11
子どもの……まだ、幼稚園くらいの頃に、母さんと動物園に行った。
ウサギのふれあいコーナーみたいなものがあった。俺は動物に触るってことにちょっとビビってたんだけど、やってみたいって気持ちもあって、それで、母さんに頼んだんだと思う。
柵の中に入って、何匹かウサギがいて、みんな大人しいもんだったけど、それでもたしかに生きて、動いてて。ビビって自分から触りに行けずに座り込んだ俺のところに、係の人が一羽のウサギを連れてきて、膝の上に抱かせてくれた。丸っこくて、あったかくて、ちょっととぼけた顔をしていて、かわいかった。
俺はその背中をやさしく撫でた。ウサギもそれを受け入れてくれるみたいに、俺の膝にずっしり座りこんで動かなかった。そうしてずっとただ撫でているだけだったけど、幸せな時間だった。
数分が経って、ウサギがすくっと起き上がり、俺の膝から出て行った。ちょっと名残惜しい気もしたけれど、子どもなりの愛情みたいなものを胸に抱いて、その背に手を振った。
そのとき、係員さんが俺を見て、あ、と声をあげた。そうしてタオルを持ってきて、膝のあたりを拭きはじめた。俺はそこで初めて、膝のあたりが薄茶色に汚れていることに気がついた。さっきのウサギが、いつの間にか排泄していたらしかった。それも、通常ウサギがするようなコロコロした糞ではなく、下痢ぎみの便だった。
「ごめんね。緊張しちゃってたのかな……」
係員さんはそう言って、俺のズボンを丁寧に拭いてくれた。何かあったのかとこちらへ来た母さんにも謝っていたけれど、母さんは全然気にしない様子で、生き物のすることですから、と手を振ってみせた。
「真樹夫がやさしくて、安心してたのかもね」
帰り道、母さんはそう言って俺に笑いかけた。俺はその言葉がなんだかとても嬉しくて、ちょっと誇らしいようでもあって、ズボンが汚れたことなんて全然気にしていなかった。
家に帰って親父にその話をすると、ぎこちなく笑って、楽しかったな、と頭に触れた。いや、撫でたつもりだったのかな、あれは。
仁村さんは、俺と二人で仕事をすると、だいたいお腹の調子が悪いと言ってトイレに行く。トイレなら仕方がないし、俺もあんまりみみっちいことは言いたくないから、快く送りだしている。俺以外とやってるときは行かないらしい。まあでも、本当に行きたいのを我慢しているのなら、それは実際いいこととも言えないし。
最近、仁村さんがトイレに行って、またか、と流石に思ってしまった時に、あの日のウサギを思い出した。大らかでいたい、と改めて思った。自戒。自戒。
仕事であった楽しい話とか、嫌だった話とか、そういうのって、全然人に伝わらないんだなって思った。
友だちとか、家族とか、当たり前なんだけど、俺がどんな職場で・どんな人たちと・どんな仕事をしているのかなんて知らないわけで。多少説明を試みたりもしたけれど、ピンと来てないんだろうなってかんじだった。職場でのちょっとした心情を伝えるためには、最低限共有しなきゃいけない情報ってものが沢山あって、だけどそんなこと、いちいち説明するのはもう会話じゃないし、それを覚悟の上で臨んでも結局技術的に無理なんだ。
仁村さんがリンクス用の店名シールを二枚で切らないで使うからベロベロになるストレスなんて、社外の人どころか、テーオン以外じゃ同業者にも理解されない。仁村さんが使えないってのはみんな言ってるけど、その具体的な使えなさを知ってるのは被害に遭ってるそれぞれの部署だけで、かつそれらを互いに分かち合うことさえもできない。
だから仲間内での陰口が増えるんだな。前提を共有できて初めてストレス発散になるって構造が陰湿さを助長する。誰だって自分の仕事が面倒になるのは嫌で、それを吐き出すなってのは無理がある。
五井さんは、自分がムカついてるっていうのは勿論(一番に)あると思うけれど、一方で他の奴らの分まで怒ってもいる。あれは俺の分か、とか思うと、なんだか責任も感じる。でもまあ、マニュアル的に言ったら絶対アウトなんだろうな、あれ。
そりゃそうっていうか、だってたとえば、自分の子どもになんか絶対見せられないもんな、あんなの。
それはまあともかく、職場は外部と隔たっていて、だから働いている俺たちの心も、抽象化しないと外には繋がらない。仕事に人生かけてなんかいないのに、一日の半分近くを職場で過ごして、そこでの感情は一般に通じない。深刻なわけじゃないけれど、よくよく考えると途方もなく孤独な話である気もする。
