第2話 日暮初のスヌーズ機能

「ひつぎ、起きて」


 抑揚のない声が、せっかく持ち上がったまぶたに重りをつける。

 睡魔が意識の覚醒の邪魔をしていた。


 ……毎朝、思うけど、起こしたいのならもっと肩を揺さぶるとか、大きな声で呼びかけるとか、やりようはいくらでもあるはずだろう。


 なのに、頑なにその一言を繰り返し、言い方も変化しない。


「ひつぎ、起きて」


 ほら、まるで録音を再生させたように同じだ。

 この言い方の方が難しいと思うけど。


「ひつぎ、起き」


「起きる! 起きるからそのフラットな言い方はやめてくれ!

 催眠術にかかりそうだからっ!」


 おれのお腹の上に腰をつけ、見下ろしてくる幼馴染が、「おはよう」と。

 これまた感情が見えない一言で挨拶をしてきた。表情も一切、変わらない。


 昔から、言葉が少なく表情の差異も小さい。

 分かりにくいけど、一応、感情はあるのだ(当たり前だ)。出会ったばかりの頃は嬉しいのか怒っているのかさえ分からなかったので酷いものだった。

 しかし、さすがに十年に届きそうな年月を一緒にいれば、喜怒哀楽くらいなら分かるようになってくる。……いや、それしか分からないのは問題かもしれない。


 やがて、初がおれの上から体を浮かし、ベッドから下りた。


「ご飯、できてるよ」


 リビングに向かうでもなく、初は起き上がるおれをじっと待っている。


 おれが動くまで、本当に何時間でも、何日でも待っていそうだ。


 忠犬みたいだな……冗談ではなく。

 だからさっさと起きないと。


 ベッドから下りて、自然と目が合った。


 おれよりも、ほんの少しだけ(二ミリだったか……?)高い身長……、なので、ほんの気持ち、見上げる必要があった。

 女子なのに高い身長……ってわけでもなく、おれが小さいのだ。


 成長期がまだきていないから、と期待するしか、できることはなかった。


 昔と比べて随分と伸びた、腰まである長い黒髪。


 儚さと病的を備え持つ初の容姿のイメージとは反対に、運動神経はすこぶる良い。


 去年、中学最後の運動会でおこなわれた学年対抗リレーでは、初にバトンが渡ってから他のチームとの差が大きくひらいたのだ(次の走者だったおれで、そのアドバンテージもぴったりとなくなったが、おれが遅いのではなく相手が速いのだと今でも思う)。


 別に、おれだけと喋るほど偏っているわけではない。

 クラスのみんなとは普通に話していたし(抑揚はないけど)、初のそういう性格も受け入れられていた。クラスの輪に混ざれるポテンシャルは、充分に持っていたのだ(おれとは違って)。


 しかし、初はおれにばかり構ってきた。

 初とは幼馴染だけど、小学校が同じというだけで――だったら他にも幼馴染がいるはずなのだ。おれにだけ特別、構う理由が分からない。


 出会いは、崖から落ちたおれを助けてくれた恩人という形だった。

 助けられたおれが、初を特別に思って意識するのは分かるけど、助けた側の初がおれに固執するのは、違くないか?


 特別だから助けた? ……そのあたりの問答は、小学生、中学生時代と何度も交わしたもので、答えは未だに出ていない。初自身、覚えていないのだから答えが見つかるはずもないのだが、おれとしては気になるところだ。


 あれがあって、すぐに初が転校してきたんだっけ?


 引っ越してきたばかりの初が、たまたま山で遭難していたところに、おれが落ちてきた……その出会いに特別さを見出して、おれに構ってくれている?


