第11話「感謝」

「ようやく、人心地つきましたな」

 すっかり身を清め傷の手当てを終えたレリウスは、豪奢ごうしゃな椅子に寄りかかりながら大きく息をついた。

 

 見るからに上等な生地きじの衣服に身をつつんだレリウスは、シンが声をかけるのも気後れしてしまうほどの貫禄かんろくただよわせていた。

 エルダストリーにおける侯爵という地位がどれほどのものなのかわからなかったが、自分なんかが気安く話していい相手ではなさそうなことに、シンは今さらながらに気づいた。


「本当に、生き返った気分です」

 それはシンのすぐ隣に座るラスティアにも言えることだった。


 レリウスと同じように身を清め、ゆったりとした衣服に着替えていた彼女は、神々しいばかりの輝きを放っていた。


 血と土にまみれていた長い髪は、透きとおるような茶褐色の色合いを取り戻し、青ざめていた表情にもほんのりと朱が差していた。何より、シンの目を惹きつけてやまない翡翠のような大きな瞳がきらきらと輝いて見える。


 恐ろしく踏み心地の良い絨毯が敷き詰められた部屋でくつろぐ二人は、まるで一枚の絵画のようだった。


 レリウスの手厚い計らいでシンも到着してすぐ着替えさせてもらっていたが、自分だけとんでもなく場違いなところへ来てしまった気がして仕方なかった。

 だからかもしれないが、着ていた服は一応手元においておいた。この世界にいるかぎり再び着る機会があるとはあまり思わなかったが、手放してしまう気持ちには到底なれなかった。


 自分が一介の高校生でしかないことを忘れてしまいそうな気がしたからだ。


「あとはたらふく食事ができたら言うことなしなのですが……いったい準備にどれほど時間をかける気なのかな」

「さすがに適当な対応はできないのでしょう。執政官ワルムには悪いことをしました」


 レリウスがにやりと笑う。

「なあに、これも仕事というもの。せっかくの機会ですから、後ほどワルムと有益な情報交換などさせてもらうつもりです。幸い、というか思った通り、私の傷も深くはなかったですからね」

「本当に良かった。私ごときのために〈アインズの懐刀〉とも言われるあなたを失っては」

「そのたいそうな名は置いておくとしまして……バルデスとの関係もいよいよきな臭いことになってきそうですからね、私としても良い機会です。もしかすると交易の方にも影響が出ているかもしれません――それより、『私ごとき』などという言葉は今後一切使わないでいただきたいものです。あなたはこれから王女となる身分のお方、ランダル様からもきつくそう言われていたはず」

「ですが」

「知っての通り、アインズは西方諸国の中でも一、二を争う大国です。その王室に迎え入れられるということの意味を、どうかよくお考えください」


 レリウスとラスティアとの間に、しばしの沈黙が流れた。


「あの、バルデスって?」

 気まずさに耐えきれなくなったシンが思わず口を挟む。


「ああ、バルデスはここアインズから北東にある国の名だよ。西方諸国に属する国の一つで、アインズと並ぶ大国でもある。この街ザナトスが三つの国から伸びる街道の交わる場所としてアインズ有数の交易都市となっていることは言ってあったかな」

「三つの国っていうのは、そのバルデスという国と、レリウスたちの国のアインズでしょ? もうひとつは?」

「西の大国ディケインだ。西のディケイン、東のバルデス、それに我が国アインズは歴史上〈中央〉の覇権をかけて争い合ってきた大国同士であり、同時に重要な取引相手でもあるんだ」

「争いって、戦争のこと?」


 数日前のラスティアたちへの襲撃と、エルダストリーの物語の中で描かれていた争いの描写が、あまり思い浮かべたくもない想像をき立てしまう。


「いや、よほどの事がない限りそうはならないから安心してほしい。西方諸国に属している以上、どの国も〈評議会〉の決定に従わねばならないからね。まあ、互いの主張を曲げない場合は戦争にまで発展することもないわけじゃないが、双方に大義名分がなかったり、侵略行為にあたると判断されてしまえばアーゼムが介入することになる。どの国も自国の利益だけを追求するような馬鹿な真似はできないというわけさ」

「アーゼムって、そんなにすごいの」


 シンが知っているアーゼムは、一人ひとりが超常的な力をもち、弱きを助け悪きを打つ。そのように描かれていたはずだ。英雄的な存在だったことは確かだが、国同士の争いに介入し収めてしまうという、今レリウスが説明してくれたような存在では決してなかったはずだ。


「『エルダストリーの守護者にして調停者』この名は飾りではないよ。ひとたびアーゼムが動けば国が亡ぶとまで言われるくらいだ。実際、エルダストリーの歴史においてそのようなき目にあった国はいくつも存在する」


 ラスティアが深刻そうな顔で首を振る。

「ですが今は、東方大陸からの侵略とイストラへの対応で手が回っていないような状況です。しばらくは西方諸国に目を向ける余裕はないでしょう。他国の動きは十分警戒すべきです」

「その通りです」レリウスが深くうなずいた。「ランダル様からもそのように仰せつかりました。オルタナに戻り次第、即刻ラウル王に進言いたします」


 二人の会話を聞いていると、どうも地分とはまるで関係のない、遠い世界の出来事を聞いているような気分になる。


「ふたりとも、体の方はもういいの」

 今までの二人の様子を知っているシンとしては、むしろそちらの方が気になった。


「心配をかけてしまいましたね」ラスティアが申し訳なさそうに言った。「私の方は時間さえ経てば復調することはわかっているので問題ありません。むしろレリウス様の方が――」

