13 矢野村発祥いが餅

 七月十三日土曜日。

 五時のアラームが鳴った。三人の女は先に起きていた。

 昨夜の大騒ぎがなかったかのように、また、大事な一日の始まりと思えないほど、穏やかな雰囲気でトーストを焼いていた。

 母親がゆで卵カッターで、ハムの千切りを作る裏ワザを披露していた。

 そこに僕が顔を出すと。

「お兄さん、昨夜は取り乱してごめんなさい」

 三佐子さんは立ち上がって謝る。

「落ち着いた?」

「うん。今日、何があっても、…なくても、先に進む」

「そう。覚悟を決めたんじゃね」

「うん。お兄さん、極楽天神に連れて行ってね」

「そうじゃね。それが僕の仕事じゃね」

「私の仕事はあの呪文? 塾長の小説に書いてあったサンザの呪文なんじゃけど、そんなんで滝の岩壁の向こうが見えるようにできるんかね」

 今度はリンダさんが言う。

「私の仕事は鍵を開けることなんじゃね。じゃけど、この鍵でほんまに開くんかね。これ、あの店の鍵よ」

「三佐子さんは心を込めるために呪文を唱え、リンダさんは心のお守りとして鍵を持っとったんじゃろ? ただの台詞や鍵じゃないよ。きっと、この夢の映画監督である塾長の思い入れのアイテムなんよ。大蘇鉄と地図は現実世界に現れた。じゃけん、きっと、呪文も鍵も現実で機能する!」

「勇者ヤマショウ、私たちはあなたについて行く!」

 リンダさんがそう言った。


 四人はぎふまふ号に乗った。運転は僕。ハーブ畑の入口に向かおうとした。

「スーパーにおやつを買いに行かん?」

 突拍子もないことを言い出したのは母親だ。

「母さん、ピクニックじゃないんじゃけん」

「夢の中で、桃太郎さんが吉備団子を持っていないのが気になったんよ」

「店に戻れば、お兄さんの岡山土産がありますけど」

「いや、吉備団子はうちにもあるんじゃけどね。それじゃなくても、なんか、気持ちを落ち着かせるものが要るような気がするんよ。武瑠が出てきても、出てこなくても、心は乱れるけんね」

「そうか。なるほど。三佐子さん、リンダさんどう思う?」

「賛成。まだ正午までは時間があるし」

「賛成。山歩きにおやつは必須だよ」


 一番近い、ニュータウンの中のスーパーに行く。朝七時から開いている。

 地元の和菓子工場から、今朝作ったお菓子が入荷して、店の人が並べ初めていた。

「あ、いが餅! 懐かしい」

 リンダさんが、色とりどりの米粒を乗せた餡餅をワンパック手に取って言う。

「昔は十月のお祭りシーズンにしかなかったけど、最近は毎日作ってるみたい」

 そう母親が言うと、三佐子さんが解説を始めた。

「いが餅は呉名物ということになっとる。確かに、呉方面の秋祭りの定番として有名になったんじゃけど、実は『矢野発祥説』があるらしいんよ」

「へえ、いが餅、矢野発祥なん?」

「郷土史会の会長さんから聞いたんじゃけどね。矢野の神社の神主さんのご先祖さんが、江戸時代に穀物の備蓄を実践してね。広島が飢饉に襲われたとき、矢野からは餓死者が出んかったらしいんよ」

「私も、飢餓に苦しむ国で、食糧の備蓄をコーディネートしたことあるよ。本当に重要で有効なんじゃけど、誰かがリーダーシップを取って、集落全体で計画的にやらんとできんのよね」

