2人の少女
出会わなければ、どこかの知らない女の子が何かの病気で死んでしまうなんて、永遠に知らないままだったんだ。
この瞬間にも世界のどこかで知らない人の命が消えている。でもその知らない誰かの死をひとりひとり悲しんでいたら、私の心は窒息して苦しくなって、いつか壊れてしまうだろう。
「何月何日何時何分何十秒地球が何回まわった日にあたしが死ぬのかはわからないから、適当に待ってて。ま、新聞のお悔やみの欄でも毎日確認しておいてよ」
出会い頭に告げられた衝撃的な事実に、私は言葉を失った。
グラスに入ったオレンジジュースをストローで飲むこの女の子は、数ヶ月しないうちに死んでしまうらしい。3日前までは知らない誰かのうちのひとりだった。名前は、沙羅という。
「人生バンクの人から連絡いくと思うしね。もうあたしの代わりとして生きていいですよって。タイミングって大事だし、後のことは上手くやってちょうだい。上手くいかなくてもあたしは死んでるからどうこう言えないけどね」
隣の隣の隣町の来たこともないファミリーレストランで彼女と会った。宵ノ口さんを介してお互いの連絡先を交換し、3日前くらいからSNSでやり取りをして、今日の昼に待ち合わせをしたのだ。しかし他に客が大勢いるこの場所では大きな声で話せない内容だった。
せっかく注文したサンドウィッチなのに、味がしない。お腹は空いているはずなのに進まなかった。それもそうだ、生死に関わる話をしながら食べられるはずない。
ましてや、今後この子の人生を丸ごといただくとなると尚更。
重い口を開いて尋ねる。
「あの、
「うん、お医者さんがお手上げだって。もっと体調が悪くなったら緩和ケア病棟ってところに入院するの。そうなったら家に帰れるかもわからない。あとさ、歳一緒なんだから敬語使わなくていいよ。たぶん、こうして会うのも今日が最初で最後だろうし」
あっさりと自分の運命を受け入れている。まるで他人事とか物語とかみたいに平気で喋っている。死ぬなんて嘘みたい。でも、沙羅さんの顔は写真で見るよりも細かった。顔だけじゃなくて腕も足も私の半分くらい細い。ショートヘアの黒髪もよく見ると作り物、ウィッグだ。ジュース以外注文しはしてなくて、1杯飲むだけでも休みながら時間をかけていたので大変そうだった。その姿はやっと生きている感じがした。
あえて、何の病気なのかは聞かなかった。気に障ったら失礼だし、聞いたとしても私がいつか沙羅さんになれば記憶はなくなる。こうして向かい合って話したことも忘れるのだ。
「それでさ、どうして人生変えようと思ったの?」
「え?」
「いや、だから、理由があるから今の人生捨てたいんでしょ? あたしの人生引き継いでもらうんだから、知る権利あると思うけどな。別に話したくないならいいけどさー」
確かに、人生をもらうわけだから理由を教えないのは不公平だ。
身の上話をするのはこれで2人目。自分のことを教えるのって難しい。
それでもたどたどしく、焦れったい喋り方で頑張って話した。話している間、沙羅さんの目を1度も見ることができず下を向いていた。途中で欠伸が聞こえたり、中断の声が入ったら話すのをやめようとしたけど、そんなのは一切なくて結局最後まで伝えられた。
終わってからもしばらく俯いたままでいた。沙羅さんの反応が怖い。きっと私の悩みなんて大したことない。
それだけのことで人生変えるの? あたしは生きたくても生きられないのに。そんな辛烈な言葉を浴びせられる覚悟をしていた。
ストローで氷を回す手元が見える。カランと涼しい音がしてから、彼女は言った。
「何も悪いことしてないのに、酷いこと言われたり暴力振るわれたり、怖かったね。ある意味青葉ちゃんも病気に苦しめられてたんだよ」
「病気、ですか?」
恐る恐る顔を上げる。沙羅さんの大きな目と合った。
