166 がんす・やおぎも・せんじがら
一月十二日日曜日。
リンダさんが、「たまにはサンザ、貸してね」と言い、店が終わってから二人で食事に出かけた。
明日も祝日である。
僕は一人で、三佐子さんの叔母さんのスナックに行ってみた。もらった名刺の住所をマップのアプリに入れてみると、国道を挟んで、自衛隊の正門の向かいに導いた。
小雪が舞う寒い夜。内照式の看板に店名がある。
…スタンド君島。
叔母さんの苗字も、三佐子さんと同じ「君島」。叔母さんは、三佐子さんのお母さんの弟のお嫁さんである。名刺をもらったときには深く考えなかったが、君島は三佐子さんのお母さんの苗字なのだろう。
「こんばんは」
「あら、山翔君。来てくれたんじゃね。ありがとう」
「約束しとったのに、なかなか来れんでごめんなさい」
「三佐子ちゃんとのデートが忙しいけんね。今日は一人で? 占ってほしいことでもあるん?」
「いえ、三佐子さんのこと聞きたくて。ほとんど話してくれんもんで」
「親のこととか?」
「ええ、まあ」
「犯罪者とか、そういうんじゃないよ。話してくれるまで待ってやったら?」
「そう思って、しつこくは聞かずにはおるんですけどね」
「そうよね、結婚するんじゃけんね。気になるよね」
「ええ。普通、結婚するときご両親にお許しをいただきに行くじゃないですか。亡くなっているにせよ、せめて、お墓参りくらいはしたいなと思うんですよ」
「分かった。教えたげる。私が話したこと、三佐子ちゃんには内緒よ」
「はい。絶対、言わんです」
「臨時休店にしょうか」
「え? すごいお邪魔してますね。出直しましょうか」
「ええよ。日曜日の夜はお客さん来んけん」
叔母さんは、看板の電気を消して、扉の外にクローズドの札を掛けた。
冷蔵庫からいろんなおつまみを出してくれる。
「これ、知っとる?」
魚のすり身をフライにして、さらに味付けしたような丸い物体。
「あ、見たことあります。あげはん?」
「ブブ。あげはんにはパン粉が付いてないよね。これは、がんすいうんよ」
「がんす? 古い広島弁の?」
「ピンポン。『ございます』いう敬語らしいよ。今は誰も使わんけど。まあ、摘まんでみんちゃい」
「ございます、ござんす、ごあんす、がんす…なるほど」
一口食べてみる。
「うん、美味しい。ちょっとピリ辛」
「じゃろ。じゃあ、これは?」
「するめ?」
「ブブ。広島名物せんじがら。豚の胃袋を茹でて、時間かけてカリカリに揚げたもんよ」
「命を最後まで頂くという発想でしょうね」
「よう知らんけど。ホルモンは『放る物』が語源じゃ言うけんね。じゃあ次、これは?」
「これ、知ってます。やおぎも」
「おお、正解。牛のどこの肉か知っとる?」
「きもじゃけ、肝臓?」
「ブブ。肺らしいわ。臭いけん、捨てるしかなかった部位を、生姜と醤油で何回も煮込んで、食べれるようにしたらしいよ。これも広島人の開発じゃって聞いたよ」
「やっぱり、命を無駄にしたくないということなんですよ」
「ほうなんかね」
おつまみ談義をしながら、水割りを二杯作り、カウンターに座った僕と自分の前に置いた。自分のをググっと飲み干して話し始めた。
「三佐子ちゃんの母親はね、この店のママじゃったんよ。店の名前はママの苗字じゃけん」
「え、そうじゃったんですか」
「うん、でね。私の大恩人なん」
「何かしてもらったんですか」
「『してもろうた』いうようなもんじゃないんよ。今でも感謝、感謝。私自身も親と縁が薄うてね、施設で育ったんよ。高校を卒業したあとは、就職できずに路上で占い師したりしよったん」
「叔母さんにも、凄い過去があるんすね」
「はは、でね、今日みたいに寒い日。お義姉さんが私の前に座ったんよ」
「三佐子さんのお母さん」
「うん。三十歳くらいじゃった。今の三佐子ちゃんとそっくりの、背の高いべっぴんさんよ」
「お母さんは、何を占ってほしいと言うたんですか」
「それがね、何にも言うてんないんよ。辛そうな顔して黙って座っとるん」
