あなたの夜が更ける前に

弐月一録

魔法使いと少女

私達はいわば2回この世に生まれる。1回目は存在するために、2回目は生きるために。


フランスの哲学者

ジャン=ジャック・ルソー



海はみんなのお母さん、

みんな海から生まれたの。


それなのにどうして、

兄弟達で傷つけあってしまうのかしらねぇ。


ばしゃりと臭い水を被った時、私は死んだお母さんが昔そんなことを言ったのを思い出していた。


お母さん、私は思うよ。あいつらはみんな、ないものねだりなんだ。何かが欲しくても手に入らず、何かを探しても見つからないから、空っぽを埋めるために気を紛らわせなきゃ自分を保てない。哀れだよ。


ぽたぽたと白い水が前髪の先から雫となって落ちていく。何滴かは目に入り激痛が走った。


いつから牛乳を飲むものではなく、被るものになったのだろう。飲むと腹を下すあれは、ただ自分を汚すための道具と化していた。


だからもっと牛乳が嫌いになった。


毎日毎日あいつらは飽きずに私をいじめた。授業以外の学校の時間はいじめに費やされる。好きな本を読むことも飼育されているうさぎを愛でる時間も与えられなかった。


まさか自分がいじめの標的になるとは思っていなかった。きっとお父さんは自分の子が酷い目にあうなんて思わないし、あいつらもまさか自分達が加害者になるとは思っていなかったはずだ。きっとあいつらの親も自分の子が知らず知らずのうちに糞ガキへ成長しているとは思っていないはずだ。


ほんの些細なことからいじめは始まった。ついこの間、体調が悪くて授業中に吐いてしまったのだ。昼に食べた、消化しきれていない給食が机や床を汚した。トイレに駆け込む間もなかったからみんなの前で醜態をさらした。気になる男の子にももちろん見られた。早退してお父さんに近所の胃腸クリニックに連れて行ってもらって急性胃腸炎の診断を受けて、処方された薬を飲んだらすっかり良くなった。


でも、こんな辛い思いをするんならあのまま良くならなきゃ良かったと、後悔した。


回復して学校に行ったら自分の机の上に消毒液と汚い雑巾が置いてあった。その下にノートの切れ端を破ったような紙があって、「ゲロ」とか「臭い」とか書かれていた。


「よぉ、青葉あおば。お腹の調子はいかが?」


吐いた時、心配もせず近くで大笑いしていたクラスメイトの男子3人がにやにやしながらやって来た。他の人達は声をかけて止めに入るどころか見て見ぬふりをしていた。私には友達と呼べる人がいなくなった。そう呼んでいた人達はよそよそしくなって話をしてくれなくなった。話したら自分もいじめられるからだ。


いじめというのは、少しのきっかけから始まるものなんだと、身をもって知った。


それでも最初は無視できる余裕があった。相手にしなければあいつらも飽きてそのうちやめるだろうと思っていた。そうすればまた普通の日常が戻る。中学2年という何もかもか不安定な時期だから、みんな刺激を求めてるのだ。気持ちはわからなくもなかった。でもあいつらはろくな大人にはならないだろう。


嫌がらせに反応しないことであいつらはイライラして、いじめはおさまるどころか逆にエスカレートした。私の体にGPSが埋め込まれているのか、どこに隠れてもあいつらに居場所を突き止められては、人目を避けた場所に無理やり連れていかれ嫌がらせを受けた。


校舎内を逃げ回る毎日。庇ってくれる人はいなかった。あいつらは3人がかりで私を捕まえて、誰もいない時間帯を狙っては体育館倉庫に連れ込む。そして、給食に出た紙パックの牛乳を何日も溜め込んで、わざと賞味期限を切らせて腐った牛乳を頭からぶっかけてくる。