「うん、人を傷つけたい気持ちになる病気を持った人に傷つけられたってこと。そういう病気はいっぺん自分も同じ目にあわないと気づかないし治らないからね、難病だよ。でも本当、よく頑張って耐えた。今日こうしてあたしに会いに来てくれて嬉しいよ、ありがとう」
その優しい声に、目元がじんわりと熱くなる。頑張ったと誰かに認められることが嬉しかった。
沙羅さん自身の方が大変な状態なのに、私を気遣って1番欲しい言葉をかけてくれる。なんて儚くて素敵な人なんだろう。
あいつらによって汚れた心が浄化されていくのを感じた。
「うん、合格。青葉ちゃんにならあたしの人生引き継いでもらえるかな。安心したらお腹空いたかも」
沙羅さんはチョコレートパフェを頼んだ。お腹が空いているのなら、普通は口の周りをチョコだらけにするほど頬張るイメージがあるが、沙羅さんの場合はやっぱり少しずつゆっくりだ。だから口周りを汚さず、綺麗に上品に食べていた。
「うーん、半分くらいが限界かな。良かったら半分食べない?」
「いいんですか?」
「あたしの病気はうつらないから大丈夫だけど、潔癖を気にするなら残すよ」
「いえ、気になりません。いただきます」
残ったパフェをもらって食べる。久しぶりに食べたパフェは美味しかった。なんていうのだろう、同い年の女の子とこうしてお菓子を半分こずつ食べるのが初めてで、なんだかむず痒い。
心から信頼できる友達がいる子は、こんなこと日常茶飯事でいちいち意識しないだろうけど、私にとっては新鮮だった。
「もし、私が沙羅さんになったら、今日のことを忘れちゃうんですよね?」
「そうだねぇ、人生バンクの説明じゃ、人生を譲った瞬間に関わった人達の記憶が改ざんされるみたい。元々あたしも青葉ちゃんも最初からいない存在になるけどそれは仕方がないと思うよ。全部が全部上手くほど甘くないもん。どの道死んだらいつかはあたしを覚えている人は完全にいなくなるだろうし、ただそれが早いってだけのことだよ。だからね、今日は青葉ちゃんにあたしの願い事を叶えてほしいの。あと少ししか生きられない、残念な女の子の頼みだと思ってさ」
まるでおもちゃをねだる子どものような無邪気さ。私なんかで願い事を叶えられるのか不安だが、断る理由はなかった。
あと残されたわずかな時間を、本人の望むように生きてほしいから。
沙羅さんの言う願い事は3つあった。1つ目は同い年の女の子とランチをすること。これはもうすでにやっている。
「あたし病気以外に友達いないの。学校に行っていた頃は、皆腫れ物に触るように接してきた。小さい時から仲良かった子までよそよそしくなって、壁を感じたんだ。中学生にあがったら友達とレストランで喋りながら楽しくランチするのが夢だったの」
やっと口にしたジュースとパフェが、沙羅さんにとって十分なランチなのだ。
「楽しく、は難しいですけど、私でいいんですか?」
「何言ってるの、めっちゃ楽しいよ。楽しく生きる人はそうでない人より、免疫力が高くなるらしいんだ。あたしの免疫力、少しでもいいから上げてよね」
口下手で愛想笑いの1つもできない自分が、楽しいなんて初めて言われた。
「2つ目はカラオケ。恥ずかしながら行ったことないんだ。マイク持って歌うってどんな感じなの?」
「あの、実は私も行ったことがなくて.......歌、下手だし」
「そうなんだ! じゃあ今日がお互いデビューだね」
歌なんてお風呂に入っている時にちょっと歌うくらいで、人前で披露したことがない。これは難易度が高そうだ。
「3つ目は、あたしの家で遊ぶ。こもってばかりだからゲームや漫画いっぱいあるんだ。あとお母さんの作ったクッキーが美味しいよ」
「えっと、それだけでいいんですか?」
「あたしにとって有意義な時間の使い方だよ。もっと贅沢な願い事だと思った?」
「いや、そんなことは.........」
私は贅沢な願い事とはどんなものかを想像した。
世界一周旅行、高価な服やアクセサリーを着て遊びに行く、高級な料理をたくさん食べる。
しかし、想像した贅沢を沙羅さんに提案はできなかった。病気の彼女にとってこれは娯楽じゃなく、大きな負担になってしまうからだ。
