366 カキ船と広島菜と広島の酒

 七月一日火曜日。

 僕が、純喫茶ぎふまふを初めて訪れてから、ちょうど一年。三佐子さんと二人で区役所に婚姻届を出しに行く。

 七月十三日には、極楽天神で武瑠に結婚を報告したい。武瑠は「甥か姪を見せてくれ」と言っていたが、それは、次以降の機会になりそうだ。

 しかし、三佐子さんは憂鬱な顔をしている。

「マリッジブルー?」

「ううん。大丈夫」

 二人は、住民課の窓口でカウンターを挟んで係の人と対面で座る。婚姻届を提出すると、係の人は「おめでとうございます。しばらくお待ちください」と言って、端末パソコンで確認を始めた。

 しかし、しばらくすると、しきりに首を捻り、何かをプリントアウトして、上司に相談に行った。

 三佐子さんの様子がおかしい。

「大丈夫?」

「ちょっと出てくる」

 そう言って、区役所の建物の外に出てしまった。

 そこに、係の人が戻って来て、言いにくそうに話す。

「あの、すみません。妻になる方の本籍にお間違いはありませんか」

 僕は「三佐子さん」と振り返るが、帰って来ない。

「何かありましたか?」

「詳しいことは申し上げられないのですが、お名前が見当たらないんです」

 ものすごい胸騒ぎがする。

「三佐子さん!」

 区役所の人に「ごめんなさい。ちょっと探して来ます」と言って、僕は立ち上がり、玄関から外に出た。

 三佐子さんの姿はない。

 …名前が見つからないってどういうこと? 戸籍がないってこと?

 一度こっそり、叔母さんに三佐子さんのご両親のことを聞きに行ったが、思えばリアリティに欠ける話だった。塾長の小説の中でのサンザの別名「鬼女姫」のイメージとともに、「鬼籍」という言葉が浮かんだ。

 …もしかして、三佐子さんはこの世のものではない?

 僕の心は不安でいっぱいになる。

「三佐子さん!」

 黄色い蝶々が視界を横切る。

 …ごめんなさい。ごめんなさい。

 三佐子さんの心の言葉が脳裏に響いた。

 …武瑠君とのこと、結局、ちゃんと話してなかったね。

 炎天下にクマゼミの蝉時雨、遠のく意識。


 四年前の七月十三日。塾長が企画したコスプレイベントの同窓会。

 そこからさらに五年前のイベントの、メンバーとスタッフ、熱血ファンが、市内の川に浮かぶカキ船レストランに集まっている。カキは冬のイメージだが、ここでは夏でも生カキが食べられる。

「サンザ、今日、山翔も呼ぼうかと思うたんじゃけど、今は武瑠と付き合いよるんじゃろ」

「付き合ってるっていうのかなぁ」

「まあ、あの時の償いはするけん」

「償いって。もういいですよ」

「はは。ところで、やっぱりリンダには連絡が取れんのか」

「はい。出発して二か月、電話もメールも返事がありません」

「心配じゃの。連絡があったら教えてくれ」

「はい」

「私の塾生は八年間で百八十三人おるけど、君らは特別。サンザとリンダは、娘のように思うとる」

「孫の年だと思います。あ、いえ、ありがとうございます。塾長のおかげで、大人になることができました」

 開始時間になり、塾長の小説の決め台詞、「こんにちは、こんにちは」で乾杯。パーティが始まった。挨拶をさせると、長いので、乾杯のあとに講話の時間がセットされていた。塾長時代の口調でうんちく講義を始める。

