第60話 決意
夕暮れが空に美しい橙を映し出し、優しく月が輝き出した頃。
シオンは別邸にある自室で一人、意を決すように佇んでいた。
本当は怖い。怖くて怖くて仕方がない。
ルマの街にはあの疫病が蔓延していき、きっとすぐに多くの人達の命を奪ってゆく。
だから一刻も早い方がいい。分かっている。分かっているのに思うように体が動かない。
ノアの時のように、魔力を領全体に行き届かせるように放出すれば良い。もしくは女神像に魔力を全て捧げるか……
でもそうしたら?
あの街に蔓延る疫病に、シオンは感染してしまうかも知れない。そうなったらきっと助からない。自分の魔力は、治癒能力は、自分の身体には効かないのだから。
だけど、自分一人の命で多くの人の命が救えるなら?
であれば、そうするべきだ。そうしなければならない。
シオンは自分を奮い立たせるように、何度も何度もそう言い聞かせる。
行く前にジョエルの怪我も傷痕も全て完治させよう。もう会えないかも知れない。でもさよならは言いたくない。
リュシアンにも、きっともう会えない。
不甲斐ない伴侶だったと怒ってくれていい。逃げ出して実家に帰ったと思ってくれていい。自分じゃなく、メリエルのような明るくて元気で素敵な女の子と一緒になってくれてもいい。
だからどうか……
どうか幸せに……
少しでも覚えていてくれますように。こんなヤツがいたって、時々で良いから思い出してくれますように。
最後に一目会いたかった。だけどそうしたら決心は鈍ってしまうかも知れない。
だから行かないと。
大きく深呼吸をして、弱い自分に打ち勝つために、何度も何度も自分を鼓舞するように言い聞かせ、シオンは意を決する。
部屋を出て隣にあるジョエルの部屋へ行こうとしたところで、メリエルがワゴンを押してこちらに来ているのが見えた。
「あ、奥様。フルーツをお持ちしたんです。さっき昼食をあまり召し上がれてなかったので。あ、でも食べ過ぎはダメですよ? 夕食が食べられなくなりますからね」
「メリエル……」
いつもの調子のメリエルに、シオンはなんだかホッとした。メリエルもクレメンティナに襲われ、ジョエルが刺された事に少なからずショックを受けている筈なのに、同じ様に落ち込んでいてはいけないと、シオンを元気づける為にも明るく振る舞っているのだ。
「どちらで召し上がられますか? ジョエルさんのお部屋になさいますか?」
「そうね。そうしてちょうだい」
「はい!」
ジョエルの部屋に入ると、メリエルはテーブルに食べやすいように一口程にカットされたフルーツを並べていく。この気遣いが有り難かった。ここでの生活を豊かにしてくれたのは、メリエルの力も大きかった。
「いつもありがとう、メリエル」
「なんですか? 改まって。私は奥様の専属侍女なんですよ? このくらい、当然の事じゃないですか」
「ふふ……そうね。そうね……」
「……奥様?」
「なぁに?」
「あ、……何だか少し気になって……いえ、なんでもありません!」
「そう? あ、夕食もここで頂くわ。お腹空いちゃったし、早めに用意して貰えるかしら?」
「えぇ、もちろんです! ではご用意出来るまで、少々お待ちくださいね!」
「えぇ……お願いね」
メリエルは元気よく部屋から出て行った。
フゥとひと息、それからジョエルの側に行き手を握る。
「ごめんね、ジョエル。魔法、使っちゃうね。綺麗な身体になって、ダニエルの元に嫁いでね。絶対に幸せになってね。大好きよ。わたくしのかけがえのないただ一人の親友……」
祈るように目を閉じると、淡い緑色の光が眩しく光り輝き、ジョエルの全てを包み込んだ。
その光が少しずつ小さくなって、やがて全てジョエルの中へと収まっていく。
眠っているジョエルの頭を優しく撫でて、それからシオンはゆっくりと部屋を出た。
一方その頃リュシアンは、ルマの街に発生したと言われている疫病が、現在どこまで広がっているのかの調査の報告を待っていた。
ルマの街を完全に封鎖し、被害がどれ程及んでいるのかを確認、対処し指示しなければならず、近隣の街や村の現状も報告を受けながら報告待ちをしていて、慌ただしく思考を回転させていた。
しかしなぜまた突然あの疫病が……
疫病の事を考えると、ノアの事を思い出してしまう。
狩猟大会の時に貰ったあの御守りは、あれから常にリュシアンの胸ポケットに収められていて、ノアを思う時は無意識にそれを取り出し眺めるのが癖になっていた。そして今、それは手の中にあった。
対応に追われつつも、気になるのはシオンの事で、足は自然とシオンの部屋へと向かっていた。そこでメリエルと会った。
「アイブラー嬢、シオンの様子はどうだ?」
「はい、今も奥様は別邸におられます。夕食をそちらで摂られるとの事で、準備をしに戻ってきたんです。奥様はまだ気落ちされている状態でした」
「そうか……」
「ジョエルさんが怪我してしまったのが悲しかったんでしょうけど、なんだか……ちょっと様子が可怪しく感じたんです……」
「様子が可怪しい? どんなふうにだ?」
「なんでしょう……どう言えば良いのか分からないんですが、何かを覚悟されたような感じ、とでも言うんですかね……なにかいつもと違う感じがして……あ、でも気のせいですかね?! 申し訳ありません! 気にしないでください!」
「いや、シオンの事ならなんでも聞いておきたい。そうか。後で行ってみるよ」
「是非! あ、その御守り……!」
「ん? あぁ、君から貰った御守りが気に入ってるんだ。疲れた時につい手に取ってしまう程にね」
「え? 違いますよ? それ、奥様が作られたんですよ?」
「……なに?」
「申し訳ありません! そう言えば私、ちゃんと言えてなかったですね! その御守り、右利きの奥様が左手で時間をかけて一生懸命刺繍された物だったんです! 何度も何度も針で指を刺しながら、寝る間も惜しんで作られた物だったんです!」
「これを、シオンが、か?!」
「はい! その刺繍にあるゴールドドラゴンは公爵様の憧れだからって、そう言われてましたよ!」
「……っ!」
すぐにリュシアンは走り出した。
メリエルじゃない。シオンがノアだったんじゃないだろうか?! この魔力、この刺繍、これはノアのモノだった筈だ。
いや、決めつけるな。まだ分からない。だから聞こう。ちゃんと確認しよう。
あぁ、だけど……!
もしそうなら、シオン、君はなんて酷い運命にあったんだ。
フィグネリアの元に生まれ、冷遇され、ずっと恐ろしい思いを耐え抜いて生きてきたんだね。
だけどもう大丈夫だ。
大丈夫だから。
ノアであってもそうでなくても、シオン。今度こそ君を離さないから……!
別邸への距離が遠く感じて仕方がないリュシアンは、全速力で走りながら心の中でシオンに訴えるようにそう叫び続ける。
やっとたどり着いたそのとき。
シオンは光に包まれていた。
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