「あたしの贅沢はね、普通に生活することなんだよ。きっともう遠くにも行けない、食べ物も食べられなくなる。今更変わったことをやろうとは思わないんだ。今までの生活に、ちょっと花をそえるくらいでいい。その花は青葉ちゃんがいいの」
白く痩せ細った右手が私の方に伸びた。どこかで見た、白くて綺麗な名前の知らない花に似ているその手を、そっと掴んだ。ひんやりと冷たかったけど、胸の辺りが温かくなるのを感じる。
こんなにも私を必要としてくれる。いじめられっ子で何もできない自分が、誰かの役に立とうとしている。生きていて良かったと大袈裟になるくらい、それが嬉しかった。
でも、いつかこの気持ちも忘れてしまうんだろう。
どういうしくみか自然と彼女の記憶が引き継がれ、私自身が沙羅さんになりきってしまう。人の人生をもらったことなど忘れて、のうのうと生きていくんだ。
レストランで呑気に食事をする周りの人達はそれを知ることはない。知ったとしてもこんな話信じてもらえないだろう。このテーブル席の空間だけが別世界にいるような感覚がした。
沙羅さんは体が消えて、私は心が消えてこの世界からいなくなる。性格も生い立ちも違う私達は運命共同体にある。
ならば私も、私と別れるまでの時間を大事に過ごそうと思う。
誰の記憶にも残らない今日だからこそ、堂々と前を向いて歩いてみた。いつもは猫背で視線は地面に向けて、早足で歩き人を避けていた。誰かと目が合ったら酷い目にあいそうで、暗い顔を見られたら嫌味を言われそうで、すれ違う人達の顔を一切見ることができなかったのだ。
カラオケまでの道のりをゆっくりと2人で歩いて行く。いつもの何倍も遅いスピード。足幅は狭く、足裏と地面の接する時間は長い。あんまり早いと沙羅さんの息が苦しくなってしまうので、彼女のペースに合わせて歩いているのだ。さっきまで随分後ろにいた人が私達を通り越して進む。どんどん離れていき後ろ姿は小さくなってやがて見えなくなる。
「ごめんね、あたしがのろまで疲れるでしょ?」
首を激しく横に振り、沙羅さんの労いの言葉を精一杯否定した。
「そんなことないです。私もあんな風に早く歩いていたんだなって自覚しました。何だか生き急いでいいるみたい。それにこんなにゆっくり周りを見ながら歩くの、久しぶりなんです」
私がまだ幼くてお母さんが生きていた時、たまに散歩へ出かけてこうして色んな景色を見ながら歩いた。夕方に空の色が赤やオレンジや茶色や紫に変わっていくのが面白くてずっと眺めていたけど、そのうち灰色の雲が流れてきて土砂降りになって、2人でずぶ濡れになりながら家まで走ったっけ。
「あたしもね、こんなにゆっくり歩くのは小さい頃カタツムリと競争した時以来だよ。今やったら絶対負けるね」
自動販売機でペットボトルの水を購入してひと休みする。まだレストランからそんなに歩いていないが、沙羅さんは辛そうだった。水を少しづつ口に含んで飲む。
「来る時はこんなんじゃなかったんだけどな。はしゃぎ過ぎたかも」
私に会うために、家からレストランまでこうして体を引きずるように歩いてきたのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
「カラオケ、無理しない方がいいんじゃないですか?」
「それはだめ。今日逃したら次がないんだもん。田舎って嫌だね、カラオケに辿り着くまで遠いし交通も不便だし。東京ならちょっと歩けば色んな店があるでしょ?」
もう一度行きたかったなぁと自動販売機に寄りかかりながら呟いた。私は東京には行ったことがないけど、テレビで観たことはある。人が溢れて騒がしくて、絶対に行きたくないと思った。私には人が少なくて静かな田舎が向いている。
「青葉ちゃんがあたしになる前に、行きたい場所をピックアップしておいた方がいいよ。全部忘れたら今まで行っていた場所に行けなくなるんだから」
