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 オートロックを解除して中に入ると、エレベーターの前に咲子さんが立っている。降りてくるのを待っているらしく、近づく私には気がつかない。

「もう仕事終わったの?」

 話しかけると、ピクンと肩が跳ねて、スマホに落としていた目が上がる。

 今日、うちに来るという連絡はもらっていたけれど、学校帰りで時間が被るとは思わなかった。軽く買い物なんかもしてきたから、もうすっかり夕方ではあるけれど。

「今ラインしようと思ってた」

 ちゃんと片付けてる?と笑う咲子さんに、私は曖昧にはにかむ。散らかってはいない。けれど、そもそも物があんまり無いのを、片付いていると言っていいものか。



「ね、寒くなる前にさ、コタツとか買っちゃおうか」

 私の用意した晩ご飯を食べながら、咲子さんは部屋を見回す。1DKの、そんなに広くはない間取りだけれど、ところどころスペースが余っている。最低限の寝食に使う物以外は、本棚とパソコンくらいしか置いていない。

「むかし、一人暮らしの友だちの部屋にあったんだよね、コタツ。いいもんだよ、あれは。QOL上がると思う」

「QOL?」

「あれ、今もう言わない? クオリティー・オブ・ライフ」

 そんな話をしながら、スプーンを口に運んで、上手くなったね、と言ってくれる。嬉しいけれど、まだまだだ。咲子さんの料理には及ばない。

 この部屋は咲子さんが借りてくれている。家具や食器、家電なんかも、咲子さんに連れられてお店を回り、揃えてもらった。

「初めてうちの会社で働く恩恵受けたかも」

 賃貸の契約を結んだ帰り道、咲子さんはそう言って笑った。

 私はあんまり考えていなかったのだけれど、受験前の高校生を一人で住まわせるなんて、なかなか承諾を得られることじゃないらしい。そこの信用を勝ち取れたのは、咲子さんの勤め先が名の知れた大企業だったからだ。咲子さんが定期的に様子を見に来ることを条件に、大家さんは私が住むのを許可してくれた。

 咲子さんが自分の会社を全然好きじゃないことは知っている。だからこそ、ありがたかったし、申しわけなくもあった。咲子さんはいいと言ってくれているけれど、かかったお金は将来必ず返そうと思う。借りたお金だからどうこうではなく、そうしたいから。

「お父さんは、元気にしてる?」

 食事を終えた食器を片しながら、何でもないことのように訊く。どの口が、と自分でも思うけれど、私から言わないと、たぶん咲子さんは避けてくれちゃうだろうから。

「んー。元気だとは思うけど、まあ、さみしがってるよ。私がここに来た後は、いっつも結羽は元気だったか、ちゃんと食べてたか、ってもう、うるさくって」

 茶化し気味に手を払って、呆れたような顔を見せる咲子さんだったけれど、その顔が一瞬哀しげに曇って、小さな声で付け加えた。

「でも、少し痩せた」

 そっか、と私は返す。

 ごめん、気にしなくていい、と言うので、ううん、と応える。

 静まりかえった部屋に、食器を洗う水音だけが流れる。キュ、キュ、と、お皿が鳴り、油が落ちて、排水溝の淵に滲む。

「そういえばさ」

 咲子さんが、私の背中に語りかける。

「読んだよ、絵理さんの手紙」

 一瞬ハッとするような思いがして、慎重に、手に持ったお皿を置く。水を止めて、咲子さんのほうへ向き直る。咲子さんの目が、真っ直ぐに私を見ている。

「けど、ごめんね。私は正直、どうでもいいよ、って思った」

 わーちゃん、ごめんなさい。

 幼い頃に読んで、未だに頭から離れないでいるお母さんの言葉が、ふわふわとダイニングに浮いている。咲子さんの顔は、まるで、それがぜんぶ見えているみたいで。

「私には、お母さんの記憶がほとんど残ってないし、お母さんの怒りとか、恨みとか、そういうものは引き受けられない。それはやっぱり、お母さんのもので、私には関係ないんだよ」

 冷たいようだけどさ、と言う声が、私にはじんわりとあたたかくて。今さらになって、自分のなかでおりとなっていた感情に気付かされる。

「私にとって、母親ってものに近いのはやっぱり絵理さんだし、絵理さんにしてもらったことで、不満に思ってることなんてなんにも無い。それを今さら、資格とか権利とか、なかったって言われても、それだってやっぱり関係ない」

 手紙を読んでから、ずっと、私には罪悪感があった。だって私は、大沓絵理が、石動家で産んだ娘で。

 魚見しずかさんから最後に石動家を奪ったのは、私だから。

 そんな気持ちが、咲子さんの言葉で、ゆっくり、ほころぶようにほどけていく。

「感謝してる。私、絵理さんのこと大好きだったから。知らないところにあった事実のひとつふたつで、この気持ちは変わらない。変わりようがないよ」

 だから、と咲子さんは笑って、

「別にいいのに。バカだなあ……」

 と言う。

 バカ、かあ、と思うけれど、気付くと私も笑っている。言う通りかもしれない。そりゃないよ、って気持ちもなくはないけれど、それさえどこかくすぐったい。

 咲子さんがこちらへ来る。残りのお皿を二人で洗う。



「こんばんは、魚以エリンです」

 配信を点けて、コメント欄を見る。見知った名前がポツポツ現れるので、名前を呼んで、簡単に挨拶をする。

 引っ越ししてからしばらくは、とにかく日々の生活で精一杯だったけれど、最近は少し慣れてきて、たまに配信をする程度の余裕もできた。以前は創作話を話すだけのアカウントに徹していたけれど、最近はオカルト系の雑談枠なんかも取ったりしている。

「今日はちょっと怖いかも、ってくらいの話を仕入れてきたから、お話しさせてもらうね」

 勉強も続けているし、部室にも時々顔を出す。以前の生活をしっかり取り戻して、一人暮らしは充実している。ご飯を作るのはちょっと面倒になるときもあるけれど、咲子さんが時短レシピなんかをネットで拾って来てはラインに貼り付けてくれるので、どうにかこうにか、今のところはやれている。

 どうにもならないのは、時々感じるさみしさで。そんな隙間を、配信で埋めているのかもしれない。

「ある町の住宅街に、妙な噂が絶えない家があったの。洗濯物なんかはいつも干されていて、人が住んでいるのは確実なんだけど、ご近所の誰も、その住人を見たことがない家……」

 声が弾みすぎないように気をつける。ルーズリーフには、ポツポツとしかメモがない。今日はほとんどアドリブで話す予定だ。

 ぴょ、とコメントが浮きあがる。ふいに、にやけてしまう顔を、両手で隠す。

「だけどある日、学校帰りの少年が、その家に入っていく子どもを見た。この話はそこから始まるの」

 それは、ずっと気になっていたアイコン。入室だけして見てくれていた、無口な人の、初めてのコメントだった。

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