 …リンダさんって、この細い体とお茶目な人柄からは、想像できない経験をしている。

「で、いが餅はどこで出てくるん?」

「うん。この話には出てこんのじゃけどね」

「出てこんのんかい!」

「その備蓄方法を書いた書物の中なんか、外なんか知らんけど、収穫のお祝いの仕方が書いてあるらしいんよ」

「秋祭りって、収穫祭なんよね」

「そうそう。でね。江戸時代の農民は年貢に出すけん、お米ってそんなに食べられんわけよ。じゃけ、雑穀で作った団子の上に蒸した米を何粒か乗せて、ささやかに収穫のお祝いをしたんじゃと」

「なんか、ちょっと切ない発祥じゃね」

 やり取りを聞いていた母親がカゴに四パック入れた。

「じゃあ、これにしようかな。今日の吉備団子」

「え、一人ワンパック?」

「あ、武瑠と向こうのサンザちゃんの分も要るか」

「並んだやつ全部になるじゃん」

「桃太郎さん、吉備団子持って!」

「朝いちから買い占めじゃん。恥ずかしいわい」

 結局、六パック買った。


 僕がぎふまふ号を運転し、ハーブ畑の入口に置いた。四人で山道を歩く。

「ハーブ畑に行くん?」

 三佐子さんが僕に聞く。

「黙って勇者について来て!」

「頼もしい!」

 その言葉に、「間違ってたら、どうしよ」と思う。

 母親が三佐子さんに言う。

「あのハーブ畑の奥の土地の開墾。ぜひ、やらせてほしい。さっきのいが餅じゃないけど、この町の特産品を栽培したい」

「何かアイデアがあるんですね」

「うん。サツマイモなんじゃけどね」

「へえ、楽しみです」

「三佐子さんのような娘がいたらうれしい。うちの息子のお嫁さんじゃなくてもええけん」

 …母さん、何を言い出すんだ。

「私、いつの間にか、お母さんのこと、お母さんと呼んでしまってるけど、そのままでいいですか」

「もちのろん!」

「お母さん…」


 分かれ道のところに来た。三佐子さんと初めてハーブ畑に来て、草刈りをしたときに見つけた場所だ。

 神殿の地図では「おんてん」、つまり「隠し田」、つまり今のハーブ畑、その横に、教皇の血の掌紋があった。そこが極楽天神に違いない。

 ハーブ畑の手前の分かれ道に入る。先頭の僕の顔に蜘蛛の巣の洗礼。

「わあ、しばらく誰も歩いた様子がないよ」

 落ちた木の枝を拾い、顔の前にかざして進む。

「桃太郎さん。犬、猿、キジはあなたについてどこまでも」

 緊張をほぐそうとするリンダさんも、やはり緊張しているようだ。

 道は曖昧だが、次々と赤いビニールテープを巻いた木が現れる。

「山の中のテープは道を示してるんよ。誰が巻いたんじゃろ」

 三佐子さんが答える。

「極楽天神を見たことがあるのは、塾長と武瑠君だけなんよ。郷土史会の会長も見たことがないと言うんじゃけん、そのテープはあの二人が巻いたんじゃない?」

「塾長と武瑠が導いとるということか」

「じゃね」

 さらに、黄色い蝶が舞い始めた。何かが起こる兆候だ。

 百メートルくらい歩いたところで、急に開けた。池の跡のようだ。水面は見えないが湿地帯になっている。その向こうに、石の鳥居が見えた。

「あそこか…」

 赤いテープは、左に湿地帯を迂回させる。鳥居のところまで来た。