「行きたい場所.........」
「どこかあるでしょ?」
本屋、ファストフード店、ペットショップ、映画館はきっと記憶をなくしても足を運ぶ機会は来ると思う。二度と行けない場所は、1つだけ思い浮かんだ。
お母さんのお墓。毎月欠かさずお墓参りに行っていたけど、もう行けなくなるどころか思い出すこともなくなる。当たり前なことなのに、ひどく寂しくなった。新しい人生の面接を受けに来た時点で親不孝な娘。人生を変えたら取り返しがつかない、今更になって少しだけ足がすくんだ。
沙羅さんは私の心情を察したのか、それ以上何も聞かず「そろそろ再出発しようか」と言ってまたゆっくり歩き出した。
好きな音楽はいっぱいあって、どれもが人におすすめできるような明るい曲ではなかった。暗い歌詞ばかりを聴いてはすぐ自分の置かれた状況に当てはめていた。
「未来は明るいよー!今日も私はPretty girl!いぇいっ!」
沙羅さんと音楽の趣味は真逆だった。カラオケに着いて少し休んだ後、彼女から先に曲を入れて歌ってもらった。さっきまでくたくただったのが嘘みたいに、アイドルのキラキラした明るい音楽に乗せてノリノリで踊りながら沙羅さんは歌った。
私は選曲が決まらないまま、タンバリンを叩いて苦笑いをする。
歌い終わった沙羅さんはスイッチが切れたみたいにソファに座って、グラスに入ったオレンジジュースをちょっとずつ飲んだ。
「疲れたー。死にそう」
「それは笑えませんよ.........」
「カラオケってドリンクバーがあるんだね、しかもただ! ご飯も頼めるんだ。元気な時に来てたらフライドチキンとフライドポテト山盛り食べたかったな。あたし昔は大食いで太ってたんだよ」
「ええ? 本当ですか?」
「小学生の時はクラスで1番太ってた。だから男子にからかわれて、よく泣いたっけな。今はスリムになったから見返してやれるけど会いたくないや」
「沙羅さんも、嫌なことされた経験があるんですね」
「うん、だから青葉ちゃんの気持ちがよーくわかるんだ」
選曲をしていないせいか、テレビ画面にCMが流れた。私は焦って何か曲を選ぼうとするが、歌えるものがない。沙羅さんだけに歌わせて私は盛り上げ役だけで良かったが、彼女の体力を考えるとそうもいかなかった。
「何でもいいよ、激しい曲でもスケベな曲でも」
「スケベな曲なんて聴きません!」
「嘘嘘。そんなに迷ってるならデュエットしない? 同世代ならあのアニメの主題歌知ってると思うよ」
沙羅さんは今日初めて使った機器なのに、もう慣れて器用に操作して曲を入れた。テレビ画面のCMは途切れ、曲のタイトルと音楽が流れる。小さい頃テレビでやっていた好きなアニメの主題歌だった。
「懐かしい。毎週金曜日の夕方にやってたやつだ」
「でしょ? なんとなく歌覚えてる?」
「サビの部分には自信ある、かも」
「それでもいいよ。わからないとこはあたしが歌うね」
マイクを持つ手が、恥ずかしさと緊張で汗ばむ。体中が熱くなってきた。
私と沙羅さんは半分ずつ歌った。うろ覚えだけど表示された歌詞を見ながらどうにか最後まで歌い切った。
「上手いじゃん! 本当にカラオケ初めて?」
「ぜ、全然! はぁー.........恥ずかしかった」
「すっごく楽しかったよ。ねー、もう1回デュエットしようよ。この曲は知ってる?」
薄暗くて狭い部屋の中、うっすらと見える沙羅さんは、陽の下で見た時より健康そうだった。青白い肌も痩けた頬もここではわかりにくいからだ。
ひょっとしたら病気が歌声となって体の外へ飛び出して、本当に元気になったんじゃないかと期待をしてしまった。
しかし、カラオケを終えてまた明るい場所へ出たら、沙羅さんはやっぱり青白い肌と痩けた頬のままだった。2時間過ごしたが後半は疲れて歌えなくなり、彼女の体力が戻るまで待っていた。もしもあの薄暗い部屋にずっといることで病気が治るとしたら、沙羅さんはどうするのだろう。どこにも行けず、陽の光も届かない場所でも生きることを望むのだろうか。そんな途方もない妄想は、膨らまないうちにかき消した。これから彼女の家に行く。