「何があったんですかね」
「何にも言うてくれんのよ。私、駆け出し占い師で、まだ二十歳そこそこじゃったけん、何かええこと言うてあげることもできんでね。手を握ってあげたんよ」
「…」
「涙がポロっと零れたん。しばらく黙ってそうしとったら、『ありがとう』と言うてくれたんよ」
「不思議な出会いですね」
「うん。でね。それから何回か会いに来てくれたん。そのたびに手を握り合うた」
「不思議な関係ですね」
「じゃね。言葉じゃなくて気持ちが分かる仲、そんなにおらんよね。『妹みたいじゃ』言うてくれた。家族のおらん私には、ほんまにうれしかった」
…言葉じゃなくて分かる仲。僕には、三佐子さんとリンダさんがいる。
「ほいでね、『うちの店で働かんか』言うてくれたんよ。よほど有名にならんと占い師で食べていけるわけもなし、これも縁じゃと思うて、お義姉さんの胸に飛び込んだよ」
「それでこの店に」
「そう。んでね。時々、お義姉さんの弟がここにご飯を食べに来るんよ。それが私の死んだ旦那」
「叔母さんと旦那さんは、ここで出会うたんじゃ」
「うん。で、結婚することになった。お義姉さんは『本当の妹になってくれた』って、喜んでくれたよ」
水割りのおかわりを作りながら、旦那さんとのことを思い出しているのか、しばらく沈黙となった。そして唐突に言う。
「その頃、三佐子ちゃんが生まれた」
また、一息ついた。
「話を戻すけど、たぶんね。お義姉さんが、最初に占ってほしいと思った悩みはね」
「あ、はい」
「三佐子ちゃんがお腹に出来たことじゃろうと思う。産むべきかどうか…」
「三佐子さん、『お父さんはおらん』と言うとりました。叔母さんは知っとるんですか、お父さんが誰か」
「私も知らんのよ。お義姉さん、とうとう墓まで持ってっちゃったよ」
「誰も知らないんですか」
「うん。ただね。私、ピンと来たんよ」
「占い師の勘ですか」
「私の勘は、占いより当たるって、誰かが言いよったじゃろ」
「郷土史会の会長です。何がピンと来たんですか」
「三佐子ちゃんに言うちゃダメよ」
「約束します」
「この店、自衛隊さんがよう来るんよ」
「正門の前ですもんね」
「一応、その辺の居酒屋より高いけん、ちょっと偉い人が来るんよ」
「なるほど」
「お義姉さんの産前産後、私一人でお店をやってた時期があるんじゃけどね。その頃、あるお客さんが、一緒に来た人のことを『さんさ』って呼ぶんよ。耳慣れん言葉じゃけん、それは何か聞いたんよ」
「自衛隊の階級じゃないですか」
「あ、よう分かったね」
「僕も階級社会の人間じゃけ。そこは陸自なので、三等陸佐ですね」
「さすが。昔の少佐じゃと教えてもろうた。で、その時、その偉い方の人が『ママは?』って聞いたんよ。もちろん、産休中とは言わんよ。相手は誰かってことになるけんね」
「それはそうですね」
「そのとき、ピンと来たんよ」
「その人がお父さん?」
「じゃけ、知らんて。ピンと来ただけよ」
「その人は常連じゃったんですか」
「いや、私が見たのはそれ一回。三十代後半かね。もう、顔は思い出せんけど、八重歯が見えた記憶がある」
「八重歯…」
「あのね、『さんさ』って漢字で書いてみて」
「三佐…。あ」
「そう、三佐子」
「なんか、僕らの世代の名前にしては地味だな字だなと思ってたんです」
「そういやあ、そうじゃね」
「認知してほしいとか言おうと思わんかったんですかね」
「それ、私も言うたんじゃけど、『絶対に言わん』って」
…「絶対に」か。三佐子さんに似てる。
「この店やりながら、女手一つで、三佐子ちゃんを育てたんじゃけどね。三佐子ちゃんが中学を卒業した後、病気で死んだんよ。癌、見つかってから早かったね」
「ええ? そんな…」
…僕と出会ったあのキャンプのときには、もうお母さんもいなかったのか。
「三佐子ちゃんと大事なこと話す時間があったんかねえ」
…お父さんのこと…。
