洗礼の痕  作:奴

 歌って、踊って、握手会。生配信で雑談とゲーム、辛いものを食べもする。SNSで自撮りを投稿する。エゴサもちょいちょい。アイドルは簡単じゃない。まして大々的に売り出されていない、十人並みの顔ばかりの地下アイドルがこれから売れようと奮闘しているさなかだ。今、いったいどれだけの人が知っているだろう? 狭い箱の客席は九割九分、いつもの人たちで埋め尽くされる。

 だがアイドルということばはあまりに輝いてみえ、魅惑の響きがする。日本語にすれば偶像だが、そのカタカナ四文字は、そんないかめしさのまったくない天使の名前に聞こえる。と、私は思う。だからアイドルになった。

 定期公演を終え、感染症対策のために海外の刑務所のようになった一対一の交流会もやり過ごして、楽屋でぼんやりする。アクリル板越しに、受話器でファンと話すのには慣れた。スタッフに聞こえないよう受話器越しに淫語をささやくオタクの応対も、だんだんわかってきた。

 これが将来、どこまで続くのだろう。期限はかならずある。マイクを置き、舞台を去る日がいつか来る。契約書にはどう書いてあったか。

 振りつけを間違えたみおみか(海丘みか)が過度に落ちこんで、また楽屋で手首をいじっている。切れ味の悪いキッチン鋏で擦り切っていた。まだ入って一か月でよくがんばっているのに、と先輩風を吹かせて眺めていると、スタッフが何人か来てみおみかを慰めだした。そばでみおみかの同期のさーりん(紗川凛)が理芽の食虫植物を歌っていた。

 その日はスタッフの車で自宅近くまで送られて帰った。けっして泣かずにただ目に涙をためるみおみかとその手首が頭から離れなかった。完璧主義なのか、責任感が強いのか、その両方か。練習の日はいつも最後まで残って、振りつけや、表情を確認している。私もたまにいっしょになって残るけれど、熱意があるからではない。みおみかを憐れむからだ。誰よりも努力しているのに、どこかがもう一つ足りない。何かを失敗して、半狂乱で自傷する。そのときの目と腕がちらつく。

 ダイエットのためにサラダだけ食べ、半身浴とスキン・ケアも怠らない。寝る前にエゴサした。私の名前と、グループの名前と、みおみかの名前。どれも変わりなかった。むやみにフォロー数の多いアカウントや平気でセクハラ発言するアカウント、アーティスト気取りの大学生。悪口は書きこまれていない。多くの人の目にとまり、誰かの目のかたきにされたり、たしかな感覚で批評されたりするほど、私たちは有名じゃない。狂信的なオタクしかついてこないグループだ。

 空腹で眠れなかった。体に沁みこむような闇のなかで寝返りを打ちつづけた。また、みおみかが思い浮かぶ。胸が蝕まれる感覚で横になっていられない気がする。眠剤を飲めば簡単だが、午前の卒業ライブの打ち合わせには遅れるだろう。目をつむるしかない。目をつむって、なるべく何も考えないことだ。不安は暗闇といっしょに体に浸潤し、心を貪る。だからその余地を与えないためにも、何も考えずじっとして、すべてやり過ごさなければならない。私は「まぁたぁ」のよあよあ(夜明よあ)だ。悩めるオタクたちに夜明けを告げ、明るい未来へ導いてやるのが与えられた使命だ。その私が夜に呑まれてどうする。

 眠りについたのは未明四時だった。それも、意識は深い底に沈みながら、冷蔵庫のモーター音や車のエンジン音や部屋のようすがわかっているような不完全な眠りだ。カーテンににじむ日の光で完全に覚醒すると、胸がばたばたしている。徹夜したときと同じ感覚だ。