歌うのとはまた別の緊張が走る。沙羅さんの家、つまりこれから私が暮らす場所になる。
店を出ると駐車場に停めた車の近くで女の人が立っていて、こちらに気づくと大きく手を振った。
「あ、ママだ」
どきりとする。ママ、沙羅さんのお母さん。ゆくゆくは、私の、お母さんになる人。
「いつの間に迎え呼んでたんですか?」
「うん、とても歩いて帰れそうにないから。遠慮しないで乗って」
そうは言われても、心の準備が.........。
沙羅さんのお母さんは私に笑みを向ける。目元がそっくりだった。
「こんにちは。沙羅がお世話になってます」
「こ、こんにちは」
「さ、乗って乗って」
促されるまま私は後部座席に沙羅さんは助手席に座った。車が走っている間、沙羅さんは右隣に座るお母さんと楽しげに喋っていた。
「カラオケどうだったの?」
「持久走やった後みたいに疲れた。でも楽しかったよ」
「慣れないことするからー。気分は悪くない?」
「うん、最高の気分」
ごく普通の親子の会話。時々話を振られては控えめに相槌を打った。車内は笑い声とラジオの小さな音が聞こえて、悲しい音はひとつもなかった。
いずれ助手席に座る私の姿がイメージできない。
まるでこれから死ぬのが嘘みたいに、何十年も当たり前にいられるみたいに、普通に笑っている。
家に着いた途端、ドッキリの看板を掲げられるんじゃないかと疑った。どこかのテレビ局が待ち伏せしていて、呆ける私を映す。もちろん激怒するが、かえってその方がほっとする。沙羅さんが死なないってことになるからだ。
人の人生をもらうのも嘘、沙羅さんが病気なのも嘘。私は振り出しに戻るけど、地獄の生活を打開する方法はまた考えればいい。ドッキリが終わった後、友達として沙羅さんが傍にいてくれたら、何も怖くない。そうだったらいいのに。
しかし家に招待されても一向に看板は出てこなくて、テレビ局の人もいなかった。
「沙羅に友達がいるなんて知らなかった」
沙羅さんがトイレに離れて2人きりになった時、沙羅さんママは台所でクッキーを作りながら呟いた。私は何て返事をすればいいのか困って、笑ってごまかした。
ダイニングテーブルに椅子が3つ。そのうちの1つに腰掛ける。きっといつもここで家族で食卓を囲んでいるのだ。
「いつの間にできてたんだろう、あの子一言もなかったから。今日友達と出かけるって聞いてびっくりした。どこで知り合ったの?」
「えっと、あの、病院です。私も、何度か入院したことがあって。それで」
その場しのぎの為とはいえ、よくヘラヘラと口からでまかせが言えるものだ。
本当は、宇宙人が地球を侵略しにきたのと似たような企みを持っているのに。
沙羅さんママは疑いもせず嘘を信じきった。
「そうだったんだ。こんな素敵な子が友達で嬉しい。体調はもう大丈夫なの?」
「はい、今は、もう」
「良かった、何事も元気が1番だからね。今日はゆっくりしていってね」
声は明るい、でもその後ろ姿は寂しそうだった。腰の辺りで結んだエプロンのリボンも項垂れて落ち込んでいる。少しでも元気づけたくて遊んでいる時の沙羅さんのことを話した。
「今日、レストランでパフェを半分こしました。それから2人で歩いて、初めてカラオケで大はしゃぎして、楽しかったです。沙羅......ちゃん、元気いっぱいに歌って。こっちまで、元気をもらって」
「本当? すごいなぁ、いつもは家の中を歩くのがやっとなのよ」
「えっ、そうなん、ですか?」
「何も食べたがらないで栄養補助食品しか口にしない日だってあるの。今日調子が良いのは青葉ちゃんのおかげだね」
「いえ、私なんて、何も......」
「青葉ちゃんて、不思議だね。傍にいるだけですごく安心する。きっと周りの人を癒す存在なんだね」
口下手で面白い話は1つもできなくて、人を笑わせたことはない。それでも沙羅さんは楽しいと言ってくれた。