 石の額に「極楽天神」と書いてある。短い参道の奥、高さが二メートルほどある社が現れた。その奥には滝もある。

「あった」

 三方を森に囲まれた薄暗い場所、涼しい。四人は強い霊気を感じている。

「よし、腹ごしらえしよう! 桃太郎さん、吉備団子を出して」

 僕のビビリを感じたのか、母親はそう言って、境内の平らな場所にピクニックシートを敷いた。

「はいはい」

 いが餅も六パックあると、そこそこ重かった。

 三佐子さんがお茶とおしぼりを出す。一緒に食べ始める。

 木漏れ日が入り、少し明るくなった。

「餡は傷みやすいけん、夏は食べないのが昔の常識じゃったけど、最近は食品工場も衛生的じゃし、運送も冷蔵じゃけんね。それにしても、早く食べた方がいい」

 言いながら、母親が最初に一個食べた。

 みんな「美味しい」と言って食べている。

「しかし、これを今ここで、一人ワンパックはきついかも」

「桃太郎さん、何を言う! 私らの余ったのもあげるから、しっかり食べて!」

「こんなん、そんなに食えん!」

「大丈夫。お茶を入れて来たクーラーボックスに保冷剤が入っているから」

「良かった。勇者がいが餅を食い過ぎて、動けんかったらシャレにならん」

 すっかり和んだ。

 気が付くと、不思議なことに蝉の声すらしない。蝶が一頭、目の前を通り過ぎると、風が吹き、薄暗くなった。

 まだ、十時くらいのつもりだったが、時計を見ると間もなく正午。

「時間だ」

 滝の前に移動した。

「三佐子さん、呪文」

「分かった」

 三佐子さんは神経を集中させて、「ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!」と唱えた。

 滝の水が止まった。しかし、岩肌は透過しない。岩肌のままだ。

「ダメか」

 四人に焦り。

「ここじゃ!」

 後ろから声がした。みんな、驚いて振り返る。

「塾長!」

 病院着で点滴スタンドに寄りかかり、酸素マスクをして、ボンベを引き摺っている。

「こんな所まで、その格好で、一人で?」

「ここじゃ、ここ!」

 極楽天神の扉を差した。僕は塾長の姿が透けていることに気付いた。

 扉を開けようとすると、鍵がかかっている。古めかしい大きな南京錠だ。

「鍵! ここで鍵だ。教皇の鍵! リンダさん、鍵!」

「夢と段取りが違う!」 

 リンダさんは、首から「ロザリオ」をはずして、南京錠を見た。

「あ、これ、店に付いてた鍵、そのものじゃん」

 鍵穴に差し込むと、ガチャンと音がして開錠された。

「開いたよ」

 リンダさんが扉を開くと、紙が一枚入っていた。ちぎり取られたノートの一ページのようだ。取り出して僕に手渡した。

 カタカナが羅列されていた。

「三佐子さん、これは?」

「あ、これも小説にある。サンザの最強呪文よ」

 いつもの呪文より長い。

「魔女の呪文だ。三佐子さん、唱えて!」

「オーム・アモーガ・ヴァイローチャナ・マハームドラ・マニ・パードマ・ジヴァーラ・プラヴァルターヤ・フーム!」

 小説で所作まで表現されていたのか、ヨガのポーズのように、姿勢を変えながら手足を動かして唱える。最後の「フーム」のところは、手のひらに乗せた花びらを吹くように、息を吐いた。