「くせぇ、くせぇ! お前のゲロといい勝負だな!」


目や鼻に牛乳が入って咳込んだ。抵抗してみたものの、2人が両脇から体を押さえつけるせいで身動きが取れない。


「なんふぇ、こんなこふぉ、ふるの!」


咳き込みながら「何でこんなことするの!」と言うと、あいつらは一瞬真顔になってから腹を抱えて笑いだした。


「おいおい、なんて言ったんだよ! ばい菌だから人間の言葉が喋れないのか? お前には前からムカついてたんだよ、優等生ぶりやがって!」


「俺らを見下してたんだろ? ばい菌の癖にクラスで1番頭が良いなんて気持ち悪い」


「頭の中が腐ればいいのに」


お父さんに褒められたい、お父さんを楽させるために将来ちゃんとした仕事に就きたいと真面目に勉強を頑張るのは、あいつらにとって癪に障ることだったらしい。


それからはまたばい菌として扱われ、倉庫のロッカーにしまわれたモップや箒で叩かれて、ちりとりで集められた綿埃をかけられて放置された。もう自分の体が臭くて臭くて吐きそうになる。


「誰にも言うなよ! 言ったらもっと酷いことしてやるからな」


「大丈夫だ、ばい菌だから喋れないだろ」


「そうだったな! わはははは!」


3人は笑いながら倉庫の扉を強く閉めて出て行った。


わはははと笑う声が遠くへ消えていく。


耳鳴りがするほどの静寂と、牛乳と埃の臭い。


独り取り残された私はコンクリートの床に額を押し付けて、蹲りながらしばらく動けなかった。


体調が悪くて吐いたせいでこんな目にあうなんて。これほどの仕打ちを受けるほどの罪を犯してしまったのか。それに女子1人に対して男子3人がかりでくるのは卑怯極まりない。私の力ではやり返す術もない。生まれて初めて性差を憎んだ。


先生に言ったら、いじめはなくなるのかもしれない。でも、警告された通りもっと酷くなるかもしれない。もしかしたら殺されるかも、そんな恐ろしい想像だけが莫大に膨らんで、結局相談することができず黙って過ごすしかなかった。


「おかえり青葉」


くたくたで家に帰ると、お父さんが夕飯の支度をして待っていた。


「また体操服のまま帰ったのか」


朝は制服で登校したのに、帰りは体操服を着て帰ることの多い娘を不思議がっている。


「うん、友達と運動してまっすぐ」


「わんぱくだなぁ。お母さんに似たのかな」


「お風呂に入ってもいい?」


「ああ、ちょうど沸かしたところだ。髪がびっしょりだな」


「すごく汗をかいたんだ」


「そうか、お父さんはあと30分したら夜勤に行くから、夕飯は残さずちゃんと食べるんだぞ」


「わかった」


牛乳臭い制服を体操着袋に詰め込んで、急いで脱衣所に行く。素っ裸になって制服と一緒に風呂に入った。洗剤でごしごし手洗いして、ドライヤーで乾かしてしまおう。もう一着あるから明日はそれを着て…。


途端、制服を持った手がガクガクと震え始めた。


明日が怖くてたまらない。


ざぶんと湯船に潜り込む。外の世界と遮断したい。何も見たくないし何も聞きたくない。お湯の中は温かくてごうごうと水の音だけがした。胎児のように丸まって静かに浮いているのが、とても安心した。ずっとそうしていたかったが、息が苦しくなり静寂の世界から大嫌いな世界へ再び顔を出す。


風呂からあがるとお父さんはすでにいなかった。仕事へ行ったようだった。自転車を漕いで10分くらいの場所にある工場で働いている。ろくに休まず、車の部品を夜な夜な寝ずに作る姿を想像するときゅっと心臓が萎む気がした。


和室にある小さな仏壇に手を合わせる。仏壇の上にはお母さんの遺影が飾られている。一昨年に脳出血で倒れて、すぐに死んでしまった。本当にあっという間だった。


あっという間だったから、痛くなかったかな。そうだといいなと今でも時々考えて祈っている。


今はお父さんと2人で暮らしている。裕福ではないがお父さんは私に不自由をさせないよう朝から晩まで働いてくる。それに答えて一生懸命に勉強を頑張り学校も休まないようにしている。例え、死にたくなるような嫌なことがあっても相談せず我慢した。お父さんにこれ以上負担をかけたくなかった。


