12
咲子さんの部屋にまだ学習机があったころ、その引き出しを勝手に開けたことがある。当時、私は十歳だった。
縦に三つ並んだうちの真ん中、鍵の付いた引き出し。何か面白いものを隠しているんじゃ、と睨んだ私は、咲子さんの外出中に、十円玉やペン先など思いつく限りの鍵代わりを鍵穴に押し当てた。そのいずれも鍵を回すには至らず、半ば諦めていた、その時だった。
ダメ元で持ってきた私の学習机の鍵が、何故だか鍵穴にするっと入った。子どものための鍵なんて、そんなものなんだろうか。戸惑いながらもそれを捻ると、カチ、と音がして、鍵が開いた。
中に入っていたのは、小さな封筒が一つだけ。
お母さんが咲子さんに宛てて遺した、長い手紙だった。
「こんばんは。魚以エリンです。ちょっと間が空いちゃってごめんね。今日はちょっとした怪談話を仕入れてきたから、披露していこうと思います。お暇が許せば、お付き合いください」
手元に簡単なメモ書きをしたルーズリーフを置いて、ペラペラと弄びながら配信を始める。原稿というほどのものではない。簡単なテーマと、そこから考えた大筋だけを、ほとんど箇条書きで散らした紙。
ちゃんとしたものを用意しようとすると、形になる前に萎えてしまうのでこうしている。こんな配信、大それたものじゃ全然ない。
だけど、今日のメモの量は普段よりもずっと多い。
「今日の話は、ある大型トラック――で、いいのかな、タンクローリーなんだけど――その運転手さんの話。その人は定年を迎えて、本当はその日、退職するはずだったの」
ルーズリーフの真ん中に書かれたテーマは《弱い父親》。
「最後の仕事を終えて会社に帰ったら、上司がやってきて、最後の挨拶かな、と思ったんだけど、そうじゃなかった。上司は、今しがた引退したその人に、悪いんだけど、もう一日走ってくれないか、って頼んできたの」
運転手が運んでいるのは牛乳で、関東-東北間を毎日走ってて、なんて、一応作った細かな設定のメモを、適当に拾って話を作る。絶対に使うと決めているものには赤いアンダーラインが引いてあって、忘れないように、使ったらバツを付けるようにしている。
「その日、トラックを引き継いで走る予定だったドライバーが、大熱を出しちゃってね。来られなくなった。多少なら無理させるくらいの会社だったけど、流石に厳しいくらいの熱だって話で。
それで、明日までには代わりを用意するから、今日だけ、もう一日だけお願いできないか、って言われて。手当も付けるからってことで、その人はしぶしぶオーケーしたの。今後のことを考えたら、お金はやっぱり欲しかった。毎日関東と東北の工場間を、何時間も掛けて往復して、それでも貯金は全然安心できるような額にはならなかった。体もあちこち悪くしてたしね」
ベッドの上に座ったまま、壁に背中を預ける。咲子さんは聞いてるだろうか。
咲子さんが時々、壁越しに私の配信を聞いていることを、私は知っている。咲子さんなら構わないし、本人は隠しているつもりのようだから、放っておいているけれど。
「それで、本当は引退していたはずのお昼、東北まで走って行って、タンクいっぱいに牛乳を積み込んで、関東の工場に帰ってきたのが、夜中の二時すぎくらい。
牛乳をおろすのってちょっと時間が掛かるんだけど、それは工場の人が機械を使ってやってくれるから、ドライバーはこの時間に仮眠が取れるんだって。ただね、ローリーに乗ってても勿論いいんだけど、エンジンは切らないといけないの。牛乳にガソリンの臭いが付く、って、本当かどうかは知らないけど、そんな話があって。
だから冷房がつけられない。夏の盛りで、とてもじゃないけどそれじゃあ車の中にはいられなかった。だから代わりに、工場はローリーの停まる場所の近くに、プレハブ小屋と、簡単な枕・毛布を用意していて。もちろんエアコンも付いてる。敷き布団はなかったっていうから、手厚いんだがどうなんだかなんだけど……」
《プレハブ小屋》をバツで消す。ここまでの話で、アンダーラインを引いてあるのはこれだけだった。家じゃない場所。室外の宿。そういう場所で眠らなきゃいけない《父親》の像が欲しかった。
「冷房を付けるけど、誰かが冷やしておいてくれていたわけでもない。しばらくは暑いの。それでも疲れてたから、寝ようと思えば眠れたらしいけど、ちょっと目が冴えてもいたみたい。