 …なんか色っぽい。

 そして、最後に小声で、「ぎふまふ!」と添えた。

 滝の岩肌が透明になっていく。


 滝の向こうに、鎧兜の武瑠と忍者のサンザが現れた。鏡対称のように、こちらには僕と三佐子さんがいる。

「お兄ちゃん!」

「武瑠!」

 三佐子さんは滝の水を掻き分けて、近寄りながら叫ぶ。

「武瑠君!」

「サンザちゃん?」

「そうよ。君島三佐子よ」

「そっちにもサンザちゃんがおるん?」

「武瑠君! 私が三佐子よ。武瑠君は、私の幻影を追って、異世界に行ってしまったの?」

「ああ、そういうことか。お兄ちゃんを愛したサンザちゃんは、そっちに残っとるんじゃね」

 会話が噛み合っていないように感じる。

「あの時はごめん。つまらんこと言うた。僕が悪かった」

「違う! 悪いのは私。ごめんね、武瑠君…ごめんね」

 二人が分かれたときのことだと思った。三佐子さんは、首を横に振りながら、涙を拭った。

 「武瑠!」。声の方を見れば、母親が手を前に伸ばしながら、鏡面を越えて向こう側に行こうとしている。

「母さん、ダメ! 人間はこの結界を越えられん!」

「武瑠! 帰ってきんちゃい」

 リンダさんも水に入り、母親を抑えた。

「母さん、心配かけてごめん! 僕は剣道の腕を見込まれて、ここで侍になった。毛利を支える矢野城の家臣として、西国制覇という大事な仕事に加わっとる」

「あんた、侍やりよるん?」

「うん。そして、このサンザちゃんと結婚して、間もなく子どもが生まれる。そっちには帰れんのよ!」

「お母様。サンザと申します。ご家族のお許しも得ず、武瑠殿の妻を名乗り、申し訳ございません」

 初めて、向こうのサンザが声を出した。

「私は、武瑠の母よ。こんにちは。サンザさん、あなたは幸せ?」

「はい。武瑠殿は、強く、賢くお優しい方。私はとても幸せです」

 サンザは左手の薬指に嵌めた、現代的なデザインのルビーの指輪を見せた。

 …あの指輪、あそこに行ってたんだ。もう、この私、君島三佐子は、武瑠君の婚約者ではないということ?