「惨いよね。三佐子ちゃん、太ったんよ。視力も落ちてね。なんか悪い病気じゃないかと思うて、一緒にお医者さんに行ったんじゃけど、原因は分からんかった。ストレスじゃろうね」
…ぽっちゃりメガネには悲しい理由があったんだ。
「高校時代は、私ら夫婦が面倒をみたげたんよ。面倒いうても、お義姉さんの買うたマンションにそのまま住んどったし、公立高校の学費は無料じゃったけん、お金も手も掛からんかった。大学も奨励金をもらいながら、自力で卒業したよね。自分のことは全部自分でできる子じゃった」
…三佐子さんの、話したくない歴史。
「むしろ、子どものおらん、うちら夫婦の娘役をやってくれたりして、ドライブしたり、レストランに行ったり」
「三佐子さんも、家族の雰囲気に浸ってたんじゃないですか」
「ほうかね。旦那が五年前に病気で死んでからは、三佐子ちゃんが唯一の家族なんよ」
…叔母さんにとっても、三佐子さんは大切な人なんだな。
「あ、塾長のことも、親代わりじゃったと言うてたような気がしますが」
「ああ、喫茶店のマスターね。あの人は『心の師』じゃったみたいね。三佐子ちゃん、あの人の世話もしたよね。えらいよね。まあそこには、リンダちゃんという無二の親友もおったしね」
「三佐子さんとリンダさんは特別な友達みたいですね」
「うん、そうじゃね。二人とも美人よね」
「モテたんじゃないかとは思います。彼氏とかは?」
「へへ、気になる? 二人ともおらんと言うとったよ」
「そうですか」
「実はね。薬剤師の頃、三佐子ちゃん、誰かおったんじゃないかと思う」
…武瑠だ。知らないながらも、叔母さんの勘は働いてたんだ。
「それは山翔君じゃなかったん?」
「いえ、その頃の三佐子さんは知らんです」
「そう。高校生の頃、三佐子ちゃんが年下の山翔君のことを好きじゃったこと、私、知っとったよ」
「え?」
…それは知ってるんだ。
「三佐子ちゃんにも、うつ病みたいな時期があったんよ。失恋じゃあんなにならん。リンダちゃんの姿が見えんようになったけん、喧嘩したんかと思うたけど、何を聞いても『何でもない』言うて、教えてくれんかった。私、悲しかったよ。最後のところでは心を開いてくれん。お義姉さんと一緒」
叔母さんは切ないため息をついた。どう反応したらいいのか分からない。
「薬剤師をやめて、喫茶店のマスターと一緒に料理に打ち込むことで立ち直ったね」
「そうだったんですね」
「それから三年、去年の夏よ。喫茶店で三佐子ちゃんをタロットで占うたん。ほんまにカードが『待ち人きたる。チャンス、チャンス、チャンス』いうて言うんよ。そしたら山翔君が現れた。びっくりしたよね」
「叔母さんのカードが、僕を呼んだんですか」
「いやいや、運命よ。私、『相当相性がええ』言うとったじゃろ。お互いに運命の人なんよ」
「運命の人…」
「三佐子ちゃんには幸せになってほしい。お義姉さんへの恩返しは、三佐子ちゃんに、と思うとる」
「三佐子さん、みんなに愛されて幸せですね」
「ええ子じゃけん、みんなが応援しとる。山翔君、三佐子ちゃんを不幸にしたら、許さんよ」
「あ、努力します」
「努力じゃない」
「あ、あ、絶対に幸せにします」
「よし!」
叔母さんに「山翔君、歌いんちゃい」と言われて、「草原の乙女」を歌った。
…ここで、この歌を歌ったような…あ、あれは夢だ。誰にも話してない。
歌い終わった後、叔母さんにその時の夢の話をした。
「叔母さんにこの店で、タロット占いをしてもらったんです。恋人、隠者、魔女、女教皇、死神の五枚が出たんですよ」
「へえ、タロット分かるん? そういえば、いつか魔女というカードがあるかと聞かれたね」
「あの占い、完璧に当たってました」
「夢の中の私が占ったことが、現実になったんじゃね」
「はい」
叔母さんも、夢が現実化するという話にあまり抵抗がないようだ。
その夜、自宅に帰って眠ったときのこと。
夢に落ちる。
あの夏のキャンプの光景。
「僕」は股間を押さえて言う。
「お兄ちゃん、早う出てや」
