奇跡の星

むぎなが

奇跡の星



〈どうやら、全ての後悔をやり直すチャンスを頂けたらしい。ああ、有り難い〉





 2008年12月、地面に投げ出されてボロボロになったスライド式のガラケーで、事故から約5日後、当時同級生の間で流行っていた個人ブログの冒頭に、私はこう記した。あれから14年が経つ。もう事故後の世界を、事故の前と同じくらい生きたことになる。



 頸椎骨折、頸髄損傷、全身打撲、頭部裂傷が私についた診断名だった。当時16歳だった私は、通っていた高校からの帰り道に、自転車ごとバイクにはねられたのだ。

 体への直接の衝突ではなかったものの、漕いでいた自転車の後輪への衝撃は凄まじいものだった。肩から下げて荷台に載せていたナイキのスポーツバッグの肩紐が首にかかり、首を起点とした凄まじい遠心力がそのまま、私の体を冬の冷たいアスファルトへと叩きつけたのだ。





 最初に目覚めた時、そこはテレビドラマで見るようなギラギラとした照明のある真っ白な天井で、強烈に眩しかった。そして耳元からは男性の声がしたことを覚えている。

「耳、切れてるから縫ってるよ」



耳なんかどうでもいい!

全身、死ぬほど痛い!



 そう喚きたいのに、呻き声を出すのが精一杯で、なんとか喉の奥から「…お願いします…」と言葉を絞り出すと、それ以上はもう、目を開けていることもできなかった。


 体全部が剥き出しになった神経のようで、その時に唯一自らが制御できた瞼も、まばたきの風圧で揺れた上のまつ毛が下瞼に触れるだけで激痛で、全身の毛穴の数が数えられるんじゃないかと感じるほどに、身体中の知覚が過敏になっていたのだ。



 この時、私が頸椎を2本も骨折していることや頸髄を損傷していることには、医師でさえ気付いていなかった。指先や足先までおおよそ神経が通り、自発的に呼吸をし、か細いながらも声を出すことができる人間が、損傷すれば即死の可能性も高い延髄付近を骨折しているなどとは思わなかったのだろう。

 翌日転院した病院で、両親は専門医からこう告げられたらしい。



「あと1ミリ状況が違えば、お嬢さん、死んでましたよ」





 千切れた耳をチクチクと縫われながら全身を襲う激痛と闘ったが、これ以上は意識を保ったままではいられない、と体の防衛本能が働いたのだろう。ああ、気絶するな、ということをはっきりと自覚しながら、薄れ行く意識の中で、私の千切れた耳にはスーパーマリオが土管に入っていく音が聞こえた。


 死んでしまいそうな状況で、今思い返しても本当におかしいし、ちょっと笑える。しかし、そうしてやっと、私はこの状況が腑に落ちたのだ。ああ、そうか、今までとはコースが変わったのだ…と。





 夢を見た。



 四畳半の部屋に詰め込まれたロフトベッドと、蓋にうっすらと埃を被った電子ピアノ。足先が凍えるように冷たいのは、外が白み始めた冬の早朝だからだろう。

 そこは団地の中の一室、見慣れた自分の部屋の中だった。



 デスクライトのない薄暗いロフトベッドの下に備え付けられた机の上に転がる、赤い表紙の数学の問題集。

 消しゴムのカスが散らばったままの大学ノートに書きかけた数式は途中で途切れており、どうやら私は、どこかで解き方を間違えているらしい。


 夢の中の私は気怠そうに机に肘をついたまま、間違いをろくに探そうともせずに、右手にびっしりとついた黒い鉛筆汚ればかりを気にしている。



 手なんか、後で洗えばいいじゃないか。



 しかし、そんな思いとは裏腹に、私の声なんて届いていないかのように、私の体は手遊びをやめない。



 夢の中の私の体が考えている事も、私には手に取るように分かった。


 数学のテストは明々後日、まだ日にちはある。問題集の提出期限もまだ先、今日やらなくても大丈夫、まだ間に合う。そんなことより、汚れた右手が気になる。部活の練習着はさっき準備した。今日は荷物が多い。朝練だるい、眠い、サボりたい、けどそんな勇気はない。問題は途中だけど、まあ大丈夫。まだ時間はある。もう今日はしんどい、無理。明日じっくり、やればいい…








お前にその明日は、来ないんだよ!!!!!








