ソの間

芦屋奏多

第1小節

 天音は音楽室のピアノを叩くように弾いてた。


 執拗にソの音を叩く。弦は千切れそうな金切り声を出し、それでも満足がいかないのか、天音はピアノの鍵盤を叩く。


「違う! 違う! 違う!」


 独り言のように呟く。苛立ちを露わにしながら、鍵盤を拳で叩いた。


「こんな音じゃない! こんな音じゃない!」


 天音は叫んだ。ピアノは軋み、ハンマーが何度も振り下ろされる。隣で椅子に座り、しとやかに見ていた灯里が声をかける。


「そうだね。天音ちゃんの望んでる音はそれじゃないよね」


 苛立っている天音にその言葉が刺さったのか、少しだけ口元を緩める。


「灯里は私の事は何でもお見通しみたいだな」


「一番近くで見てるんだもん。わかるよ、それくらい」


 灯里が笑うと、天音も笑った。

 先ほどまでの執拗な鍵盤の叫び声が嘘のように凪いだ。

 音楽室には天音と灯里と、ピアノだけがあった。

 二人にはそれだけで十分だった。


「じゃあ、今度は私が探そうかな」


 灯里は椅子から立ち上がり、天音の座っているピアノの近くに寄る。天音は席を譲り、灯里が座っていた椅子に腰かける。


 灯里はセミロングの髪を靡かせながら、ピアノに立ち向かう。一対一の真剣勝負のように、緊張感が漂い、灯里は指を柔らかく滑らせた。


 指先が滑らかに鍵盤の上を走る。オクターブを数瞬で駆け上り、また同じ瞬間を辿り戻ってくる。


 狂う事も迷う事もないタッチが音楽室を満たす。


 華やかに色づく音が満ちていく。


 曲の中盤が終わり、曲の終盤に差し掛かるところで、灯里は指を止めた。


「違うー。うー、これだと、ただの音になっちゃう」


 灯里はピアノにもたれかかる。子供のように、駄々をこねるように、うなだれピアノに体を預ける。天音はその様子を見て笑った。


「灯里は指は速いけど、音がね。上手いだけになっちゃうんだよ」


「うーん……。天音ちゃんはどうしたら良いと思う?」


 灯里の問いかけに、天音は考え込む。腕を組んで、右手を顎に当てる。まるで、探偵が推理をしているかのように、凛としている。背筋は伸び、腰まである黒髪が天音の強さを象徴している。

 やがて推理は終わり、解を導き出す。


「灯里の場合、ピアノじゃないのかも。興味とか関心とか、音楽を底から押し上げるような、刺激……? とかが必要なんじゃないかな。もっとも、私自身はピアノと向き合わなきゃいけないんだけどな」


「だよねー。天音ちゃんは練習不足だからねー」


「そっちに対しての同調なんだな。まあ、その通りなんだけど」


 灯里は少女がくすぐられたように、口元に両手を当てて笑った。くすくすと笑うその姿に、天音もつられる。


「灯里は、身体でわかってるんだろうな。私には足りないものだ」


 天音は納得しているが、悔しい気持ちは隠せない。天音に足りないものを、灯里は十二分に持っている。その事実に嫉妬している自分に、苛立ちが沸々と湧いてくる。


 天音はどうして私には力がないのだろう、と奥底に眠る感情が肌にひしひしと感じていた。


 灯里は、無垢な笑みを浮かべ、天音に話しかける。


「ピアノって音楽だけど、音楽じゃないよね。何て言うんだろう……。芸術? みたいな?」


「音楽は立派な芸術行動だろう。寧ろ芸術じゃなければ何なんだ?」


 灯里の発言に天音は思わず問い返す。灯里の発言に天音はいつも困惑する。

 悪いわけではないのだが、悪気がない。

 けれど悪い事を言っているわけでもない。

 矛盾するようで、矛盾しない言動に、天音は慣れつつあった。それほどまでに、天音と灯里の関係は深くなっている。


「芸術行動かー。私にはまだそこまで自信が持てないからなー。でも、天音ちゃんは自分の音を持っているから、正直羨ましいんだー」


 素っ頓狂に語尾を伸ばす。


「私から見たら、灯里の方が羨ましんだが」


「えー、そんな事ないよー」


 天音は肩に溜め込んだ息を落とす。深く深く、呼吸をした。落ち着けるように、ただ深く息をした。


 嫉妬は時限爆弾だ、と天音は常日頃感じていた。

 思いが溢れ溢れて、少しずつ大きくなっていく。肥大していく感情がやがて誰かを、もしくは自分を傷つける。


 それを天音自身がよくわかっていた。


 灯里と一緒に過ごし、灯里のピアノを聴くことが、何よりも屈辱に繋がるような、嫉妬の連続であるのを知っている。


 けれど、天音は明里を突き放すことは出来ないでいる。


 天音には灯里が必要であり、灯里にも天音の存在はかけがえのないものであった。


 この音楽室の中では、四つの音が生まれる。


 天音の正直であり嫉妬の混ざった声、灯里の天真爛漫で傷つける事を厭わない声、天音の生み出す拙いながらも何かを必死に追いかけるようなピアノ、灯里の超絶技巧のピアノ。


 けれど灯里は満足などしていない。


 そこは天音も同じだった。


 二人の間には友情や恋情や愛情のように、はっきりしたものはない。


 探し物を一緒に探す。


 お互いを高める。


 利害だけではないが、利害が確かに存在する。


 そしてそれをお互いが認め、口には出さずともわかっている事だった。


 空が橙に染まり、校庭から部活動を終えた生徒が帰っていく声が聞こえた。


「ああ、もう四時半か……。私はもう少し練習するけど、灯里はどうするんだ?」


 灯里は時計を確認して、鞄の中から取り出したピンク色の手帳を開く。


 リボンが二つついている。天音はこのリボンの手帳を選ぶ事はないだろう。


「うーん。そうだなー、今日は帰ろうかなー」


 ボールペンで何かを書き込みながら、灯里は言う。


「何か用事でもあるのか?」


「へへー。ちょっとデートの約束がねー」


 灯里がおどけると、天音は言う。


「また、架空の彼氏か?」


 天音は黒く艶やかなグランドピアノを撫でる。


「それはお互い様でしょ?」


「そうだな。私も灯里もこれが恋人みたいなものだからな」


 夕暮れの音楽室は、天音と灯里と、ピアノだけがいた。


 灯里は帰り支度を整える。


 その間に流れるピアノは、天音のピアノに対する恋情の旋律だった。

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