俺の知れないところで、親父は仁村さんみたいな扱いを受けているんだろうか。友だちはみんな職場で苦しんでいるらしいけれど、その苦しみも全部、ふわっと推し量ることしかできない。ちゃんとした仕事に就いたことないし。なんだかつらい。
みんなで伝票を踏んだ日を思い出す。今の職場では、あの日が一番楽しかった。だけどこれだって、誰にも全然通じない。
仁村さんも、あの日はたしか休みだった。
労働なんて馬鹿馬鹿しい。少なくとも、こんなに人生の時間を注ぐものじゃない。そんな価値があるものじゃ。
本来人間は、もっともっと自由な時間を得るべきで、持て余すくらいであるべきで、労働なんてその隙間でちょろっとやる程度のものなんだ。
ちゃんと、人間をゆたかにできる力に対して生の時間を割り振ったなら、そうなるはずだ。
とにかく人員を総動員して、社会・国、そんなものを発展させなきゃいけなかった頃の労働兵隊たちが、社会の基盤に呪いを残していった。玉砕的な働き方をスタンダードにして、そのまま死んでいったんだ。
長く・多く働いて、ようやく生活とトントンになるか、あるいはならないくらいの賃金。社会から労働者を逃がさないためのシステムにすら見える。そうやっていつまでも働かないといけなくされた人たちが、職場の中で老いていって、今日も誰かに怒鳴られている。ああなったのは、稼げなかったことが悪いのか? 報われる価値があるような仕事をしなかったから?
……四十年も、会社に尽くしてきた人たちだぞ。四十年……役に立ったとか、立たないとか、そういう次元の話じゃないじゃんか。
自分たちが立っているこの土台は、もう壊れてしまっているのだと感じずにはいられない。正す力も働かないまま、ズルズルと悪くなっていくんだろう。俺が思うくらいだから、きっと沢山の人が思っていて、もっとちゃんとした言葉で言っているだろうけれど、たぶん、精々がその人たちの周りだけ多少有閑的になる程度で、だから持て
俺だって諦めている。だけど親父を見捨てられないし、行動を起こす気力もない。
無気力を詰る声が聞こえる。これだから日本人は、と言っている。被害妄想だろうか。
だけどな、無気力な奴らが作ったパンが、災害の現場に真っ先に届くんだ。
……くだらない。プライドなんて持って、いいように使われてるだけじゃないか。だけど被災地の映像で、パンを載せたトラックに拍手する人たちを見たとき、俺はたしかに泣いた。これも、誰に話しても伝わらなかったけれど。そして半壊した店に届くのを見て感動するのに、沢山注文する店は潰れてしまえと思っている。めちゃくちゃだ。こんな矛盾は、心情であるうちしか許されない。
排水溝に向かう傾いた床面。所感。明日、二十七歳になる。ちっとも嬉しくないし、普通に仕事だ。
疲れた。仕事を憎んでいる一方で、仕事に一生懸命じゃない奴のことも憎く思うのは、おかしいだろうか。手ぇ抜くなよ。今日は、本当は一時間早くあがれた。背中が痛い。眠い。
悩むことは人間の根幹だと思う。俺の最近の悩みはもっぱら職場のことで、それも、悩む価値があるようなことなんかじゃ全然なくて、ああいうことを考えているとき、俺は人としてどんどんスカスカになっていってるのだと思う。もっと休憩したいと思うより――人の休憩時間が長いと思うより――休憩時間を長く取るズルに怒っている人間がいて、それが面倒ごとを産んでいる、なんてことに悩んでいて、俺も、
死んだら悪霊になりたいとずっと言ってきたけれど、だんだん呪いが弱く・狭くなっていっている気がする。都会の真ん中で町ゆく人を呪って回るような大悪霊になりたいと、大学を出た頃はちゃんと思えていた。働き出してからだ。大きな恨み・怒りに実感が持てなくなった。具体的な対象ばかりが思い浮かぶ。呪いの俗化。こんなんじゃ、死んでまで呪う意味すらない。
仕事仲間を好いたり、嫌ったりしている。それ以外がなくなっていく。
自己愛は強くなって、その具体性は消えていっている。
今日は体調が悪い、と親父が言っていた。最近はなかった、例の不整脈らしい。一応救急車呼ぶか訊いたけれど、二つ返事で、いい、と返ってきた。
弱いなあ、と思った。今すぐ救急車を、ってくらいの不調でもないのなら、黙って部屋で寝てろよ、とも思った。