「今日は広島名物カキ船で同窓会。ということで、カキ船の話をしたい。江戸時代末期、広島のカキを大阪などに運ぶカキ船が流行した。カキ船は水に浮かぶ料亭、カキを運ぶだけではなく、こうして酒や料理も出す。寄港先でも広島の酒や広島菜漬けが使われ、その旨さはカキとともに評判となった。そしてもう一つの話、実はカキと我らの故郷、矢野はとても縁が深い。江戸時代にいち早くカキ養殖を始めたのも、矢野大江灘おおえなだ何某なにがし。さらに矢野のカキ船は、後発ではあったが数は一番多く、全国各地に広く展開した。この二つの話を繋ぎ合わせると、広島の酒や広島菜漬けを各地に紹介し、全国区に押し上げたのは、矢野のカキ船の功績であった…とか、そうではなかったとか…。実際、矢野は昭和時代まで酒造りも漬物作りも盛んであった。塾長の一口講話、一口ではなかったとか」

 半笑いと拍手が起こり、本格的に宴会が始まった。

 参加者は、日本酒に酔っ払いモード。私と武瑠君が付き合っているということが、あっと言う間に広まり、みんなに冷やかされた。

 パーティは盛会。塾長の「ぎふまふ!」という変な乾杯の音頭で、お開きになった。

 私は、武瑠君と塾長と一緒に帰るつもりだった。

「さすがに、そんな野暮じゃございやせんぜ。『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』ってね。もう一軒寄って帰るわ。若いお二人はどこへなりと」

 武瑠君は「塾長、なんかエッチだ」と言っておいて、恥ずかしそうにした。たぶん、自分がエッチな想像をしたと思われることに気付いたんだと思う。

 …そんなに恥ずかしそうにしたら、私が恥ずかしくなるわ。

 武瑠君が「少し歩こう」と言った。ちょっと、覚悟した。

 ほろ酔い気分で、公園を歩いている。

「五年前、『五年経って、私にも武瑠君にも、相手がいなかったら、もう一度言って』と言われた」

「覚えてるよ」

「誰か、相手おる?」

 …それらしい人が目の前におる。

 武瑠君のこと、本当に好きになっていた。

「サンザちゃん、僕と結婚してください」

 ポケットからケースを出した。蓋を開けるとルビーの指輪。

「バイト代で買った安物じゃけど…」

「私、五つも年上だよ」

「好きになったときから、ずっと五歳年上じゃけん」

 私は指輪を、両手で受け取った。

「ありがとう。よろしくお願いします」

「良かった」

 人目がないことを確認して、抱き合って口づけをした。

「夢で見ていた君との口づけに、ときめきを解き放つ。君が好き、君が好き。溢れる思いをもう止めない」

「『草原の乙女』の歌詞?」

「うん。今の僕の気持ち」

「愛してくれてありがとう。私も武瑠君のこと大好きよ」

 …おそらく武瑠君は、私のことを誰よりも大切にしてくれる人。武瑠君の優しい心に飛び込みたい。でも、そう思えば思うほど、山翔君の面影が重なる。あまり似ていないと言われているけど、やはり兄弟なんだ。

 帰りの電車の中。二人は隣り合って座っている。

「サンザちゃん、お兄ちゃんが好きじゃったんじゃろ」

「え?」

「お兄ちゃんのサッカーの試合、見に行っとったよね」

「見つかっとったん? というか、その頃から私のこと知っとったん?」

「だって、僕、小学校のとき、塾キャンプについて行ったときから、サンザちゃんのこと、ずっと好きなんじゃもん」

「え、小学生のときから? あの時、あそこにおったん?」

「うん。三佐子さんがメガネかけとったのも知っとるよ」

 …高校生の私が中学生の山翔君を好きになった日、小学生の武瑠君が私を好きになったってこと?