警備員さんが巡回に来て、窓から懐中電灯の光が天井を照らす。人が寝てるときは流石に中は覗かないことになっていて、だから、挨拶するなら小屋を出ないといけないんだけど、よく考えたらそれは昨日済ませてたんだよね。
一日延びちゃった、なんて話はネタにもなりそうだったけど、なんだか気が進まなかった。やっぱり疲れてて、人と話すのも億劫で。本当はもうここにいないはずだったんだよな、なんて考えるとイライラもして。
それで、電話を掛けることにしたの。熱を出して、会社を休んでるっていうドライバーに」
ドライバーの仕事の流れについては、ユーチューブで経験者が語っているのを参考にした。《牛乳にガソリンの臭いが付く》というクレームも、実際にドライバーが動画内で語っていたものだ。そのガソリン使って毎日届けてやってるのに、そんな言い草あります?と言ったドライバーの声が妙に印象に残っていて、今回使うことにした。
理屈でいえば仕方がないことなのかも知れない。本当に臭いが付くのなら、特にタンクから工場内の機械に移し替える間は、排気を避けたほうがいいのかも知れない。
けれど心情的にいえば、あの人が動画で見せた悔しそうな顔も理解はできる。
冷たい言葉だ、と思う。
「プルルル、プルルル。発信音が鳴り響く。夜中の電話だけれど、ドライバーは夜型の生活リズムになっている人間も多い。出ろ。出て一言、文句くらい言わせろ。俺はもう、働かなくてよかったはずなんだ。そう思って、電話の背中を人差し指で、トントン、トントン、って叩いた。苛立たしい気持ちが、段々、もう抑えきれないくらいになって……」
息継ぎの合間に、ふっと、後ろを振り返る。
「限界だと思ったその時、発信音が切れた」
壁。その向こうの、咲子さんの部屋のクローゼット。いるのかな、そこに。
手を伸ばして、そっと触れる。何も伝わない、無機質な壁紙の温度。
「切られたのか。そう思ったけれど、向こうから声がした。若い、女の声が」
コン、コンと、軽く壁をノックする。
返ってくればいい、と思った。壁に背中を預けている咲子さんがノックに驚いて、戸惑って、そうしてノックを返してくれたらいい。
けど返事はなくて、そこには誰もいないようで、私はグッとさみしくなった。
「非常識だなあ! 何時だと思ってるの? バカにかけてくる奴はみんなっ!バカなのっ?」
小さく息をついて、ひとり、話を続ける。
「そう言って怒る声は、ふっ、ふっ、って、ところどころ途切れて聞こえて、その都度、うっ、ぐっ、って、唸る声がした。唸っているのは男の声で、たぶん電話の本来の持ち主で。
ドライバーは咄嗟に、あ、これDVだ、って気付いたのね」
《DV》にバツを付ける。暴力とか、暴行とか、行為を説明するだけなら足りる言葉は他にもあるけれど。家庭内暴力。家の中。そういう呪いを載せたかった。
冷水で虫を殺した、動画の男を思い出す。あの男の首元に覗いた、無数の青あざ。あれは誰が付けたのだろう。職場の人間? それとも、家族?
後者だ、と直感する。間違いなくそうだ。
「電話の声の主、女の足下には同僚がいて、怒りにまかせた蹴りか、あるいは凶器での殴打かを受けて、うずくまっている。ドライバーの頭のなかには、そんな情景がありありと浮かんでいた。だから、怒鳴り声にも怯まずに訊いたの。お前誰だ、何してる、ってね。
うるさいなあ。今取り込み中、電話切りなよ。
気だるそうな声で女が言って、ガコッって、今度はハッキリ打撃音が聞こえる。ドライバーは電話口に向かって、同僚の名前を叫ぶ。皿とかグラスとかみたいな、何かが割れる音がして、その真ん中で女が笑っている。
ユウコ。ゴン偏のゴンに子どもの子で、
両手で自分のお腹を押して、蹴られるみたいに嗚咽を漏らす。傍らに置いていたペットボトルが倒れ、転げた先で、水が透明にカーペットを濡らす。わかってない、みんな、なんにも。
本当は、人の親を殴っていいのは、その子どもだけなんだ。
その逆に、親なら、子ども以外に殴られちゃいけない。痛めつけられない強さ。それを持つのは、子を持つ親の、最低限の責務なんだ。
昂揚する気持ちのままに、わかってない!と叫ぶ。
ヘラって虫殺したり、虐げられる背中を見せびらかして……それでコメントとか、私みたいな、赤の他人たちに同情されて、哀しんだり、憤ってもらって……それで、喜んでいないでよ!