 午前十時にスタッフが迎えに来て、そのままスタジオへ向かう。メンバーが二人、同乗している。助手席の私はスタッフとばかり話す。

 「よあちゃん眠れんかった?」

 「ちょっとだけ」

 「珍しぃ、何かあった?」

 「歌詞眺めてた」

 「ちゃんと寝なぁ?」

 うん、と私は言った。


 メンバーの卒業ライブの打ち合わせは二時間で済んだ。だいたいはスタッフがずっとしゃべったり話し合ったりして、たまに私たちがそこに加わる。だいたいみんなスマホをいじりながら。その日はライブの概要やセトリを把握して解散。自主練で残る人と、帰る人に分かれる。本格的な練習は翌日から、定期ライブを挟みつつほぼ毎日ある。

 私は自主練に残った。メンバーの半分くらいはいた。みおみかもいるし、さーりんもいた。あとは、卒業するリーダーのがみたん(乃神るう)と、私の一期上のるななみ(月波ましろ)と、入ったばかりのふねこ(方舟のあ)。セトリ表を囲んで振りつけの難しいところを洗い出し、そこを中心に六人で踊る。歌詞は覚えている前提だった。

 要所を確認しながら一つひとつこなしていくときは小休止がとれる。合間に水を飲み、呼吸を整えられる。通しの練習はいっさい止まることなく次から次へ曲をこなし、踊り歌い跳ねる。息がはずむ。それでも笑顔は絶やさない、これは大事。鏡に向かってやるから、間違いや表情のことはすぐにわかる。するとそばについてくれているスタッフが声をかけたり、メンバーで注意し合ったりする。とにかく、練習、練習、練習。笑顔、笑顔、笑顔。その繰り返しだ。みおみかとふねこは歌詞を間違えた。振りつけもずれる。必死なことだけは伝わった。

 最後を飾るがみたんのソロ曲と卒業ライブ好例の締めの部分までやり、自主練が終わったころにはもう昼を過ぎていた。シャワーを浴びてスタジオを出ると、がみたんとみおみかは帰った。私はそのほかの三人と遅い昼食に行った。

 「よあよあ、完璧じゃん、いいね」とるななみが言う。

 「ありがとう」

 「がみたんの卒ラだから、やっぱ命懸けないとだね」

 ほんとうに命を懸けるのはがみたんだ。まだ私じゃない。

 「でもみおみか、何か覚え悪いよね」

 「まじめなだけにあんまり叱りづらいし」とさーりん。

 「自主練の量やばいっすよねぇ」

 ふねこはオムライスを頬張った。

 「がみたんの有終の美、飾れたら全部よし、だけどね」と私は言った。

 そうだ。何が何でも、がみたんが最後に美しくきらめいて、オタクたちの前から静かに消え去りさえすればいい。多少の間違いなんて問題にならない。がみたんがちゃんと卒業できさえすれば。

 卒業ライブはオムライスと同じ、千五百円で楽しめる。乃神るうはいなくなり、ライブ会場はその瞬間の熱狂をいつしか失い冷めるが、オムライスがおいしかったと思い返すのといっしょで、ライブの記憶は残りつづける。記憶に残る最後にしなければならない。乃神るうというアイドルを、見る者の心に焼きつけてしまわねば、あとに残る私たちはやりきれない。そのために、踊り歌い跳ね笑う、それだけだ。


 三時間ほどの練習を終え、駅の地下街の中華屋に寄ってから、夜の生配信のためにスタッフの運転する車で移動した。同じ事務所の地下アイドルのユニット「音のエモみ」とのコラボ配信だ。グループのコンセプトが似かよっているからファン層がいくらか重なっている。「エモみ」からはとくに人気を集めている痣谷カナと中名田ハルカが来る。こちらも一番人気のメンバーを出すものと思っていたから、交流会のときのようすやグッズの売れ行きを考えれば、がみたんか、たみゅ(不死田みゆう)になるはずだが、二人は出ずに私とるななみが出ることになった。私は三番人気でもないだろうに。