この時は、自分の世界というものが学校だった。世界が広いことは知っていたのに、学校という四角くて冷たいコンクリートでできた建物が、全てなのだと勘違いをしていた。国語の先生がいつか言っていたことわざ、井の中の蛙ってこういうことを言うんだろう。蛙は毒の水に浸っていたら狭い井戸の中で死んでしまう。ニュースでそう歳の変わらない子が自ら命を絶ったことを知ると、気持ちがよくわかる。


他人事じゃない、周りが毒だらけなら、いつか学校の中で死んでしまう気がした。


気がした、でおさまればいいものを自分の存在価値はあいつらにえぐり取られて、どんどん心が蝕まれていって死にたくなった。


少しだけ、天国にいるお母さんが恋しくなった。


しかし、今死んでお父さんを独りにさせるのも嫌だったし、どうせあいつらは大人になったらきっといじめのことを忘れるに決まっている。そうしたら犬死だ。それに標的を変えてまた別の子をいじめるかもしれない。


辛いのに逃げられない。陸の見えない海の真ん中で溺れているような現実。どうしていいのかわからなくなっていた。


絶望の朝がまたやってきた。目が覚めた直後は体が樹脂で固められたみたいに動かない。学校という名の地獄に行くのを体が拒んでいる。


毎朝起きるたびに頭の中で絶望の文字が浮かぶ。トンカチで頭をぶっ叩いてもらうか、睡眠薬を多量に飲むかして意識を失う他、文字を消す方法がない。


目覚まし時計の音を延々と聞いてから、ようやく強ばりの取れた腕の筋肉を使って時計のアラームを止める。


そうやって私の毎日が続いていくのだ。



そんなある日のこと。


相変わらずしつこいいじめは続いていて、帰り際に蹴られたお腹をおさえながら下校した。日に日にエスカレートしている。痛そうにして帰ったらお父さんに心配されるので、痛みが和らぐまでどこかで時間を稼がなくちゃいけなかった。


公園は人が多いからいけない。もう人を見るのも嫌なくらい人間不信に陥っている。誰もいない所で休みたかった。


人気のない場所を求めて歩いていると、だんだん景色が家々から田んぼに変わった。気温差の激しい秋、昨日は暖かかったのに今日は肌寒い。どこか建物の中で休まないとますます具合いが悪くなる。


田園地帯の道に箱みたいなものがあって、近づいてみると木でできた小さなバス停留所だった。


道路に車は1台も通っていなくて、本当にここへバスが停ることがあるのだろうかと疑うほど静かな場所だ。ここなら誰も来なそうだと倒れるようにベンチに座る。


なんとも居心地の良い秘密基地だ。屋根もあって囲いもある。これからゆっくり休める。これからはここに来て独りで過ごそう。


仰向けになって長く息を吐いた。ズキズキとお腹が痛む。暗い天井を見ていると、目が開いているのか閉じているのかそのうちわからなくなった。何も考えずに済む空間を独り占めして腹の痛みがおさまるのを待つ。