これでは私には誰かを元気にする力があるんじゃないかって、思い上がってしまう。自分とお別れするっていうのに、今更愛しちゃいけない。未練を一切残さないために、私は私を嫌いなままお別れしないといけないのだ。
トイレに行ったきりだった沙羅さんがようやく戻ってきた。
「ごめん、吐いちゃった」
口元を手で押さえながらそう言った彼女は顔色が真っ青になっていた。沙羅さんママは手を止めて沙羅さんに駆け寄る。
「大変、まだ気持ち悪い? 吐きそう?」
「もう平気。また洗面所汚しちゃった。心配かけてごめんね」
「そんなことはいいの、子どもはいくらでも親に心配かけていいの。吐いたもの流しちゃった?」
「ううん、そのまま.......」
「わかった、見てくるから青葉ちゃんと一緒に部屋で休んでて。ごめんね、青葉ちゃん」
2人のやり取りを見て私は心臓をどきどきさせていた。
またって言った、またって。
「沙羅さん、大丈夫?」
「毎日こんなだしもう慣れっこだよ。ごめんね、おやつの前なのに汚い会話して。ママは吐いたものを観察して日記をつけてるの。お医者さんに報告するためにね。毎日汚れたもの見せなきゃいけないの嫌だなぁ」
よろよろと台所の水道に向かい、グラスに水ついでゆっくりと飲んでからふーっと長く息を吐いた。
吐くのってものすごく辛い。胃袋が口から飛び出てきそうで、息がしずらくて涙が出る。口の中は酸っぱくて喉は焼かれたみたいに痛くなる。それを毎日味わうだなんて想像するだけで身震いがした。
私はよろめく沙羅さんを抱える形で彼女の部屋へ向かった。ほとんど体重を預けられているのに、全く重みを感じない。見た目よりもずっと彼女は軽かった。
「ここが私の部屋なんだ。いつもは1階のパパとママの部屋で寝てるんだけど、今日は青葉ちゃんがいるから特別ご招待ね」
2階にある沙羅さんの部屋は、日当たりがよくて窓から淡い光が差し込んでいた。ピンク色のカーテンがついていて、ぬいぐるみがたくさん飾ってあって、少女漫画が並ぶ本棚があって、私よりも女の子らしい部屋だった。
そういえば、私が沙羅さんになったら私物はどうなるんだろう。家や学校に私の生きた形跡があってはいくら関係者の記憶を改ざんしてもややこしいことになる。宵ノ口さんに聞きそびれたけど、物を消したり変えたりすることくらい造作もないと言われそうだ。だって魔法使いなんだから。
「久しぶりに来た。やっぱり自分の部屋が1番落ち着く」
沙羅さんは赤いソファへすぐ横になった。
「介護ベッドより居心地いいや。青葉ちゃんも楽にしていいよ」
白くてふわふわなカーペットの上を歩き、沙羅さんの顔がよく見える位置に座る。彼女はだいぶ気落ちした様子だった。
「早いね、もう16時かぁ。最後の最後で台無しになったなぁ。ごめんね、一緒にクッキー食べられそうにないよ。できたらお土産に持って帰って。.....聞いてる?」
私は返事をしなかった。内心怒っているからだ。看病を任せられたみたいになったからとか、一緒にクッキーを食べられないからとか、そんなことで怒っているんじゃない。
「何でそんなに謝るんですか?」
出会ってから今まで何度も謝られた。その度胸に針が刺さったみたいにちくりと痛くなった。
「謝るって、悪いことをして相手を傷つけたり迷惑をかけた時に使うものです。沙羅さんは悪いことをしていないし、私も傷つけられていないし迷惑とも思っていません。ごめんて言われた方が台無しです」
つい強い口調になった。風船の空気が抜けていくように、怒りの感情も抜けていった。萎んだ私の頭は反省を始める。体調が悪い相手に心労をかけてしまったからだ。
沙羅さんはきっと落ち込んだ顔をしているだろうと思った。しかし、次の瞬間聞こえたのは笑い声だった。
「あははははは! 青葉ちゃん気が強いじゃない! 大人しすぎて自分の意見言えないのかなって心配してたけど、安心した。わかったよ、もう謝らないから許して」