 事務所の一室に着くと「エモみ」の二人はもう待機していた。挨拶は丁寧でいい印象を感じさせる一方、アイドル的な若く元気なふうがわかる。キャラクターをはっきり露出しながらも嫌に感じないくらいの自己主張。そこでなくても「エモみ」と「まぁたぁ」の差は明らかだった。「エモみ」は深夜アニメの主題歌をすでに何度か担当している。ダンスの巧さが評価されて、有名なロック・バンドのミュージック・ビデオにも出演した。音楽番組で紹介されたこともある。「まぁたぁ」にはそれがない。

 その日の生放送は雑談が主で、途中、スタッフが注文したピザを食べた。痣谷カナはエビが苦手だという話を聞いていたので、私はシーフード・ピザを率先して食べた。こういう気づかいが私の元来の性格なのか、単に他人によく思われたいという媚びなのか。るななみの冗談が中名田ハルカのつぼに入って彼女が一人で大笑いしているのを眺めながら、私はそう考えた。

 「リーダーが卒業ってなったらまぁたぁもだいぶ変わるかもね」

 「卒業ライブのときまたあれやるの?」と中名田ハルカ。

 私たちは二人でうなずいた。

 「あぁじゃあ、がみたんさん拝めるの今のうちか」

 「ぜひ最後の姿はみんなに見てほしい」るななみはカメラに語りかけた。

 その九十分はすぐ過ぎ、スタッフの車に送られて帰った。道はいくらか混んでいた。横を通り抜ける対向車のライトがまぶしかった。るななみはスマホを触りながら大森靖子のミッドナイト清純異性交遊を口ずさむ。私は、ダイエットのつもりで簡素な食事ばかりだった胃がピザで押しつぶされ、すこし気分が悪かった。正常な感覚が黒く塗られていく感じだった。大通りを抜けてすこし行くと、往来は落ち着き、車は止まることなく突き進む。その揺れに耐えるため、私は閉じた目のなかの闇に目を凝らし、耳を澄ました。るななみの鼻歌はaiobahnのインターネット・オーバードーズに変わり、笹川真生のメチルオレンジになった。さーりんとるななみはよく歌った。

 食事しているアイドルの姿を見て喜ぶ人がいるのか、と思った。アイドルは、究極的には歌と踊りと笑顔だけで十分ではないのか。「音のエモみ」とは違って、芸人とかユーチューバーみたいに、辛いものを食べてリアクションをとることが私たちには求められるし、ファンのオタクもそれを待っているらしい。私やふねこが激辛焼きそばを食べて苦しく咳きこんでいたときはなぜかふだんより視聴人数が多かった。みおみかが嫌がるふうもなくふつうに食べていたからだろうか? 何にしても他人が食べものを食べているようすを見て――それが親や飲食店の立場なら別かもしれないが――おもしろく感じられるか、私はわからなかった。なぜ私たちは歌い踊るだけでは足りないのか。もちろん卒業ライブの目玉となる最後のパフォーマンスは私たちの売りだが、メンバーが誰か卒業しなければ見られないものだし、それよりはもっとふだんの活動のなかで披露できる魅力が欲しい。歌唱も踊りも悪くはないはずだ。メンバーはみんなかわいいし、かっこいい。私がどうかは知らないけど。「音のエモみ」と私たちはファン層が同じはずなのに、それでも「エモみ」のほうが売れる理由は何だろう?

 私たちはアイドルだ。偶像だ。だから神さまと言っていいかもしれない。神が何をしていても、人はありがたく感じて当然だろうが、アイドルというのは歌と踊りの神さまだ。体を張って笑いをとる必要はない。それに私は誰かのためでなく自分のためにアイドルになった。誰かの元気の源になるためでなく、自分の夢をかなえるためだ。そして夢を持続するためには、卒業の日まで人を惹きつけるようなダンスをし、歌わねばならない。そのとき副産物的にファンへのサービスが要るのかもしれないが、有名でないアイドルの生配信がどれほど利するものか。