 叫んでも、叫んでも、夢の中の私はそれに気付かない。


 夢の中の私は疑ってもいないのだ。明々後日の数学のテストを、今日の続きのような明日がまた、同じようにやってくることを…。





 目が覚めると、私は泣いていた。


 朝なのか、夜なのか、分からない。しかし、涙でふにゃふにゃにぼやけた視界に映る見慣れない天井はカーテンで仕切られており、そこが病室の一角であることはすぐに分かった。



 頬を流れる涙の圧で、顔中が死ぬほど痛む。

 自分の涙で溺れそうになって反射的に右手で鼻を擦ると、鼻を触ったはずなのに、全身がビリビリして焼けるように痛んだ。けれど右腕は動いた。


 右手の皮膚も、骨も、肉も、血管も、全部がこのまま死んでしまうのではないかというほどに痛い。でも動く。恐る恐る足の指を曲げてみる。反動で衣擦れが起こる。激痛だ。でも動く。足の指が足についているのが分かる。あまりの激痛に思わず口元の筋肉が動く。乾いた唇にくっついてくるかのように舌が動く。口を動かしたのに頭皮が引き攣るように痛む。

 


 痛い。痛い。痛い、でも動く。死んでない、死んでない……生きてる!




 涙が両目から溢れるたびに全身が痛んで、お前は生きているよ、と、これでもかというほど体中が私に教えてくれた。


 涙腺から、ボロボロと涙が生まれる瞬間の数を数えながら、私は全ての後悔をやり直せるチャンスを得たことを理解した。

 痛いからじゃない。これまでの自分への悔やんでも悔やみきれない思いと、安堵と、感謝の涙だった。


 痛くても、痛くても、痛くても、死んでない。苦しくても、つらくても、生きている。だから明日が来るのだ。今日の続きではない、新しい明日が。





 山手線は終わらないメリーゴーランドのように、各々のイヤホンの中のBGMに合わせて、私たちを運んでいる。


 3日ぶりの出社で怠けた体は、久しぶりの人混みに少々驚いているようだ。


 すし詰めの車内で一緒に電車に揺られている人々の表情はマスクで隠れてしまっていてほとんど分からないが、混み合った車内に漂う20時の空気は、それぞれの疲れを包み込むように生暖かく、しっとりとしていて、不思議と不快だとは感じなかった。



 吊り革に右手で掴まりながら、目の前の座席に座る男性の頭越しにぼんやりと窓の向こうに目をやると、高層ビルやネオン街に宿る幾つもの光の粒々が、まるで星空のように瞬いているのが見えた。



 車内の照明に反射して、今度は不意に、窓ガラスに映る自分と目が合った。


 窓ガラスに映る私は、明日の朝イチの会議が今から憂鬱で、車内にいる他の人々と同じように今日の疲れを引きずっている、どこにでもいる年相応の30歳だ。





 あの日損傷した頸髄から、嘘のようにその損傷箇所が消えてしまったのは、何度目のMRIだっただろうか。



 私が死ななかったのには、きっと意味がある。生きてやらなければいけないことが、きっとある。そう信じて、自分が何か特別な存在だと思い込んで、あの日から、目の前の今日をやりきるようにして生きてきた。



 なんだか随分と遠くまで来たような気がするが、あの日新しくやってきた明日は、ありふれた、何の変哲もない、山手線内回り、6両目の車両へと繋がったのだ。





「ありふれた、」

「何の変哲もない、」




 果たして本当にそうだろうか?



 大怪我によって骨格のバランスが崩れた為だろう。今でも体中の関節がギシギシと軋んで痛む。

 首周りには、常に何かがまとわりついているかのような知覚の違和感があって、体の中の一部の箇所は熱さや冷たさを感じる力が鈍く、熱い湯船に浸かっても、そこだけは温度を感じ取れない。


 けれど手も足も、元のようにはいかないけれど首も、生きていくのには十分すぎるほどに動いてくれる。



 一命を取り留めた後、長期間入院した私の退院後すぐ、休日返上でクラス担任の先生が補講をしてくれたから、高校を留年せずにすんだ。


 事故での大怪我が原因で、幼い頃からの将来の夢が叶わなくなって初めて本当に学びたいと思える学問ができたから、自暴自棄になるのをやめた。


 そうやって選んだ大学で世界が広がって、幼い頃は想像もしていなかった仕事に就いた。


 仕事を通じて一生出会えなかったであろう人たちと出会い、地元を出て、日本全国を飛び回って、そして東京に辿り着いた。



 楽しいことも、苦しいことも経験した。そしていつも、どんな時でも、友人や家族がそばにいてくれて、私を支え続けてくれたのだ。


 自惚かもしれないが、そんな奇跡の連続から生まれた「ありふれた」自分自身が特別ではないなどと、私には到底思えない。

 

 そして、そんな奇跡の連なりは私だけではなく、この車両の中の人々や、今を生きる全ての人々に平等に訪れていることを私は知っている。だから、この世界は儚くて、何にも変えられないほど尊いのだ。





 山手線の窓の向こう側の、まるで星空のように夜の闇に浮かぶ灯の一つ一つが、そこで誰かが生きている証なのだと思う。

 

 30歳の私は今、この奇跡のような星空の中の星の一つとして、この時を、瞬いているのだ。



〈了〉


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