上がった目の中で、瞳が夕日を受けて金色に揺れていた。
「獲れた?」
「太ったウサギが二匹」
フォンユーは獲物を差し出した。
リーチィが少し困った顔をした。
これは二人で食うには多いな――という表情だ。
「余った分は干し肉にして村へ配ろう」
リーチィはウサギを受け取りながら頷いた。
「だいぶ、上達したね。でも――」
「もう決めたことだから」
リーチィはそそくさと中へ入っていった。
残ったフォンユーは頭を掻くだけであった。
リーチィが剣を貰ってきた時に、散々もめたのだ。
折れたのはフォンユーの方だ。
事件に巻き込まれ、フォンユーは力不足を感じた。
自分の仙術は頼りにならなかった。
そこで、村の鍛冶屋を訪ねた。
武具を造ってくれないか――と。
無愛想な鍛冶屋は、農耕具の整備を条件に
筆架叉とは、持ち手から三叉に分かれ、真ん中が長く両脇が短いのが特徴的な武具だ。
長いといっても肘より少し出るくらいで、断面が六角の太い細剣といった印象だ。
相反した言い方をしたが、棒以上剣以下の使用感なのだ。
《刺す》と《叩く》で攻め、両脇の護手叉で剣を受けられる。
フォンユーは自分に合った武具だと思っている。
お金を持っていなかったフォンユーに断る理由など無かった。
ところが依頼された農耕具が聞いていたより多い。
文句をつけに行ったフォンユーに、鍛冶屋は悪びれもせずに言った。
妹も剣を持っていたから、その分を加算している――と。
リーチィが剣をもらった理由は、今も聞けていない。
止めても頑なに拒否をするだけであった。
喧嘩をしたところで、フォンユーには言い負かせる材料はないし、勝てる自信もなかった。
無理をしないこと――結局許した形になっている。
「思春期か――難しい年頃になったな」
自我の主張を反抗と取るか、独立への一歩と取るか――。
八歳の時のリーチィは誰にでも話しかけ、笑いかけていた。
里の人気者だった。
女の子の時計は早く回る。すぐに大人となる。十歳の頃にはもうはしゃぐことは無くなっていた。それでも表情豊かで話しかける者が後を絶たなかった。
そして十二歳――現在の年齢だ。
――あれ?
記憶のリーチィとどこか一致しない。
いや、同じだ。
同じだが、違うのだ。
言ってておかしかった。
思考を傾けていく。
目眩に似たぐらつきと共に、過去のリーチィが年齢を重ねていく。
十二歳を通り越し、一瞬だけ大人の姿が見えた。
なぜか胸がちくりと痛んだ。
――幻覚? いや俺はあの子を知っている。
記憶の奔流が過去から現在にたどり着く。
現在の十二歳のリーチィが頭に浮かんだ。
混線した記憶が、遠い過去から別の誰かを呼び寄せたのだろうか?
「なんだろ――」
フォンユーは空を見上げた。
落日に染まる雲がゆっくりと流れていく。
自分でも認識していない記憶が、深い奥底で眠っている。
それは、さっきのチュンジュンの言葉に喚起され、覚醒してきたのだろうか。
全ては憶測で、自分の頭を疑うだけの材料でしかなかった。
フォンユー――戸からリーチィが顔だけを出した。
「手伝って」
静かだが、任せきりなことへの怒りが顕わだ。
「はい――」
フォンユーは即答した。
本当に剣の事でリーチィと言い争えてたのかどうか、自信がなくなっていた。
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