 卒業ライブは近い。まずはそこを成功させて、リーダーが入れ替わり新しくなる「まぁたぁ」を、どうにか勢いづけていくしかない。私は副リーダーでなく、在籍も二年とすこしだが、他人を導き夜明けを告げるアイドルとして、成すべきことを成さねばならない。それがいったい何かはまだわかっていないにしても。


 いよいよ卒業ライブ当日になった。舞台袖で、新リーダーのまーしー(真玉しの)とがみたんがそれぞれ円陣の声出しをやった。

 見たことのある人たちで満員の客席は怖いくらいの熱意だ。がみたんの固定ファンはもう涙している。私たちもふだんより昂っていた。がみたん卒業、それはメンバーのほうがよほどその重大さを理解していると思う。がみたんは、これでちょうどメンバーが完全に入れ替わる「まぁたぁ」の最後の初期メンバーで、すべてを見てきた唯一の人だった。みんなの卒業をいちばん多く見届けてきたのだ。そして、ようやく自分の番になった。がみたんは、これまで新入りの指導をやってきた。そのときの優しい姿、頼りがいある姿は、「まぁたぁ」みんなの憧れだ。がみたんがいなくなったら、残された私たちはどうするのか。私はそうやって戸惑っているみんなを先導しなければいけないのかもしれない。眠れぬ夜に寄り添うよあよあだから。

 がむしゃらに踊り歌い跳ねた。これまでにないほどファンは湧いていた。モッシュがうねった。私はいつも以上に弾ける笑顔を振りまいた。体の奥が激しく燃え、メンバー全員が一体となってがみたんの最後を飾り立てる。これだ。このために私は生きてきたのだ。がみたんの最後を見届ける天使となるために、生まれたのだ。この上ない充実感。

 とうとうがみたんのソロ曲が歌い終わり、鳴りつづけるアウトロのなかで最後のパフォーマンスが始まる。これで終わりだ。がみたんは最期を迎える。舞台袖から絞首台が運ばれた。メンバーは両脇に分かれ、新リーダーのまーしーががみたんを後ろ手に縛り、絞首台に立たせる。ファンは口々叫び、それががみたんコールになる。がみたんは首を縄にかけた。しっかりした麻縄だ。絶対切れない。

 「みんなありがとう、最高に楽しい人生だったよ! 私は先に行っちゃうけど、まぁたぁのことはこれからもよろしくね!」

 足場が落ちる。がみたんは宙づりになり、足をばたつかせる。でも笑顔は絶やさない。コールは激しさを増す。みおみかは卒倒しそうになったところをスタッフに裏へ連れ出され、ふねこは呆然としながらもどうにか雰囲気を作ろうと必死だ。まーしーとたみゅとるななみはとびきりの笑顔でがみたんを見送っている。そのなかでがみたんは、動きを止めた。これで終わり。オフ。乃神るうは卒業。コールはまだ止む気配を見せないが、とにかくリーダーは真玉しのになり、新生「まぁたぁ」がスタートする。がみたんコールは止まらない。脈が確認され、体が降ろされて棺桶に入れられ、ファンのあいだを縫うように狭い客席を抜けて、外へ運び出される。それでもみんな泣きながら、が・み・た・ん、が・み・た・ん、と叫びつづける。私たちは舞台から出ていった。予想以上に最高の卒業ライブになった。



 乃神るうが卒業してから最初のミーティングでもみんなのようすは変わらなかった。アイドルになった以上はアイドルとして死ぬこと、これは「まぁたぁ」の共通認識だ。契約するとき、そのことはすべて説明される。アイドルを辞めてもとの生活に戻るのではなく、きれいで華やかなまま灰になると、アイドルという信仰のもとに殉死すると、覚悟しているはずだ。表舞台から姿を消して隠居のような生活をしながらどうにか一般人になろうとするのは許されないし、年を取ってもなおアイドルでありつづけようと努力するのは虚しい。私たちは自分自身が輝き、一生を彗星がきらめき不意に消えるがごとくにしたいからアイドルになったのだ。だから卒業となれば、ファンのオタクの前で文字通り死んでみせなければならない。星は燃え尽きた、新たな星を探せ、と。

