第16話 あ、ママだ
曇り空の下。ツムギちゃんを見送って元来た廊下を辿る。
解代くんは早朝に出発した。近々大きめな軍事作戦が行われるらしく招集の頻度が上がっている。解代くんと戦場を駆ける日もそう遠くないだろう。
二人で施設を後にすると、ツムギちゃんを世話する人がいなくなる。今までは解代くんがいない時は私が、私がいない時は解代くんが残れるように計らってもらっていた。
特殊なケースではそれも難しい。私の本業はあくまでも軍人だ。軍務は子守より優先順位が高い。
友人に頼む手は信頼性に欠ける。先日レオスとの一件があったばかりだ。同僚が観客に甘んじたところを目の当たりにした以上、安心してツムギちゃんを任せられる人はいない。ツムギちゃんを一人残すことは気掛かりだし、三人で暮らすにあたっての懸念事項は多い。
そんな現状を踏まえても最近は楽しい。戦って死ぬだけだと思っていた人生に、新たな選択肢を付加されたような感覚だ。以前とは死に対する考え方がガラリと変わった。
料理に対する向き合い方も変わった。誰かに料理を振る舞って美味しいと言われる。たったそれだけのことで、あんなに温かい気持ちになれるとは思わなかった。今日は何を作ろう。二人は喜んでくれるだろうか。気が付けばそんなことを考える。
別のことも、考える。
「なかなか思い出さないなぁ、解代くん」
私達は数年前に会っている。まだ私に戦う力がなかった頃のことだ。無人兵器に見つかった年少の子を助けるために、私は自ら囮を買って出た。危うく射殺されかけた時に駆け付けたのが解代くんだ。
当時の彼は使命に燃えていた。人のために小さな体で奔走していた。
その背中を見て、私が進むべき道はこれだと確信した。軍人への道を志願し、訓練に励んで今の私がある。ここに転属されて再会した時には運命すら感じた。二人で人類の未来を切り拓いていける、そう信じて疑わなかった。
だけど目指した背中は堕落していた。訓練では手を抜く。仲間とは連携も取らない。私はサボりを見兼ねて訓練を抜け出し、上官命令を装って解代くんを連れ戻そうとした。
思わず失笑する。中庭で昼寝したことを思い出した。
あの日、解代くんが行使できる特権は残り一回と聞いていた。解代くんの
私が寝落ちした原因は不眠にある。無人兵器を鉄屑に変えるだけの空虚な人生。それに対する不安と悲観が安眠を妨げていた。化粧道具で目の下のくまは隠していたものの、お試し感覚で横になったのが運の尽きだった。ぽかぽかした天然のカーペットが心地よくて、睡魔に誘われるがまま眠りに落ちた。
起こしてくれなかった解代くんには遺憾の意を示したけど、私が昼寝をしなければ解代くんが罰則を受けることはなかった。私一人罰則から逃れるのは違うと思って解代くんの懲罰に付き合った。その際に発見した小屋でツムギちゃんを見つけて、珍妙にして奇怪な家族生活が始まった。
共同生活が始まってからも色んなことがあった。ツムギちゃんの親代わりを努めて、慣れない子育てに翻弄された。少しでも目を離せば、次の瞬間にはてててと走っている。そのことで上官に叱られたこともある。あの時ほど上官を理不尽に思ったことはない。
そんな生活にも慣れた。ツムギちゃんと仲良くなったし、解代くんが変わってしまった経緯も知った。今朝出発する時の表情は、心なしかすっきりしていたように思う。
人間関係に絶望したままなら、解代くんは頑なに口を閉ざしていたはずだ。共同生活を経て、彼の中でも何かが変わったのだろう。その助けになれたのなら嬉しい。
今の生活に不満はない。
不満はないけど物足りない。自室は別にあるとはいえ、男女が同じルームにいるんだ。夫婦の真似事じゃなくてもっとこう、何かがあるべきじゃないだろうか。そう。例えば中庭で起きた、ちょっとえっちなハプニングのような。
「な、何を考えているの私⁉」
ブンブンと頭を振る。花が咲きそうになった思考を中断し、不意に抱きしめられた時の感触を頭の中から振り落とす。
共同生活はあくまで任務、仕事だ。それ以上でもそれ以下でもない。解代くんに興味こそあれ、それは恋愛感情ではなかったはずだ。
それなら今は? そう問われたら正確に答えられる自信がない。嫌われてはいないと思うけど、好かれているかどうかまでは分からない。何せお昼寝を邪魔したし、枕を投げたし、思い出したくもないことをしゃべらせた。敬遠されそうなことはしても、好意を向けられる行動をした覚えはない。
解代くんは、私のことをどう思ってるのかな。
「あ、ママだ」
「え?」
足を止める。私をそう呼ぶのは二人しかいないけど、その二人は施設を後にしている。こんな所にいるわけがない。
反射的に振り向いた先で、廊下に二人組と目が合った。外見からして歳は近い。二人からママと呼ばれる筋合いはない。
そんな道理は、二人が浮かべる表情の前に消し飛んだ。
「……あ」
頭の中が真っ白になった。体が金縛りにあったように動かない。
二人組は嗤っていた。笑うじゃなく、嗤う。まぎれもなく私を対象にして嘲り笑っている。
二人だけじゃない。周囲を見渡せば、男女問わず私を見てコソコソとつぶやいている。さながら動物園で飼育されている動物を見るように、粘っこい視線をぶつけてくる。
「……いやっ」
悲鳴じみた声が口を突いた。実際に悲鳴だったのかもしれない。首筋を舐められたような生理的嫌悪感に頭の中を蹂躙された。
足が下がる。呼吸が乱れる。強烈な疎外感と羞恥に耐えかねて、私は逃げるように廊下を走った。
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