第84話 溢れる感情


 ダヴィード国王も騎士達も、フィグネリア達の乗ってきた質素な馬車も全ていなくなったその場所に、シオンはしばらく佇んでいた。



「ノア? 大丈夫か?」


「リュシアン様……」


「部屋に戻ろう。ここは寒いだろう? 部屋に戻って温かいお茶でも飲もう」


「はい……」



 気落ちしているような状態のシオンの背中を支えながら部屋へ戻って行く。

 実は先程の状況を遠目でジョエルとメリエルは見ていて、二人はシオンをとても心配していた。


 部屋に戻って着替えを済ませた後、メリエルはお茶とシオンの好きなショートケーキを用意した。

 リュシアンも着替えを済ませてシオンの部屋を訪れた。リュシアンが目配せをすると、メリエルはそっと部屋から出て行く。



「ノア、少しは落ち着いたか?」


「はい……」


「そんなふうには見えない。何か思うことがあれば教えて欲しい」


「少しずつ……」


「え?」


「あの人と話しをしていた時に、少しずつシオンの時の思いが蘇ってきて……」


「そうなのか?!」


「私……ずっとあの人が怖くて、きっとノアでいた時よりももっと怖かったと思うの……自分には価値がないって、早く死ねって言われ続けて罵られていて、なんの役にもたたないクズだって……」


「それは違う! ノアは、シオンはそうじゃない!」


「それは分かってるんだけど、あの時はそう思えなくて自信がなくて、あの人の言う事が全て本当の事のように思えてて……でも、あの人の事が成長出来ていない未熟な子供みたいだって思ったら、怖いって言うより、何だか憐れに思えてきて……」


「なら良かったじゃないか。フィグネリアの事はもう気にしなくても良くなったんだ。これからは何にも縛られる事はない」


「うん。そうだよね。そうなんだけど……それでも受けてきた事はずっと残り続けてて、その時の悲しい気持ちとか苦しい思いとか、それは消えて無くなる訳じゃなくて……」


「そう、だな……むしろ耐えてきた日々がノアの、シオンの力になっているんじゃないかな。トラウマのようになっているのも分かる。しかし、あのフィグネリアの執拗な暴力と暴言に耐えてきた自分達だから、これからきっと何があっても頑張っていける。僕はそう思うんだ」


「うん……ただ、なんだろう……何だか上手く言えないんだけど、私、ずっと何も言えなくて、ずっと我慢してきてて、それを仕方がないって思ってて、なかなかリュシアン様にも分かって貰えなくて……」


「うん、ノア……いや、シオン、思ってる事全部言っていいから」


「私……私……」


「うん」


「ずっと怖かったの! でも頑張ったの! リュシアン様に嫌われても仕方がないって思いながら、でも本当は辛かったの! 分かって欲しかったの! 悲しい気持ちにいっぱいなったし、苦しい気持ちにもなったし、こんな自分の気持ちに気付いてって、ずっとずっと心の中で叫んでたの!」


「そうだな。シオン、気付いてやれなくてすまなかった……!」


「もうあの人の事は気にしない、けど、頑張ってきた自分が無意味だった感じもして、なんかよく分からなくて……っ!」



 リュシアンは思わずシオンを抱き寄せた。シオンは何も悪くない。ただフィグネリアに翻弄され続けていた事がシオンを作り上げてしまっていた。その元凶が無くなった今、どうすれば良いのか不意に不安になったのだ。

 

 良くも悪くも、自分を取り巻く環境、自分を作り上げた環境が大きく欠落した状態となって、それにシオン自身が戸惑ってしまっていたのだ。



「シオン、ゆっくりでいい。これからの事を考えていこう。もうシオンは一人じゃない。ここはシオンの敵となる者は誰もいない。これからは思っていること、感じたこと、何でも言っていい。嫌なことも、嬉しいことも、悲しいことも楽しいことも、思っているだけじゃなくて、全部言って欲しいんだ。私が受け止める。シオンの全てが知りたいし、知っていきたい。もう一人で泣いて欲しくはないんだ」


「うん……うん……」


「私達は家族だ。夫婦なんだ。だから寄り添っていきたい。分かり合いたいし分かち合いたい」


「うん……」


「ずっと傍にいる。これからもシオンを守り続ける。だからこれからも私と共にいて欲しい」


「ふふ……」


「シオン? あれ、何かおかしな事、言ったかな?」


「ううん。そうじゃなくて、リュシアン様、リアムの時の話し方と変わってきてたから。私の事をシオンって呼ぶし。私もどっちが本当なのか、よく分からなくなっちゃって」


「そうだな。リュシアンとしての生の方が長くなったからな」


「そうだね。私はノアだったけど、シオンだもの。シオンとして生きて頑張ってきたもの。それを無くしたくない」


「それは当然だ。私もリアムであったけれど、今はリュシアンだ。だから……」


「うん、リュシアン様」


なんて必要ない。どうかリュシアンと呼んでくれないか」


「リュシアン……」


「シオン、そうか、やっと思い出せたんだな」


「思い出したと言うのとは少し違うかも」


「それはどういう事だ?」


「その時々の感情がね、蘇ってきたって感じなの。あの人と話してて、怖かったとか、悲しかったとか、お腹すいたとか、痛かったとか……あとね、リュシアンに助けて欲しいって。でもそれは言えないから、頑張らなくちゃって。私がリュシアンを守るからって。そんな思いが溢れてきたの」


「シオン……」


「でも、何よりね、ずっとずっと……」


「あぁ」


「会いたかった……ずっと会いたくて焦がれてたまらなかったの」


「シオン、それは私もだ」



 ようやく全てのわだかまりが無くなったように、二人は強く抱き締め合った。


 どちらともなく瞳を合わせ、自然と唇は重なっていく。


 今まで離れていた時間を補うように、自分達の存在を確認するように、二人は唇を重ね続けた。

 知らずにシオンから流れてくる涙を、リュシアンは唇で拭っていく。頬にも、額にも、シオンの全てが愛おしく感じて口づけてしまう。



「息、出来ちゃうもんなんだね……」


「慣れれば、な」


「リュシアンは慣れてるの?」


「そんな訳ない! シオンが初めてだ!」


「良かった……あ、私も初めて、だからね?」


「分かってる。そんな事は聞かなくても分かるよ」


「ふふ……そう?」


「シオン……」


「うん?」


「まだ叶っていない願いがあったんだ。それは私がすべき事だった」


「叶っていない願い?」



 リュシアンはニッコリ笑うと、もう一度シオンに口付けた。


 



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