「はあっ。はっ……ふぅ。だけどね、あたしもう死んだの。お母さんに殺されちゃった。大学行きたくて、あたし、ずっと勉強してたのに。お父さんがトラック走らせてる間にね、無理心中、っていうの? 刺されて死んじゃった。人生に失敗しちゃったんだって、お母さん。なんか、ずっとそんなようなこと言ってたけど、まさかあれ、全部本気だったとは思わなかったな……」
ユウコがトーンダウンして、私も少し息を整える。無理心中とか、人生とか、私としてはどうでもよくて、口をついて出る、ただの繋ぎで。
頭は、お父さんのことを考えていた。
「だから、名前を変えたの。ユウコ。幽霊の幽で、
ずっと、お父さんが心配だった。私は、お父さんの駄目なところを知っている。嫌なところ、弱いところ、卑怯なところも知っている。
だから、心配。私の知らないところで馬鹿にされていないか。虐げられていないか。
父親失格だ、なんて、言われていないか。
「怖くなくてもいいよ。そんなこと、どうだっていい。
そう言った声は、うしろ、背中のほうから聞こえて。耳に押し当てた電話からは、いつの間にか、ツー、ツー、って機械音が聞こえている。振り返れない。体が固まって、ピクリとも動かないの。そうして、肩を掴まれて、耳元で女が言う。
ねえ、アンタは父親?」
……嫌だ。私と咲子さん以外がそんなことを言うのは。許せない。
「わかる? 子どもがいるか、って訊いてるの。いるなら殺す。アンタを殺したいアンタの子どもの代わりに、今ここで、あたしが殺す。どうなの? いる?」
ふと、手元に置いたルーズリーフを見る。途中からバツを付けるのを忘れて、もう、何を言ったかもうろ覚えだった。ピントがずれるように、文字がぼやけて見えなくなる。
「男は、いない、と答えた。実際いなかったの。昔に結婚はしてたんだけど、子どもはできなかった。だからってわけじゃないらしいけど、結局別れることになって、それっきり他の縁もなし。
女の爪がドライバーの制服を貫いて、そこそこ堅いはずのそれを引き裂きながら、男の背中をなぞる。ふーん、という声からは、男の答えに納得しているのか、不満なのか、いまいち伝わってこなくて。汗でピリピリと痛むから、それで、背中が傷付けられていることがわかる。
こっ、こっ、と。五つの爪が左胸のうしろを叩く。男は思わず悲鳴をあげる。女はそれを笑って、笑って、ひとしきり笑い終えたら、じゃあいいや、と言って、歩き去っていく。
ひた、ひた、と、男の体はまだ動かなかったけれど、足音がして、それがプレハブ小屋のドアに向かっていってることは分かった。男は横目でその影を追って、ドアが開く瞬間、ついにその姿を捉えた。だけど、工場の灯りが逆光になって、全然、顔とかは見えなくて。小屋を出た女は、また笑いながら、男のほうを振り返ったの」
気付かないうちに前のめりになっていた体を、また壁に預ける。さみしい。なんでこんなことをしているんだろう。
「父親……みんな殺したら、また会いに来るね」
ユウコが去っていく。私の中で確かに持っていた現実感・切実な気持ちを、ぽろぽろと零しながら、眠らない夜へと消えていく。
「女はそのままいなくなって、緊張の糸が切れた男は、倒れるみたいに気を失った。仮眠の終わる時間、セットしてたアラームが鳴って、当たり前に目が覚めて。背中の痛みは残っていたから夢だとは思わなかったんだけど、それでも守衛所に駆け込んだりする気にはなれなくて、そのまま帰って、仕事もちゃんと引退したんだって」
ルーズリーフを破く。
なんだか、いつもよりずっと疲れている自分に気が付いて、長い息を吐く。
「その後、同僚ドライバーはどうなったとか、工場付近で何かあったかとか、そういうことは一切調べなかった。その人も、もう関わりたくなかったみたい。だからこの話はこれでおしまい。私が知ってることも、これで全部」
ずるずると姿勢を崩して、ベッドの上で仰向けになる。持ち上げたスマホに流れるコメントも、こぼれ落ちるみたいに目を滑って、頭に入らない。
それから十数分、聞いてくれた視聴者と簡単な雑談をして、配信を切り上げた。このまま眠ってしまおうと、少し手を伸ばし、布団をたぐり寄せる。そうして、目を閉じようとした瞬間、電話が鳴った。
お父さんからだった。ドクン、と心臓が跳ねる。
どうして? お父さんなら家にいるはずだ。用があるなら直接、呼びに来ればいい。着信音が、いつまでも鳴り響く。画面の上の白い「お父さん」の文字が、いやに冷たくこちらを見ている。その身を震わせて、私に、出なさい、と言っている。
あの時みたいだ。私に本を破くなと言った日の、あの、お父さん。
私は身を起こして、スマホをベッドから蹴り落とす。裏返り、カーペットに音を吸われてなお、それは鳴り続けて、やがて階下から、階段を上る足音が聞こえてくる。
ゴッ、ゴッ、ゴッ。
怒っている。私は隅へ隅へと身を寄せて、配信を始める前に閉めておいたドアの鍵を、縋る思いで見つめる。足音が階段を上りきり、真っ直ぐに、私の部屋へやってくる。
着信音が止んで、ドアノブが跳ねる。
「もう、配信はやめなさい」
お父さんが言う。ドアノブは跳ね続ける。何度も、何度も、子どもの部屋の錠に、弾かれながら。
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