 まあ、初からすれば、新しい土地の初めての友達だから、特別なのかなあ……。


 出会った順番が一番早かったから、なのだろう。もしも順番が違えば、おれでない別の誰かに……、って、考えるのはやめよう。朝から落ち込む。


 ともあれ、もしも順番だったなら、初はとんだ貧乏くじを引いたものだ。


 ほんと、おれは『はずれ者』なのだから。



 ……でも、それを理解しても、初はおれの傍にいてくれて、ここまで一緒にきてくれた。


「なあ、初」


 呼びかけたものの、やっぱり気恥ずかしくて、言葉は分かっていても出ていかない。


 初は小首を傾げて、おれの言葉を待ってくれている。


「いや、その、さ……」


 すると、長々と待たされた初がおれの手を掴んだ。


 そのままぐいっと引っ張って……。

 無感情に見えても、今は胸中が透けて見えるように分かりやすかった。


「ご飯」


「あー、だよな、お腹、空いたよな」


 寝起きのおれはそうでもなかったが、作ってくれていた初はそりゃ随分前から起きていたわけで……、ここは幼馴染の欲求に従うことにした。



 リビングに向かうと先客がいた。


「ん。んはおう、んっ……ひつぎくん」

「あ、どうも、夏葉なつはさん」


 セリフの前半が聞き取りづらかったのは、食べながらだったからだ。


 夕映ゆうばえ夏葉さんは、隣の部屋に住んでいるお姉さんで、おれと初が二人で暮らしていることを知ってからは、こうして毎日、顔を見せてくれている。

 ……初のご飯を目的にしているところもあるだろうけど……。

 保護者代わり、の自覚があるみたいだ。


 多少、口うるさいこともあるけど、夏葉さんに助けられていることの方が多い。


 それに、頼れる大人が近くにいるというのは、安心できる。


「あれ? 夏葉さん、今日は仕事なの? ……え、仕事してたの?」


 いつもはスウェットなのに、今日はスーツを着ている。


 実年齢よりも(いくつか知らないけど)見た目が若く小っこい夏葉さんは、スーツを着たら新卒……、にしても、幼く見える。初の方が大人っぽく見えるほどだ。


「仕事はしてるよっ! 二人が学校にいった後に、アルバイトを転々として……」


 もじもじと体を揺らすのは、スーツに着慣れていないからだろうか。スウェットかジャージでしか外を出歩かなかったみたいだし……、バイト先もそれでいっていたのだろう。


「……転々とし過ぎて、この町のお店はぜんぶ使っちゃった」


 てへっ、と言いたそうだったが、なんとか踏ん張ったみたいだ。


 横では初が、「いただきます」と両手を合わせて淡々と食事をしている。


 ……ずっと立っているのも疲れるので、おれも座って、あらためて夏葉さんと向き合った。


 確かに、バイトを始めたかと思えば、すぐに求人探しをしていたし、上手くいっていないとは思っていたけど……。お店自体が少ないこの町だから仕方ないとは言え、それでも一つも長続きしないとは思わなかった。


 夏葉さんって、性格だけ、だもんなあ。


「性格だけってどういうこと!?」


「悪い意味じゃなくて、仕事には向かないけど、人と話すのは向いてるってことだよ」


 ずっと接客だけをやらせておけばいいんじゃないか? いや、ダメか。レジ打ちにしても営業にしても、皿運びにしても壊滅的だ。

 名物店員としてお店の人気を集めても、作業効率が落ちて売り上げが伸びなければ、お店は対処をするしかなくなり、当然、不要なものを切り捨てる場合の筆頭は夏葉さんだ。


 いらない人材なんかでは決してないんだけど、他の店員と比べると何枚も落ちるのが夏葉さんの残念な部分だ。良い人なんだけどね。


 問答無用で切られるわけではなく、苦渋の決断で切られるわけだから……、夏葉さんも文句を言いにくい。


 幸いにも、収入が少なくとも、この町の家賃は平均的に低い。

 月二回ほどのバイトで家賃は払えてしまうほどだ。食費も、初に頼っているため、そうかかっていないだろうし……あれ? 良い人の皮を被っているダメな大人じゃないか?


「――じゃないです。きちんと就職先も決まってるからね、ほら、スーツ」


「はいはい。バイト……にしてはしっかりしてるから……派遣でしょ」


 就職、と言った手前、夏葉さんは目を逸らしながら頷いた。


「? 派遣も立派な仕事だから、そんなに落ち込まなくても」


「ひつぎくんに強がって嘘を吐いた自分がね……すっごく嫌い」


 会社員と派遣、バイト……バイトは一段下がるものの、上二つの差はあんまりない気がする。

 いや、あるんだろうけど、おれにはまだ分からない世界だし、夏葉さんが就職と言ったのも、そういうものだと説明されたら騙されていただろう。


「仕事をしてる人はみんなかっこいいよ」

「本当?」


 顔を上げた夏葉さんの口元に、初がフォークに刺したサラダを近づける。


「元気、出して」

「……ありがとう、二人とも」


 むしゃむしゃと、

 初からあーんされたサラダを頬張り、夏葉さんがいつもの調子を取り戻した。


「――さて、じゃあ初出勤、いってこようかな!

 二人も学校には絶対に遅刻しないようにね!!」


「夏葉さんも、一日でクビにならないように」

「縁起が悪いこと言わないでっ!!」

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