思ってから、なんでこんな冷たいんだ、と思った。いいじゃんか、具合悪かったら言ったって。なんかあったら、ってこともあるし、何より、心配されることで安心するところだってあるのが人間ってもので。俺だって、逆の立場だったら、それくらいは許されたい。
仁村さんと一緒に仕事をするようになってから、親父と仁村さんの印象が混ざっていっている気もする。さすがに仁村さんほど親父はダメじゃないのにな。
それに、仁村さんだってそんなにゴミってわけじゃない。仕事でさえなければ、くしゃくしゃで愛嬌のあるじいちゃんだ。本とかも、なんか旅の本とか、戦国の本とか読んでて、そういう話なら全然面白く聞ける。
退職したら、息子夫婦と暮らすらしい。はやく……ボケが進行しちゃう前に、そうできればいいなと思う。
テーオンの仕事は馬鹿にされている。規模が小さいし、ほとんどの人間はうちの棟にすら来ないから、なんか楽な仕事をやっているところ、くらいに思っている。
人が少ないところで、仕事が遅い奴がいたりすると、それをカバーする人間の仕事は倍々式で増える。五井さんくらいできる人だとそれでも大丈夫だけど、佐々尾さんは休憩時間を削って無理やり仕事を終わらせて、それを申告しないでタイムカードを通している。そういうことを、テーオン以外の人間は知らない。真志係長は流石に分かってくれてるけど、所長なんかは絶対知らない。みんな死んだらいい。
昔、
まだちょっと痛い気がすんだよね、なんて言うから、笑えないっすよ、と返したけど、正直面白かったし、普通に笑った。
仕事帰りに、テーオン棟のほうへ歩いていく犬を見た。危ないな、と思って追いかけたけれど、裏のほうへ曲がっていって、角に着いた頃にはいなくなっていた。トラックに轢かれなきゃいいけど。
今度、パートを対象にした社員登用試験がある。受けようか迷って、佐々尾さんが試験に受かったときの話を聞いた。結果が出て内定をもらった日、当時の所長からこう言われたらしい。
「最初はつらいことも多いかも知れないけれど、二十年・三十年と勤めていれば、いい会社だった、入ってよかったと感じられるだろうから。これから頑張ってね」
どう思う、と佐々尾さんに聞かれて、俺は曖昧に答えた。そうならいいことじゃん、とも思ったし、適当な甘言なのかな、とも思ったけれど、まあ、総じてよくある励ましに聞こえた。
俺の返事をどう受け取ったのかは分からない。佐々尾さんは、じゃあ
「河東さんとか……あと、奥ちゃんは会ったことないっけ、
佐々尾さんの怒った声を初めて聞いた。言葉が追いつかないようで、詰まり詰まりになっていた。
「あの人たちはどうなっちゃうわけ、ってさ。あの人たちはもう、二十年・三十年なんて働かないんだよ。そういう人たちを雇って、使うけど、あいつらは幸せにしなくていいや、ってこと? あんたの本音がそうだとしても……そりゃ、自由だけどさ、俺は一緒に働いてるから仲間意識があるし……とにかくこの人はそういう考えで上に立ってて、しかも俺が、それ聞いて嬉しいと思うような、バカだと思ってんだ、って。すげームカついた」
バカしかいねえよこの会社、と佐々尾さんは言った。佐々尾さんが社員になったのは二十九歳のときらしい。五、六年前。俺はぷらぷらしてた頃だ。
「仁村がこの会社に感謝してるとは、とても思えないしな」
そう言って、佐々尾さんは休憩室を出ていった。まだ十分くらい休憩が残っていたけど、現場に戻ったらしかった。
疲れた。今日は朝からずっと眠かった。今は目が冴えている。眠い。
あの日、奥間くんの部屋で日記を読んだ。
一一〇番に掛けてから、どれだけの時間気を失っていたのかは分からない。数分、あるいは数秒だったのかも知れない。目が覚めたとき、警察の人はまだ到着していなくて、私はズキズキと痛む頭を抑えながら、奥間くんの部屋に向かった。
転がったままの死体を見て、本当に死んでるんだ、と思った。もしかしたら、全部嘘か、勘違いか何かじゃないかと思っていた。思いたかった、とかじゃなく、本当に。それくらい現実感が持てなかった。
部屋を見回す。この部屋に私が入る前、ガタン、と大きな音がした。それで私は、首吊りじゃないかと疑って襖を開けた。でも奥間くんは、きっと数日前に、とっくに死んでいた。
だったら、あの音はなんだったんだ?