 三佐子さんの心の言葉は、そこにいる全員に聞こえた。

 武瑠が三佐子さんに話しかける。

「二十一世紀の伊藤武瑠は死んだ。もう、何も気にせずに、そっちで幸せになって」

「武瑠君!」

 三佐子さんからはそれ以上の言葉が出なかった。向こうのサンザが言う。

「もう一人の私。あなたはあなたの好きな人を愛するために、そっちに残ったのよ。どうか、その思いを遂げてちょうだい。私もそれを望んでいるわ」

「もう一人の私! あなたは武瑠君を愛しているのね…」

「そうよ。心から」

 武瑠にはサンザがいる。こちらの三佐子さんに未練を残していないようだ。

 武瑠は視線を外して、首を傾げた。

「ん? そこにいるのは、もしかして…」

 武瑠が、母親を抑えているリンダさんに気付いた。

「武瑠君、久しぶり。リンダだよ」

「やはり、そちらに戻ってたんだね」

「戻った?」

「リンダちゃんは奇跡的に、こちらからそちらに戻った人」

「私が?」

 リンダさんは驚いたように言った。向こうのサンザが答えた。

「リンダ! あなたは私たちより先に、こちらに来ていたのよ。そして、特別で大きな役目を負っていた」

「確かに、私の記憶には大きな欠落がある。私、そっちで何をしていたと言うの?」

 武瑠が言う。

「リンダちゃんは、こっちに降臨し、毛利元就の庇護を受けて、大神殿の教皇を務めた。突然、昇天して、今や極楽天女と崇められている」

 極楽天女…。僕は何日か前に、そのシュールな夢を見た。確か誰にも話していない。武瑠のいる世界は、過去というより異世界なのだろう。

 向こうのサンザが言う。

「リンダ、ありがとう。あなたと私はどこにいても、唯一無二の親友よ」

「そうよ。サンザはどこにいても、何人いても、私の親友よ」

 母さんが前に出ながら、武瑠に言う。

「もう、こっちに帰ってくることはないん?」

「リンダちゃんが、そっちに戻ったということは、僕らにも戻る方法があるのかもしれん。しかし、未来を知る僕らには、歴史を正しく導く使命がある」

「じゃあ、せめてまた会うことはできんのん? ここに来て同じようにしたら、武瑠とサンザさんに会える、ということはないん?」

「トキの行者は言うた。時を合わせて、両方のサンザが呪文を唱えれば、滝に風が通り、声が届くようになるだろうと」

 母親は「できるんじゃね!」と喜んだ。

 僕は「トキの行者とは、塾長のことか」と聞いた。

「そうだよ。こちらにもしばしば現れる! 特異点を通過して、そっちと行き来できる、半透明な存在」

「特異点…半透明…」

「そろそろ時間だ。僕もまた、みんなに会いたい」

「同時に呪文を唱えるには、時間を決めなくちゃ」

「今日と同じく、太陽暦七月十三日日本時間正午! 来年は母さんに孫を見せたい。お兄ちゃんは僕に甥か姪かを見せて」

「武瑠、なんかエッチだぞ」

「それをエッチだと感じるのは、お兄ちゃんがエッチな想像をしたけんよ!」

 母親は「こんな場面で、あんたら兄弟は馬鹿か」と呆れたように言った。

 三佐子さんがシリアスに戻す。

「武瑠君! 私を許してくれる?」

「許すも何も、僕はちゃんとサンザちゃんと結婚して、幸せに暮らしとるよ。そっちの三佐子さんには、ふつつかな兄をよろしくお願いします」

 …弟が兄をふつつかって言うな。

「お兄ちゃん、母さんもよろしくね」

「分かった!」

「それと、今度、ここで会うときには、僕の本棚から塾長の小説を持って来てほしい。くれぐれも中を見んようにね」

「見たよ! 三佐子さんとのツーショット」

「ああ、それは反則じゃん」

 武瑠は恥ずかしそうに怒った。

「ごめんごめん。実はここにある」

 鞄から文庫本を取り出した。武瑠に渡そうとして手を伸ばすと、電気的な火花が飛び、手が痺れた。

「痛!」

「生きた人間は結界を越えられん!」

 気配がなくなっていた塾長が現れた。しかし、一層透けている。

「本を神棚の中に入れて、扉を閉めんさい」

 言われるように文庫本を、極楽天神の中に入れて、扉を閉めた。

「のうまく・さまんだ・ばさらだん・かん!」

 塾長が呪文を唱える。

「こっちに届いた」

 向こうにも、鏡のように建物がある。

 …物質転送装置?

 武瑠はツーショット写真を取り出し、サンザと一緒に眺めている。

「塾長、じゃあこれも」

 クーラーバッグを扉に入れた。食べかけも含めて、いが餅が六パック入っている。塾長が同じようにして呪文を唱えると、向こうに届いた。

「いが餅。大好物」

 武瑠はいが餅を受け取った。パックから一個を摘みだしてサンザに渡し、自分も一つ食べた。向こうのサンザが初めて笑った。仲良さそうに、「美味しい」と言って顔を見合わせた。