まだ数分も経っていない内だった。地面をこするようにして歩く足音が聞こえてきて心臓が跳ねた。


まさか、あいつらが追ってきたのだろうか。いや遊具もない、こんな何もない所にわざわざ来るわけない。絶対に違う。


違うと決め込んでもつい身構えてしまう。大人だったらぐったりしている私を見て声をかけてくるかもしれない。そうなると困る。大人達にいじめの存在が知られてしまう。


足音が近くに迫ってきた。慌てて起き上がって何でもないように座った。できるだけ気配も消した。


やけにゆっくりな足音の主は、バス停の前で止まった。


スーツ姿の、見慣れない男の人だった。他には誰もいないようだ。


ほら、あいつらじゃなかった。


ほっと胸を撫で下ろしたが、男の人はいつまで経っても停留所から離れようとせずうろうろしている。気が散って仕方がない。


早くどこかに行けばいいのにと苛立つ。


もはや男というだけで敵視していた。近くにいられるのが嫌で嫌で仕方がない。


この場所を去ろうか、居座っていようかで悩んでいたが、結局お腹の痛みが完全になくなるまで膝を抱えてじっとしていることにした。


「すいません、この辺にコンビニはありませんか?」


声は明らかに私へと向けられている。嫌々ながらも顔をあげて男の人を見る。きりっとしていて賢そうな目と合う。二重まぶたがくっきりしていて鼻も高いしおまけに目や髪や肌の色素が薄かった。ハーフなのかもしれない。こんな目立つ男の人がこの辺にいただろうか。


「あ、はい。えっと、1番近いのは確か向こうに.......」


コンビニのある街中の方を指して教える。土地勘がないということはここに住んでいる人じゃなさそうだ。


「歩くと遠いですか?」


「時間、かかると思います。田舎だし。歩いたら30分くらいかな? バスに乗ればすぐですけど.......」


「バスはあとどのくらいで来るんでしょう?」


「あと15分です」


「そっか、困ったな」


さっさとどこかに行けばいいのに、男の人はいつまでも停留所の周囲をぐるぐると歩き回る。歩いて行くか、バスに乗るか迷っているみたいだ。


「.......どう考えてもバスを待つ方が良いと思うんだけど」


あまりに決断しないのでつい口を出してしまった。私の小さな声を彼は聞き逃さなかった。随分耳がいいようだ。


「いけない、また優柔不断が出た。そうですね、バスに乗った方が楽で速い。うん」


瞬間移動のような速さで彼は私の正面の椅子に腰掛けた。余計なことを言わなきゃ良かった。せっかく独りで落ち着いていたのに。


彼は時折首を傾げてため息をつく。さっきまでの私のようにお腹をしきりに摩っていた。


「.......どこか悪いんですか?」


あからさまに困っていたので声をかけてみた。


「うん、腹が減って仕方ないんです。何せ昼飯のおにぎりを食べようとしたらカラスにとられてしまって。コンビニを探し回ったけど周りは田んぼだらけだし、携帯の充電は切れるし。行き倒れそうになった時、この停留所を見つけたんです。ようやく光が見えてきました」


ぐーとお腹の音が鳴ると、彼は恥ずかしそうに頭を搔いた。


変わった人。悪い人には見えないが一応距離をとっておこう。


「あの、これ良かったらどうぞ」


鞄からあんぱんを出して渡す。彼はきょとんとした顔であんぱんと私を交互に見た。


「あ、あとこれとこれも」


デザートのゼリーと大嫌いな牛乳もあげてしまう。どうせ食べずに捨てようと思っていたからちょうどいい。


「これ、いつも持ち歩いてるんですか?」


「違います、今日の給食に出たやつです。いりませんか?」


「いえ、ありがたくいただきます」


彼は深深と頭を下げて無我夢中に食べ始めた。よほどお腹が空いていたようだ。


お腹が満たされればコンビニに行く必要もない。食べ終わったら彼はどこかに行って、また1人で落ち着ける。まだ蹴られたお腹が痛いから横になって休みたい。早くいなくなってほしい。



「お腹が痛いんですか?」


はっとして顔を上げる。彼は心配そうに私を見ていた。どうして痛いことがわかったのか不思議だったが、私は無意識のうちに手でお腹をおさえていた。だからわかってしまったのだ。慌ててお腹から手を離す。


「いえ、大丈夫です」


「でも辛そう。もしかしてこれ、給食で食べられなかったやつじゃ?」


「大丈夫ですってば!」


ついに苛立ちは頂点に達した。名前も知らない、今会ったばかりの人に心を覗かれるのが嫌だった。いじめを知ったところでどうせ解決しない。彼が何かをしてくれるわけでもない。