ここでの「僕」は、小学校六年生の伊藤武瑠で、キャンプ場に一つしかないトイレを占領しているのが、中学二年の兄、伊藤山翔らしい。
「僕」は我慢できずに草むらに走った。下半身が隠れるくらいの草丈の中に、おしっこをした。救われた気分になった。
そのとき、前方、十数メートルで、深い草むらに女子が座り込むのが見えた。
「見るな」
後ろから、誰かに手で目隠しをされ、小声でそう言われた。
「塾長先生じゃろ」
「し! 声が大きい」
回れ右させられ、目隠しのままその場を離れた。
目を解放されて、先生を振り返る。さっきの方向に目を戻すと、メガネを掛けた女子高生が立ち上がって、テントサイトの方に戻って行った。こちらの二人には気づかなかったようだ。
「あのお姉さん、何しよったん」
「男の場合は『キジを撃つ』と言うが、女子の場合は『花を摘む』と言う」
「お花を摘んどったん?」
「そう」
何も知らない子どもの振りしたが、お姉さんが何をしていたか分かっていた。トイレを占領している「お兄ちゃん」が悪いのだ。
何かが見えたわけではないが、異性に興味を抱き始めた頃、妄想が膨らんだ。
昼食の時間、僕は塾長先生と一緒にカレーを食べていた。お兄ちゃんがメガネのお姉さんと二人で食べている。楽しそう。
…あのお姉さん、お兄ちゃんのことが好きなんじゃ。
切ない気持ちになる。
…僕、あのお姉さんが好きになったかも。
そして、「花摘みの乙女」の妄想。ちょうど、「草原の乙女」という歌が、流行っている頃だった。
「僕」は山翔に戻った。
…何だ、今の夢は。武瑠が三佐子さんを好きになったときのことか。
僕は、いつかのストーカーの言葉を思い出した。
「下着が見えただけで、その女に執着してしまう。男とはそういうものだ」
…武瑠の三佐子さんへの思いの始まりは、そんなことだったのか。
「違う!」
暗闇に武瑠の姿が浮かんだ。
…あ、すまんすまん。
「この時から好きになったのは間違いないけど、エッチな気持ちじゃないよ」
…小学生だもんな。
「それも違う。サンザちゃんの、お兄ちゃんへの切ない気持ちを感じているうちに、僕がのめり込んでいったんよ。横取りなんかしたくなかったけど、お兄ちゃんが全然気づいてあげんけん」
「…」
「キャンプのときから、ずっとずっと、お兄ちゃんのことが大好きなのに」
「言うてくれんかったけん」
「僕とリンダちゃんだけは分かってたけど、サンザちゃん自身は誰にも言わんかった。でも、サインは出しとったよ。サッカーの試合をキャーキャー言って応援したり、カレー作ってくれたり」
「カレー?」
「僕が鍋を持って帰ったこと、覚えてないんじゃね。『お兄ちゃんを好きな女子が、お兄ちゃんにも食べてほしいって言った』って伝えたよ。キャンプのときと同じカレーを作って、思い出してもらおうとしたのに、お兄ちゃん、『ふーん』って、冷たかった。誰が作ったかくらい、聞けよ!」
「覚えとらん。このお兄ちゃんは、そんな失礼な態度したんか?」
「がっかりしたよ。サンザちゃんには『美味しかったと言うとった』と嘘を言うしかなかった。お兄ちゃん、どんだけ鈍感なん」
「穴があったら入りたい。じゃが武瑠、お前も三佐子さんが好きじゃったんじゃろ?」
「大大大好きじゃった。でも、サンザちゃんはお兄ちゃんが大大大好きじゃった、ということ」
「三佐子さんは間違いなく武瑠を愛しとった。今でも、忘れたわけじゃないと思う」
「じゃとしたら嬉しいけど、それ、絶対に言うちゃいけんよ。サンザちゃんがまた分裂する」
「分裂するって、精神疾患的なことか?」
「…サンザちゃんを幸せにしてあげて。不幸にしたら許さんけん」
「努力する」
「努力じゃダメじゃ」
「分かった。必ず幸せにする」
「頼んだよ。僕がそっちに戻るまで…」
「戻る? ああ、早く戻って来い。じゃが、三佐子さんはもう返さんよ」
武瑠は微笑みながら消えて行った。
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