「母さんが『武瑠に』と言って買った」

「母さん、ありがとう」

「武瑠。ほかに何か要るものがある?」

「じゃあ、カレールーとじゃがいもを頼む。サンザがカレーを作りたいと言うとる」

 三佐子さんが「私、腕によりをかけて、スパイスを配合するわ!」と言う。

「三佐子さんのカレーは旨いぞ」

「知っとるよ。楽しみにしとる!」

「あ、それから、父さんの遺言が出て来た」

「遺言?」

「父親から男児に伝えるべき、さつま汁のレシピ」

「父さんのさつま汁、旨かった。じゃあ、それも頼む」

 母親が武瑠に言う。

「来年はここで一緒に食べよう。父さんはおらんけど、みんながおる」

「母さん。そうしよう。カレーとさつま汁で、宴(うたげ)を開こう!」

「武瑠。必ずだぞ」

「必ず」


 風が吹き、滝の水が落ち始める。向こう側の景色が霞み岩壁に。

 昼の明るさと蝉時雨も戻ってきた。


 極楽天神の境内に四人が残った。いつの間にか塾長は消えている。

 母親が「現実じゃったんよね」と呟く。

 リンダさんが「夢よりも現実離れしとる」。

 体験しておきながら、徐々に信じられなくなっていく。

「失くした婚約指輪、向こうのサンザがしとった…」

 三佐子さんは振るえている。また心がひどく乱れている様子。

「あれは誰? 私の分身って言っても、この私じゃない。私じゃない私が、武瑠君と暮らしている。武瑠君は一人なのに、私だけ二人になるなんてズルくない?」

 混乱する三佐子さんにリンダさんが声をかける。

「サンザ、無理に理解しようとせん方がええよ。奇跡が起きたんじゃけん」

「私は誰? ここにおってもええん?」

 今度は母親が三佐子さんに語りかける。

「三佐子さん、武瑠は幸せじゃ言うたよ。山翔と幸せになってほしいとも言うたよ。このふつつかな山翔でええなら、一緒に前に進もうや」

 …ふつつかは余分。

「お母さん。ありがとうございます。もう少し気持ちを整理させてください」

 落ち着くまでには少し、時間がかかりそうだ。

 僕の手には、社の扉から出てきたノートの切れ端が残っている。難しい呪文の最後には、確かに「ぎふまふ」と書いてある。ふと、裏返すと地図が描いてある。広熊道路から分かれた先に「ハーブ畑」があり、その手前で分かれて「極楽天神」への道がある。「赤テープ」の文字もあり、神社のマークから欄外に線が引っ張られ、「特異点」とある。

 …あ、これ、分かりやすい。塾長、極楽天神への地図を極楽天神に置いたらダメじゃん。

 そう思いながら、その経緯を夢で見たような気がした。思い出すことはできない。

 三佐子さんはまだ、うつろな目。

 蝉の合唱に混ざって、「ヤマショウ、出番じゃ」と塾長の声がした。

 僕は後ろから抱きつき、指先で三佐子さんのお腹を押さえた。

「キャ、何!」

「ここが不安を解消するツボ」

 リンダさんは、「勇者ヤマショウ、やることがズレとるで」と呆れたが、三佐子さんが少し笑うと、「お、意外にもツボか」と感心した。

 時計を見ると午後一時。

「工場長主催のパーティ、今日よね」

 僕が言うと、三佐子さんはハッとして顔を上げた。

「あ、大変。急がんと」

 四人は急いで帰り支度をする。

 …武瑠君、来年、また来るね!

 三佐子さんの思念の言葉が、ほかの三人に聞こえた。

 リンダさんが「勇者ヤマショウが妬くよ」と言うので、僕が「真夜中のケトル!」と答える。母が「なんなんそれ?」と聞くと、三佐子さんは「やかんやかんです」といつもの笑顔を見せた。

 極楽天神を後にする。少し歩いて振り返ると、神社も滝も消えている。


 四人は走るように車に戻った。業務用のスーパーに行って、大量買い出し。工場長が予算を奮発してくれたので、普段は手を出さない変わったエスニック食材をカートに入れる。ライムジャムもあった。