「あの頃から、ずっと、きっと今もお兄ちゃんのこと好きなんじゃろ?」

「何、言いよるん」

「ええよ。好きなままで」

「じゃけ、何を言いよるんかって」

 抱えたままの迷いを、このタイミングで武瑠君に引っ張り出され、私は強い動揺を見せた。

 電車が矢野駅についた。

「ばか!」

 かつてないほど心が乱れた私は、電車を降りると、逃げるように走った。泣いていたと思う。

 極楽橋の上まで来ると、夜にも関わらず、蝉時雨が響きだし、通行人も自動車も消えてしまった。

 意識が戻ると、そのまま橋の上に立っていた。指輪もなくなっていた。武瑠君に申し訳ない気持ちのまま、家に帰った。

 翌朝から武瑠君と連絡が取れなくなり、連絡を待ったけど、かかってくるのは警察からの電話。怖くなって、しばらくして、スマホを持つのをやめた。本当は、捨てたわけでも、解約したわけでもなく、毎晩、着信履歴だけは確認してた。

 …それが失踪前後の状況。私もどこで武瑠君がいなくなったのか、知らなかったわ。実は、昨夜の夢でね、意識を失っている間の出来事を見たの。


 駅から逃げるように走ってきた私。武瑠君の愛に人生を委ねようとする心と、山翔君の幻影に迷う心…二つの自分がそれぞれ鮮明になる。すると、どうしたことか、幽体離脱するように、体が二つに分かれた。抜け出た方は意識朦朧とした様子で、極楽橋の欄干によじ登り、その上に立ち上がった。もう一人がそれを突き落とした。

「サンザちゃん!」

 追いかけてきた武瑠君が駆け寄って、飛び降りた三佐子の手を掴む。橋の桁下は何メートルもないはずなのに、足が届かない。

 底の見えない、黒い気が渦巻く大穴が口を開けていた。ぶら下がった三佐子は、意識を失ったまま、武瑠君の右手一本に掴まれている。

 橋の上に残っているもう一人の三佐子が叫ぶ。

「逝かせてやって!」

「離せるわけないじゃろ!」

「その三佐子は、『山翔君を忘れられない三佐子』よ。その子は死んで、『武瑠君を心から愛する三佐子』が残るけん!」

「何言いよるんや。お兄ちゃんを好きなままでええ言うたじゃないか。この武瑠は、それも含めて、全部受け入れるけん。分裂するな!」

「そんなのダメ! それじゃ私が苦しい! 苦し過ぎる!」

 武瑠君の手を離させようとする女。

 …私の中にそんなに激しい心があったなんてね。苦悩の情念は、迷いを振り払うように、私を鬼にしたわ。

「鬼女姫!」

 牙のように鋭い八重歯が武瑠君の二の腕に噛みつく。出血。

「やめろ!」

 痛みに耐えながら、武瑠君は満身の力を込めて、落ちかけていた三佐子を引き上げた。

 鬼女姫は、武瑠君の腕の傷口に口を当てて止血した。

「僕がサンザちゃんを諦めればええんよね。ごめん。苦しめたね」

 鬼女姫は顔を上げて、血の着いた口元で言う。

「違う! 違う違う。悪いのは私」

「サンザちゃん!」

「武瑠君…愛してるよ。武瑠君だけを愛してるよ」

「サンザちゃんが大好きだ」

 抱き合った。二人の姿は光に包まれながら半透明になる。二匹の黄色い蝶に導かれるように、欄干を越えて黒い穴に吸い込まれた。

 橋の上には、もう一人の三佐子が残った。

 …それがこの私。山翔さんを忘れられない三佐子。

 ようやく、目を開けて立ち上がる。橋上の事件をすべて忘れて、茫然と立っている。

 黒い渦は消え、家路を急ぐ人や車が現れた。

 …夢の話よ。でも、私たちにとって、夢は無意味じゃないよね。塾長が亡くなったのに、誰が見せたのかしらね。

 壮絶な光景を思念として送られ、僕は肩で息をしている。

 …山翔さん。私に気付いてくれてありがとう。ありがとう。ありがとう。

 三佐子さんの心の声は、別れの言葉のようだった。


 三佐子さんも武瑠も純真過ぎる。僕という存在が、そんな二人を苦しめ、幸福を邪魔してきた。何も知らずに、三佐子さんに恋をして、三佐子さんと結婚しようとした僕。どれだけ鈍感で、愚かなのだろう…。

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