怖いのは、お父さんにいじめのことが知られてしまうことだ。お母さんが死んだ時みたいな悲しい顔はもう、二度と見たくない。


急に視界がぼやけた。目を擦ると手の甲が濡れた。少し温かいそれは涙だった。次から次へとぽろぽろ出てくる。初めて、自分が泣いていることに気づいた。


突然目の前で泣かれた彼は慌てふためく。私がもっと幼かったら、頭を撫でたり子守唄をうたったりすれば簡単に泣き止んでいたはずなのに。どう宥めればいいのかわからない彼を困らせている。


こんなの、ただの八つ当たりなのに。


「気に障ったならごめんなさい、ただ心配だっただけなんです。なんだか君からは痛みと悲しみと怒りが伝わってくるんです。もし良ければ話してください。話しにくかったら独り言でも構いません。僕は静かに寝てますから」


そう言って彼は腕を組んで俯いて寝始めた。正確には寝たふりをしている。なるほど、これで私が喋れば独り言が成立する。


馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、少し気持ちを落ち着かせてから独り言を呟いてみた。


学校で吐いちゃったこと。

男の子達にいじめられていること。

皆が見て見ぬふりをしていること。

お父さんを悲しませたくないこと。

何もかも嫌で、自分を嫌いになってしまったこと。


いっそ他の誰かになってしまえば楽になれるんじゃないかと思っていること。


今、他にバスを待つ客が来なくて良かった。ぶつぶつと自分の悩みを呟く中学生と、下手くそな寝たふりをする男の人がいる不気味な停留所だ。通報されてもおかしくない。


あっという間に15分が経って、予定通りバスが来た。男の人は椅子から立とうとはしなかった。


「乗らないんですか?」


停車して待っていた運転手がドアを開けて尋ねてきた。


「あ、乗らないです。すいません」


男の人がそう言うと、運転手は怪訝そうにしてドアを閉め、バスを発車した。


再び停留所は2人きりになった。もう私は独り言をやめて、気まずい空気の中恐る恐る訊いた。


「私のために残ったんですか?」


「泣いている女の子を置いていけませんよ。ご飯ももらったのに」


「.......ごめんなさい」


「何も謝ることはありませんよ」


「でももう、本当に大丈夫です。今まで声に出して悩み事を言ったことがなかったから、だいぶすっきりしました。また、頑張れますから」


「頑張るというのは、何を?」


「え?」


彼の質問に、口を紡いでしまう。


「いじめに耐えるのを頑張るんですか? 辛いことがあるたびお父さんに元気なふりをするのを頑張るんですか? いつかその努力は報われるんでしょうか。僕には理解できない」


「.......じゃあ、どうしたらいいんですか。先生に言ったら解決する? いじめをやり返したらいじめられなくなる? 何されるかわからなくて怖くて仕方ない気持ちが、あなたにはわからないでしょ!」


「君のようにいじめに苦しむ子をテレビでいっぱい見てきました。SNSでしたっけ。声を出さず指先1つで人を傷つけられる時代なんです。これからもっと酷いことをされるかもしれない。君は今の人生を耐えられますか?」


彼の言うことに間違いはなかった。中学を卒業するまで耐えれる自信は、ない。もしかしたらいじめがどんどんエスカレートして命を落とすかもしれない。いつかあいつらに殺される。嫌だ、死にたくない。


恐怖で身体が震えてきた。他人事だと思っていたいじめが降りかかるなんて。殺されるくらいなら自分で、と考えていること自体が恐ろしい。自分さえ信じられなくなってる。


「.......私を、助けて」


縋る思いをぶつけた相手は、15分前に出会った男の人だった。いっそどこか遠い国まで連れ去ってほしかった。何もかも捨てて、記憶も消して別人として生きていきたい。そのくらい追い詰められている。


「僕が君を助ける方法が1つだけあります」


男の人は、私の膝の上に1枚名刺を置いた。


「人生紹介バンク.......。えっと、口?」


「これはよいのくち、と呼びます。僕の名前です」


宵ノ口。男の人の名前がようやくわかった。でも人生紹介バンクとは何だろう。聞いたことがない。お父さんは知っているだろうか。


「僕は人生紹介株式会社というところで働いているんです。わかりやすく言うと、君という人材を求める人と君を結びつける仲介人です。色んな場所を旅して、この地に辿り着きました」