 母親も一品任され、リンダさんは衣装を担当することになった。

 店に戻るともう二時。パーティは五時からだ。さあ、忙しい。三佐子さんにとって、武瑠が現れて消えた動揺を治めるには、かえって良かったかもしれない。

 三佐子さんのリーダーシップで次々と料理が出来て行く。母親がいきいきしている。僕は会場作り担当。テーブルをくっつけて、クロスを敷く。

 三佐子さんが悲鳴を上げた。

「きゃあ、プレゼントを作ってって言われとったんよね!」

「忘れとったね」

「あ、化粧筆はどうかな。男性には毛筆の筆」

「熊野筆ね。ええね」

「筆の里工房のショップが買いやすいと思う。お兄さん、行って来て」

「行くけど、僕のセンスで大丈夫かな?」

「任せる。というか、このパーティはお兄さんのお客さんだよ。自分がいいと思うものを選べばええんよ」

「そうか…」

「領収書もらってきてね」

 店を出ようとすると、母親に呼び止められた。

「途中うちに寄って、流し台の下からたこ焼きのプレート持って来て」

「たこ焼きやるん?」

「内緒!」

 僕はぎふまふ号を飛ばす。広熊道路の途中、さっきまでいた極楽天神の森が見える。

 筆の里工房、久しぶりに来た。ミュージアムショップには、化粧筆がずらっと並んでいる。

 …パウダー、リキッド、チーク、ハイライト、コンシーラー…こんなに種類があるのか。全く分からない。ショップの人に聞こう。

 どんな人にプレゼントするのかと聞かれたので、外国の人で普段はほとんど化粧をしてないはずだと答えた。

 …そういえば、リンダさんは割とばっちりメイクだけど、三佐子さんって化粧をしてるんだろうか。

 店の人は「それならば」と基本的なセットを薦めた。それがいいと思った。デザインは直感で、ホーさんに黒軸、レーさんに赤軸。男性のグエンさんとグエンさんには、書道用の中筆と硯と墨。一旦、領収書を切ってもらい。別に自分用も買った。

 車で戻る。家に寄り、たこ焼きプレートを引っ張りだした。

 …家族でたこ焼きパーティ、やったよな。

 店に帰ると、料理がテーブルに並び始めていた。僕は墨をすり、画用紙をテープで繋いだ紙に「グエンさんとホーさん、グエンさんとレーさん。おめでとう」と筆書きした。

 リンダさんが「なかなか達筆ね。私にも貸して」と言い、その下にグエンさんたちの言葉で、「おめでとう」と書いた。


 四時半ごろ、工場長が、支払いと打ち合わせのために現れた。工場長のオーダーは「良い思い出を作ってやってほしい」ということだった。

 五時。男性が六人、女性が四人の技能実習生が、カランコロンと入店した。日本人も何人かいる。グエンさんたちの会社の人らしい。

「いらっしゃいませ!」

 店内の五人は、クラッカーで迎えた。びっくりしていたが、母国にも、お祝いのときに爆竹を鳴らす風習があるらしく、「ワオ!」と言って手を広げて喜んだ。壁に貼られた「おめでとう」の紙を見て、緑色の服のグエンさんは「ありがとうございます」と涙ぐんでいた。