 海丘みかはその契約と使命をよく理解しないままのようだ。方舟のあにしても、いちおうそれを念頭にしながらも、実際に乃神るうの姿を見ると怖気づいたにちがいない。二人はミーティングのときも終始、暗く硬い顔をしていた。

 「これからも何人か卒業することになるだろうし、二人は慣れておかなきゃね」と、さーりんがことばをかけるが、みおみかはうまく話せずに青ざめたままだった。

 みおみかの失踪が発覚したのは二日ほど経ったあとだった。

 次のミーティングの日、みおみかだけが来ず、取り立てて連絡もなかったため、スタッフが彼女の家に行ったが、不在だったという。その不在というのも、アパートの彼女の部屋には鍵がかけられていなかったのだ。置手紙には「まぁたぁ」でアイドルをつづけるのは無理だと書かれてあったらしい。死ぬのが怖くなって逃げ出したにちがいなかった。

 だがアイドルという信教のもとにあるメンバーたちには、みおみかの失踪ががみたんのあと追いに見えていた。私たちはアイドルとして、与えられたまばゆい生を精一杯まっとうせねばならないから、メンバーの卒業にさいしてみずからも死ぬことに反感を抱くメンバーがほとんどで、契約書にもそうあるとスタッフの一人が契約条項をあらためた。卒業にかんする部分では次のように定められていた。


・「まぁたぁ」は、アイドルというひとつの信念のもとに生き、それゆえアイドルとして死ぬこと(以下、殉教)を目標とした、アイドル・グループである。

・殉教は、契約満了(以下、卒業)の当日、対象のアイドルが行う。

・対象のアイドルの卒業の当日に開くライブを、当アイドルの卒業ライブとする。

・卒業期日は、総合プロデューサーの判断による。

・殉教は、絞首台を用いた縊死による。

・殉教は、リーダーもしくは副リーダーがこれを補佐する。

・殉教は、ほかの「まぁたぁ」所属のアイドルとその支援者(以下、ファン)の立会いのもとで行う。

・事故による死亡等やむをえないばあいを除き、いかなる「まぁたぁ」所属のアイドルも、卒業ライブの定められた計画時日より先に、自死・失踪等の、殉教を未達にする行為をすることは認められない。

・もし自死・失踪等により殉教が未達になり、かつ、当アイドルの肉体が確保できないばあい、あらかじめ採取・保存している当アイドルの毛髪と、そのライブ衣装を、ほかのメンバーならびにファンの立会いのもとで焼却し、これを殉教に替える。

・もし自死・失踪等により殉教が未達になり、かつ、当アイドルの肉体が確保できたばあい、総合プロデューサーは、卒業以前でも殉教を施行できる。


 このままみおみかが現れることなく契約期間が過ぎれば、形式だけの殉教になるだろう。しかしこれは「まぁたぁ」スタート以来、はじめての事件だった。スタッフは警察を介入させず自力で捜索しようと試みていたが、彼女の足取りはいっこうにつかめなかった。

 みおみか不在のまま、定期ライブでの新曲披露に向けた練習が始まった。そのころになって、練習のあと、ふねこは、自分がみおみかと最後に会話した人だと私に打ち明けた。スタッフの送迎車に乗らず、二人で松屋に行き、隅の席で話した。

 「どこに行くとか言ってたの?」

 「いえ、そういうふうなことは言ってなかったですけど……。まさかほんとうに死ぬとは思ってなかった、メイド喫茶のメイドくらいの気持ちでしかアイドルをやっていないから死にたくない、と」