どうしよう、ちっともわからない。


困っていることが通じたのか、宵ノ口さんは例をあげて説明してくれた。


「あるAちゃんという女の子がいました。不治の病にかかっていてあと数ヶ月しか生きられないAちゃんは、自分がいなくなった後、優しい両親が悲しまないために誰か代わりがいればいいのにと考えます。そんな時、あるところに自分の人生が嫌で別人になりたいと願う女の子、Bちゃんがいました。本来なら出会わなかった2人を引き合せたのは魔法使いでした。Aちゃんは、自分が死んだら自分の居場所をBちゃんに譲ると言いました。でも、Aちゃんを愛する両親が、自分たちの子じゃないBちゃんを愛するはずがありません。Aちゃんの友達も同じでしょう。そこでまた、魔法使いの出番です。Aちゃんの両親と友達、そしてBちゃんとBちゃんがこれまで関わった人達の記憶をまるっきり変えてしまうんです。そうすればBちゃんは初めからAちゃんとして生きていたかのようになります。誰も本物のAちゃんがいなくなってしまったことには気づかず、誰も悲しまずに済みました。おしまい」


あまりに非現実的で幼稚で、まるで児童に読み聞かせるような話。私は馬鹿にされているんじゃないかと眉をひそめた。


「この例で言えば、Aちゃんは君を求める人、Bちゃんは君、魔法使いは僕です。まとめれば、この世界からいなくなった人、これからいなくなる人の空白を埋めるってことなんですよ」


「ことなんですよって.......。人の人生を乗っ取るのと同じじゃないですか。Aちゃんが可哀想すぎる。初めからいなかったことになるなんて」


空想話の登場人物に同情するなんておかしいが、仮に本当の出来事ならあまりにも切ない。いなくなった人や死んだ人はいつか忘れられるにしたって、これじゃ酷すぎる。


「もちろん、Aちゃんが望まなければ成立しない話です。勝手に乗っ取るわけじゃありませんよ」


「でも結局はBちゃん自身がこれまで生きてきた記憶も失われるわけですよね? Aちゃんとして生きてきた嘘の記憶がある、それって、どうなんだろう」


「考えてみてください、Aちゃんを失った両親が悲しみのあまり後を追ってしまったら、AちゃんになれないBちゃんが自分の人生を嘆いて死を選択したら、誰も幸せになりません。嘘でもいいじゃありませんか、皆生きていて幸せになるんだから」


双方の望みが叶い、利益になる。それでももやもやは消えなかった。Aちゃんを覚えている人はいなくて、生きた証もない。それじゃ何のために生まれたのだろう。


宵ノ口さんはビジネスバッグからタブレットを出して操作した。表示した画面を見せてくる。


「僕が君を助ける方法です」


そこには目がくりっとしてほっそりとした顔の、可愛い女の子が映っていた。


「不治の病にかかっていてあと数十日しか生きられない女の子です」


宵ノ口さんが言う前に、画面を見た時から何となくわかっていた。


例え話なんかじゃなかった。彼は、これから起こるであろう未来の話をしていたのだ。


「この子は自分がいなくなった後の、空白を埋める女の子を求めています。Bちゃんとして、この子に会ってみませんか?」


吸い込まれそうなほど綺麗な目は、私の人生を心の底から心配しているように見えた。


私がこの子になったら、お父さんは私のことを忘れてしまう。けど、私のためにあんなに働かなくていいし、いじめを知って悲しまなくて済む。


私がいない方が、きっとお父さんも幸せになる。どこかの女の人と再婚して、新しい家族と暮らせば、寂しくないはずだ。


そうか、これは私のためでもありお父さんのためでもあり、この画面の女の子のためでもあるのか。


変なの。さっきまで嫌悪していたのに、今は誰かを救えるなら良いかなって開き直っている。


ひょっとしたら宵ノ口さんは本物の魔法使いなんじゃないかと思った。きっと魔法を使って、私を頷かせたに違いないんだ。







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