「軽傷と、そう言ったはずですよ。それにいい加減レリウスとお呼びください。そのままの言葉遣いのままいられると私の方が罰せられてしまいます」

「おれも、いつまでも敬語で話されるのは、ちょっと……」


 二人からそう言われラスティアは困ったような表情を浮かべていたが、やがてうなずいた。


「――わかったわ」


 レリウスはほっとするような笑みを浮かべた。


「これでひとつ、問題が片付きました。だが――もう一つの問題の方は、これからです。ラウル王の臣下を、アルゴードに仕える者たちを無惨にも殺したあの襲撃者たち……決してこのままでは済まさん」


 思わず息をむ。声を荒げたわけではない。むしろそれは、静かな口調だった。だがシンは、レリウスから感じた確かな激情を感じた。


「それは、私も同じ思いよ」ラスティアからも同調する声が上がる。「私にできることがあれば、なんでも言って」


 レリウスが力強くうなずいて見せた。


 ごく自然に接してくれてはいるが、レリウスもラスティアも、凄惨な現場を生き延びてきた人たちだった。現実味を伴わないなどと言うシンとは、まるっきり違うのだ。


(本当に、この世界で生きていこうなんて思ってるのか)


 気づくと、あの時の鳥と――テラと交わした会話が繰り返し頭の中を巡っていた。


(戻る方法がわからないんだから、どうしようもないだろう)


(あの鳥は、おれが願いさえすればとか、意志がどうとか言ってたけど、帰れそうな気配なんて一切ないんだぞ)


 堂々巡りの疑問の果てに、結局最後にはどうすることもできないという結論に行き着いてしまう。

 少なくとも今は、成り行きに身を任せる以外他なかった。


「――こうして落ち着いたことでもありますし、今後のことについて話し合いましょう」

 レリウスの声がシンを現実へと引き戻す。

「まずは、ラスティア様の身の回りのことについてです。かの者たちが再度ラスティア様を狙ってくるとすれば、ここを発ちオルタナへ向かうまでの道中ということになります。が、今までとは比較にならないほど人の往来があるうえ、街道を守る兵たちもいます。油断することはしませんが、ワルムに命じて護衛の兵さえつけれてもらえれば安全にオルタナまで向かうことができるでしょう」

「このまま引き下がるような相手にはとても見えなかったけれど……特にあのベイルという男、きっとまた現れる気がする」

「もちろんオルタナに戻り次第、しかるべき手を打ちます。ラスティア様の暗殺を企てていたのは誰か、突き止めなくてはなりません」


「あんさつ……」

 思わず口を突いて出てしまった。


 レリウスが深刻そうにうなずき、再度ラスティアへ視線を向ける。

「口に出すのもおぞましいことですが、それ以外考えられません。あのように極めて周到かつ大胆な襲撃は、そこいらの野党にできる仕業ではありません。少なくとも、ベイルと呼ばれていた男は違います。一人だけ面頬めんぽお付きの甲冑を身にまとっていたのも自身の正体を隠すためのものでしょう。そんなものはエーテライザーにとっては邪魔な代物でしかありませんから」

「私たちを皆殺しにするつもりなら、なぜ正体を隠そうとしたのかしら」

「……今回のように私たちを見逃してしまったときのため、という以外考えつきませんな。あの首から上にはようです。それにしてはまわりの連中に名前を呼ばせてしまったのは失敗だった。もしくはすでに私たちの命はないものと考えていたからなのか……実際、シンが来てくれなければ襲撃者たちの思惑通りになっていたわけですから」


 息を殺すように聞き入っていたシンは突然自分の名前が出てきたことに驚き、どきりとした。


「……シン、君はこれからのことについて、何か考えているのかい」

 突然尋ねられ、焦る。「これからのこと?」


「君をオルタナに連れていくことに変わりはないし、命の恩人として存分にもてなしたいと思っているが、何か考えていることがあれば――」

「そんなことは、全然なにも」

 言いながら首をぶんぶんと振りまわす。


「そうか」

 それっきりレリウスは何か考え込むようにして押し黙ってしまった。


「シンは、その」ラスティアが言いにくそうに口を開く。「私たちと一緒に来ることに、ためらいや戸惑いはないの」

「え、なんで?」

「あんな恐ろしい目に遭ったわけだし……その、命を狙われているような私たちと一緒になんていたくないのでは、と」

「それは」

 シンは自分の気持ちや考えに聞き耳を立てるようにして、必死に言葉を探した。


「……自分でもよくわからないんだよ。怖い、と思わなかったといえば嘘になるよ。けど、こんなこと言って本当に申し訳ないんだけど、正直、どこか他人事ひとごとのような気がしていて、これは自分の身に起きたことなんかじゃないって思ってて……実際、何が起きているかもわからないままどうにかなっちゃったわけだし……それに、あんな森の奥に一人で取り残されていたらそれこそ怖すぎて気が狂いそうになってたと思う。だから、二人には感謝してる、本当に。これからどうすればいいかなんてわからないけど、いつまでも迷惑はかけてられないから……なんとか、しようとは思ってるんだけど。それが決まるまでは、今さらだけど、どうか、お願いします」


 しどろもどろな自分の説明を補うように、シンは深々と頭を下げた。いくら成り行きとはいえ、これから世話になることへの感謝を、もっと早く伝えておくべきだった。


「そんな――何度も言うけど、私たちはあなたに命を救われた身よ。感謝してもしきれないのはこちらの方」

「仰るとおりです」

 長いこと何かを考え込んでいたレリウスが大きくうなずいた。


「シンが望むなら、いつまでいてくれたっていい。アルゴードの名誉にかけて、不自由な思いはさせないと誓う」

「……ありがとうございます」


 右も左もわからない世界にやってきて、最初に出ったのがこの二人で良かった。シンはもう一度頭を下げた。

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