しばらくお腹を抱えて笑っていた沙羅さんは、疲れたのかまたふーっと息を吐いた。
「あたしを引き継ぐんだからそうでなくっちゃね。これから長生きするんだからぶち当たる壁はいくらでもある。今みたいに自分の思いちゃんと口に出してね。あ、あとこの部屋も好きにしていいよ。服も趣味が合わなかったら捨ててもいいし。こう見えてお小遣い貯めてるから好きな物買って」
それから、それから。
伝達はどうせ忘れてしまうのに、沙羅さんは自分のことを一生懸命話してくる。将来の夢はアナウンサーだとか、遠い場所に住む同じ病気を持った男の子とメッセージのやり取りをしていて、密かに恋をしているとか。
「青葉ちゃんがあたしになったらどこから始まるんだろう。病気が治ったことになるのか、病気はそもそもなかったことになるのか、わからないけどきっと皆都合のいいように記憶が変わるんだよね。死ぬのはね、別に怖くないんだ。帰らぬ旅に出るのと同じだよ。あたしがこの体で生きられる時間が、他の人より80年くらい少なかっただけで、きっとまた別な誰かとして生まれ変わる。悔しいのは、パパとママにもう会えないってことだよ。だからね、あたしがいなくなったら、2人をよろしくね」
「忘れられるのは怖くないんですか? 皆沙羅さんがいたこと、忘れちゃうんですよ? 私はいじめられてる時、1番辛かったのは男の子達にはたかれたり蹴られたりしたことじゃありませんでした。他の皆から無視されたことです。まるで私を無いもの扱いして、忘れてしまったみたいに、それが、とっても怖かった」
沙羅さんは黙ったまま、返事をしなかった。
太陽が私達を照らしながら西へ傾いていく。
「今日は色んなことを想像してたんです。歌を歌ったら病気が消えるとか、ドッキリの看板を見せられるとか、沙羅さんがいなくならない想像。そんな都合のいいことばかり考えて、私、馬鹿ですね」
声が震える。光が当たって暖かいと感じる彼女の体はなくなる。船や飛行機では会いに行けない遠い場所に行ってしまう。どんなに大金を払っても、何かと引き換えにしても、今日のような楽しくて心が救われる日は永遠にやってこなくなる。
ならばせめて覚えていたい。
「無理なんです、沙羅さんを忘れて代わりに人生をのうのうと生きていくなんて。だったら今のままの方がましです。どんなに痛めつけられても苦しくても、今日の思い出をなかったことにしてしまうのが1番耐えられない、そう思ってしまったんです。わがままで、優柔不断でごめんなさい」
沙羅さんは困ったように微笑んだ。
「青葉ちゃんこそ謝らないでよね。でもあたしもそう思う。今日の思い出を抱えて旅に出るよ。ところでさ、いつまで敬語なの? 友達ならため口で話してよ」
鼻の奥がツンと痛む。私は一間置いてから決意を伝える。
「ごめんなさい、ごめん。私は、あなたの人生を奪えない。全部なかったことにはできない。忘れたくないよ」
堪えていた涙はついに溢れ出て、情けなくもしゃくりあげながら私は泣いた。沙羅さんは上体を起こして私の背中を優しくさすった。これじゃどっちが病人なのかわからない。
「願い事3つ叶えるから、私の願いも1つだけでいいからきいて。...........沙羅さん、生きて」
「それは難しい願い事だなぁ」
沙羅さんは私の体を両腕で包み込んだ。お母さんに抱きしめられた時を思い出して、懐かしい気持ちになる。
「あたし、今まで自分のことばっかりだった。人に好かれる子じゃなかったんだよ。病気になってから初めて周りが見えるようになった。誰かのために泣けるようになったの。病気になったからって悪いことばかりじゃないんだよ。ならなかったら青葉ちゃんに会えなかっただろうしね」
沙羅さんの心臓の音がする。ずっとこの音が止まらなければいいのに。
どうして私を想ってくれる人はいなくなってしまうんだろう。悔しくて悔しくて、泣き声はもっと大きくなる。わんわんと駄々をこねる小さな子どもみたいだ。