 リンダさんが、ホーさんとレーさんに、外国語で話しかけ、一緒に三階に上がって行った。

 母親がカウンターでたこ焼きを焼き始めると、ほかのメンバーが集まってきた。焼き上がる端から、熱々をサービスする。

「ウスターソースをベースにするのが矢野風よ」

 皆、喜んでいる。そのうち、「やらせてほしい」というメンバーも現れて、母親がくるくるっとひっくり返すコツを教える。

「上手なのも、下手なのも、楽しく作れば全部美味しい」

 途中から、出汁もたこも入れない、プレーンのボール焼きに切り替える。そして、三佐子さんが準備してくれた「カスタマイズ・スパイス」のセットをテーブルに出した。

「好きな味にして、食べてください」

 技能実習生たちは、エスニックなスパイスを調合し、いろいろ試している。工場長と母親が、ニコニコしながら見ている。

 リンダさんが、階段を下りてきて、僕にOKサインを出した。成り行き上、僕が司会をすることになった。

「それでは皆様、お待たせしました。私、司会の大役を仰せつかりました、当店のバイト君こと、伊藤山翔でございます」

 三佐子さんが小声で「お兄さん、やさしい日本語でね」と囁いた。

「あ、はい。では、これから、工場長プレゼンツ、紺色のグエンさんとホーさん、緑色のグエンさんとレーさんの…結婚? 婚約? パーティを始めます!」

 拍手が起きた。

 二人のグエンさんを階段の下に立たせた。

 ホーさんとレーさんが、工場長のエスコートで階段を下りてくる。

 日本着物を着て髪をアップにし、綺麗に化粧をしている。

 歓声が上がり、指笛が鳴る。

 涙もろい緑色のグエンさんは、いきなり号泣。

「きれいです。とってもきれいね」

 工場長は、それぞれのパートナーに「花嫁」を引き継ぎ、階段に残って挨拶を始めた。

「まずはこの二組のカップルに、おめでとうを言います。二人のために、今日はこんなにたくさんの仲間が集まりました。ワシ、いや、私はこの町で、もう何年も、たくさんの外国の人と一緒に仕事をしてきました。自分なりに努力したつもりでしたが、言葉が通じなくて、心が通じなくて、皆さんの先輩を傷つけてしまいました。気付いていないだけで、一度や二度ではないのではないかと思います。今回、この店のバイト君、いや山翔君が教えてくれたんです。ワシ、いや私はまた、みんなを傷つけるところでした。私の工場でこのような出会いがあり、実を結んだこと、本当にうれしく思います。また、昨日いきなりお願いしたにも関わらず、この店の皆さんには、こんなに心のこもった会を準備していただき、まことに、まことにありがとうございます」

 …まだ、続くのかな。

「はい。心温まるお話、ありがとうございました。皆さん、もう一度、大きな拍手をお願いします」

 工場長は照れくさそうに、拍手を受けた。

 三佐子さんとリンダさんがシャンパンの蓋を飛ばして、祝宴が始まった。参加者は三佐子さんたちが作ったアイデア料理に目を丸くしている。

 紺色のグエンさんが「ミサコさんの料理、みんな楽しみにしていたんです」。三佐子さんは「喜んでもらえるなら、うれしいわ。たくさん食べてくださいね」。

 ひと通り食べて、お喋りも最高潮。二組のカップル、とりわけ二人の女性の周りに人が集まって祝福を伝える。リンダさんはカメラを構えて、幸福な被写体に向かってシャッターを切る。

「私の撮りたかった笑顔。異国の地で肩を寄せ合って生きるとかいう、日本的なお涙物語じゃないんよね。彼らは世界という舞台に飛び出して、羽ばたいて輝きを手に入れようとしとるんよ」

 そう僕に言った。

「武瑠もそうなんかな。武瑠も、新しいステージで輝きを手に入れた、と思ってええんかね」

「そう思ってええんじゃない? いい顔しとったじゃん。不本意な生き方なんかしとらんと思うよ」

「そうじゃね。僕、三佐子さんにプロポーズしてもええと思う?」

「もちろん、もちろんよ。気持ちを整理したい言うとったけど、今夜くらいがチャンスかもね」

「今夜?」

 …そうか。確かに、明日は岡山に戻らなくてはならない。

 母親がかき氷をすり始めた。彼らの国にもあるらしいが、色鮮やかなシロップをかけるのは日本風。舌の色が赤や緑になっているのを、見せ合って大笑いしている。

 僕は司会役に戻る。

「皆さん、工場長から二組のカップルにプレゼントがあります」

 四人が並んで、工場長から受け取った。男性には書道用の毛筆、女性には化粧筆。主役が一言ずつ、参加者にお礼を言った。そして、最後のホーさん。

「今日は、どうもありがと、ございます。私たち、幸せなカプルになります。皆さんに約束します。はい。ここには、もう一つカプルがあること、私は知っています。ミサコさんとヤマトさんはカプルですね。私のブーケ、ミサコさんにトスします。ハイ!」

 三佐子さんが受け取ると、会場は大騒ぎになった。僕は、彼女の横に押し出され、ホーさんに手を繋がせられた。三佐子さんが僕の腕にしがみつくと、指笛が鳴った。

 みんな楽しそうで終わる気配がない。工場長が「何時までええ?」と聞くので、三佐子さんに確認したら、「今日中ならええんじゃない? 食べ物がなくなるまで食べてほしいけん」と言う。

 十時になったので、工場長が「さすがに、お開きにしよう」と言った。

 みんなで乾杯をして、記念写真を撮り、パーティは終わった。帰り際に工場長が、僕に何度も何度もお礼を言うので、恐縮してしまう。

 四人で後片付けをする。もうすぐ十二時だが、いい感じの疲労感が、気持ちをハイにさせる。

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