頭が痛い。どっと疲れた日の夜のような、重い痛み。
ほこりの舞う部屋の中心に、一冊のノートが落ちていることに気がついた。これが?と一瞬思って、すぐにそれを否定する。こんな軽い物で出る音じゃなかった。ノートを手に取る。一応表紙を手で払ったけれど、ほこりはほとんど付いていなかった。
開くと、最初の数ページに文字がびっしりと書き込まれていて、後は白紙のままだった。ひと月ほどで飽きてしまったのか、更新されなくなった日記。日付は半年ほど前で、死によって中断を余儀なくされたというわけでもないようだった。
死体の傍らで、立ち尽くしたままページをめくった。
どれほどの時間そうしていただろう。私は、目が醒めたかのように顔を上げて、窓にかかったカーテンを開けた。窓外の光が、くらく静まった部屋を暴いていく。心臓が跳ねる。パトカーらしき影は、まだ見えなかった。
一瞬だけ考えて、決断する。奥間くんの部屋を出て、リビングから、狭いベランダへと駆けていく。
まだ間に合う。警察が来てしまう、その前に。辺りを見回して、草木が植え付けられている辺りに狙いを定める。
そうしてそのまま、私は抱えていたノートを持ち直して、上手投げで放り出した。指を離れたノートは一瞬鳥のように開いて、重たそうに、その頭のほうから墜ちていった。
彼の、家の外へ。
後日、もらった休暇を利用して、再びあの団地を訪れた。管理を放棄され、無秩序に伸び放題の草むらのなかで、ノートは蟻やアブラムシ、名も分からない小さな虫たちにたかられていた。私はそれを手で払って、隠すようにして持ち帰り、遠くのコンビニのゴミ箱に捨てた。
きっと私は、奥間くんの心を守りたかった。
奥間くんの父親は、彼の死を自殺だと言った。あるいは、それもまったくの嘘じゃないのかもしれない。あのノートを書いてから、更に半年。奥間くんの、生きようとする気持ちの火は、もう既に消えてしまっていたのかもしれない。自分の首に掛かる父親の手。死の誘惑。事実がどうであったのかなんて、きっと誰にも知るよしはない。
だけどそんなこと、どっちだっておんなじだ。
気持ちがわかるなんて言えない。伝票なんて踏んづけて何が面白いのか、私には全然分からない。
だけど、ノートを読んだあの時、私は胸の中で、痛いくらいに奥間くんの気持ちを抱きしめていた。絶対、自殺なんかじゃない。あんなふうに生きるなかで、迫る死を拒めなかったことを私は自殺とは呼ばない。弱さだとも思わない。誰にも、絶対、そんなふうには言わせない。
本当は、父親こそがそう言って、奥間くんを守ってあげるべきだったのに。
幽霊は死者の影だ、と結羽は言った。
仕事場の紙のうらに遺された、奥間くんの言葉を想う。
《幽霊が出ます。》
……だったら、結羽、奥間くん。死んでいるのは、誰なの?
なにが、そこで死んでるの?
仁村さんの顔が浮かぶ。くしゃくしゃになって、締まりなく笑ってみせる、腑抜けた顔が。
それから、五井さんの顔が浮かぶ。大越さんの顔が浮かび、真志係長の顔もちらつく。記憶もおぼろげな社長の顔が浮かび、営業所所長の顔も浮かぶ。配分場で見た、いろいろな人たちの顔が浮かぶ。
俺をいつまで働かせるんだと叫んだ、奥間くんの父親も浮かぶ。
夏を待たずに土を出て、十分な力を付けられなかった蝉が、私の目の前で木から落ちる。
私と結羽の父の顔も浮かんで、私は、ちょっとだけ悲しくなる。
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