「青葉ちゃんは真っ直ぐな子だから、最後には断られる気がしたんだ。わかったよ、代わりは探さない。沙羅は、あたしで終わりにする。ねぇ、3つ目のお願い変えてもいい? クッキー食べるのもゲームするのも漫画読むのも、今日は無理そうだからさ」
「何? 何でも言って」
「二度と自分をやめようとしないで。いじめのこと、ちゃんとお父さんに相談するんだよ」
「・・・・・・わかったよ、約束する」
涙と鼻水で濡れた酷い顔をあげて沙羅さんを見る。光が反射してビー玉みたいに輝いた目には涙の膜が張っていた。
私は沙羅さんの細くて軽い体を抱きしめた。そして、何度も何度も頷いて願い事を叶えると誓った。
「おかえり、青葉」
帰るとお父さんが焼きそばを作っていた。今日は朝に帰ってきて夜は家にいられる日なので、夕飯は一緒に食べられる。話す時間はたっぷりあった。
「ただいま。.......お父さん、大事な話があるの」
お父さんは驚いた顔をして料理を中断する。
沙羅さんと絶対に破ってはいけない約束をした。勇気を出してお父さんにいじめのことを話す。今まで隠していた体の傷も見せた。お父さんは眉間に深く皺を寄せて、口を固く結んでいる。そして大きく息を吸い込んだ。
「どうして今まで黙っていたんだ!」
聞いたことがないくらいの大きな声に、体がビクッとする。それはそうだ、私は元気な振りをして嘘をついていたんだから怒るのは当たり前。
「本当に、ごめんなさい。.......仕返しが怖かったし父さんに迷惑をかけたくなかったから」
説教されると身構えていると、お父さんは私を力強く抱きしめた。服からソースの香ばしい匂いがする。
「馬鹿だなぁ、仕返しなんて俺が絶対させない。子どもは親に迷惑かけていいんだ。よく話してくれた。気づかなくて悪かった。まさか青葉がこんな目にあっていたなんて......。早く言わなきゃ駄目だろ」
沙羅さんママと同じことを言っている。
「お前までいなくなったら、お父さん、どうしたらいいんだ。体痛くないか? 明日病院に行こう」
「大丈夫だよ。今は痛くないから」
「いや、万が一のことがあるから診てもらおう。骨折していたり内蔵が傷ついていたりしたら大変だ」
「でも、明日は夜仕事があるんじゃ.......」
「仕事よりも青葉の方が大事に決まっているだろ。もし体調が悪くなったらすぐ言え。これからは何かあったらきちんと話すんだぞ。学校のことは気にするな、お父さんが何とかするから、しばらくゆっくり休め」
「何とかって、どうするの?」
「まずは先生達と話す。それから青葉をいじめた子達を心から反省させるんだ。最後には直接謝らせる」
「そんなこと、できるの?」
「できるに決まってるさ。いじめなんていうのはね、加害者が被害者に直接謝りたいと思った頃には手遅れになっていることが多いんだよ。青葉の場合はまだ間に合うんだ。意味、わかるか?」
「.......いじめられていた子が亡くなってるってこと?」
「言い難いが、そういうことだ。いじめは殺人に繋がるんだよ。取り返しがつかなくなる前で、本当に良かった」
そうしてまた強く私を抱きしめる。わたしの頭を撫でる手が、少し震えていた。
心強いお父さんの言葉で体中の力が抜けた。
あの辛くて自分をやめてしまいたくなった日々がようやく終わるのだ。
思考が麻痺して自分を捨てるところまで追い込まれていたんだ。やっと目が覚めた気分。もっと早くこうして相談すれば良かった。
逆に、早く相談していたら沙羅さんには出会えなかった。運命は不思議だ。でも全部私が選択してきたこと。これで良かった、間違っていないんだ。
涙は全部沙羅さんの家に置いてきたつもりだったけど、乾いた目からまた溢れそうになる。でも、私はやりたいことをお父さんにしっかり伝えるために泣くのは我慢した。
「お父さん、私、やりたいことがあるの」
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