 契約したからには殉死する、これは絶対だ。捜索はすぐに打ち切られて、スタッフたちはまた運営に力を注ぐようになるだろうが、契約違反があったことには変わりない。

 「別にふねこが怒られるわけじゃないから」と私は慰めるつもりで言った。「いくらみおみかの話を隠してたからって、本人がどこに行っちゃったかはわからないわけだし。ふねこはこれからもちゃんとアイドルとして生きて、アイドルとして死んでくれたら、誰も文句言わないよ」

 注文していた牛丼が来て、私は食べはじめたが、ふねこは気が乗らないふうだった。

 「よあよあさんはそれでいいんすか?」

 「何が」

 「卒業とともに、死ぬっていうことが」

 「だからなったの」と私は言った。

 「アイドルっていう憧れの存在になって、その夢を何年か幸せなまま持続させられたら、あとはもう老いてみすぼらしくなる前に、かわいい私のままで、きれいさっぱり死にたい。殉教がいいなと思ったから、「まぁたぁ」に入ったの」

 ふねこにはそういう意気ごみがまるでなかった。彼女もまた、みおみかと同じように、軽い気持ちでアイドルになったようだ。

 「じゃあ今はそれでもいい。死ぬのが怖くてもいい。でもまだ卒業は先だろうし、これからみんなの死ぬところ見ながら活動してたら、だんだん殉死も悪くないって思えるかもね」

 ふねこは結局うつむいたままだったが、ぬるくなった牛丼をどうにか食べきる余力はあった。笑顔だけは忘れずに、と私は言った。

 別れたあと、ダイエット中なのに余計なものを食べてしまったと思い、私は夕方の公園で思いつきのランニングをし、家で腹筋をして、意味があるかもわからない帳尻合わせをした。

 体を動かし、息を切らし、筋肉を使っていると、体に熱が生まれる。火照り、指の先・足の先まで血の巡る感じがすると、生きているのだ、と思う。私は生きている。家で半身浴をする前、鏡で自分の裸体を点検する。胸を反り大きく息を吸えばあばら骨がはっきり筋を作るくびれた体の下に、心臓があり、肺がある。私は生きているのだ。比較的健康な二十一歳として、将来老いるまで、きっと大きな病気はせずに生きるだろう。だが今の私はアイドルだ。アイドルとして生を営み、その生をアイドルとして終結させる必要のある「まぁたぁ」の夜明よあだ。私はいつか殉教するだろう。アイドルという信仰のなかで、縊首のバプティズムを受けることがとうに決まっている。いつ? もとの、ふつうの人間だった私をともなうこの命との永訣の直後からはじまる、永遠無時の暗闇は、いつ来るのか? 思いつきの運動や、ダンスの練習のあと、ライブが終わり楽屋へ帰るとき、もっと生きたいとたしかに思う。体に湧いた熱を喜ばしく思う。それでも殉教はまるで怖くない。いつかそのときになるだけだ。誰も悲しまない。私は私の本懐を果たすだけだ。

 私は家出した。母が再婚した義父は、私にはとても受けつけられないひどい男だった。自分の性と力をぞんぶんに振るい、すべてを征服し貪ろうとする人間。義理でも娘になったはずの私から、ものも金も体も、あらゆるものを搾取しようとした。母は殴られつづけたせいで考える力を失って、抜け殻のようだった。

 義父にいたぶられて生きるよりは、さまよったすえに飢えて死ぬほうがよい。すくなくとも義父を離れ、家を離れて死ねるのだから。よくわからない男にむちゃくちゃに犯されて死ぬのであれ、野宿で衰弱して餓死するのであれ、何でもよかった。義父から逃れられるなら何でもいい。

 そのとき出会ったのが「まぁたぁ」のスカウトだった。残りすくない金でコイン・ラウンドリーを使ったので、そのときは久方ぶりに清潔な服を着ていたが、雨に吹き晒されたあとの脂ぎった髪と肌で表情はずいぶんひどかったと思う。自分の爪と半額の菓子パン以外にここ数日何も食べていなかったからやつれていただろう。

 事務所に車で連れていかれた。そのときスカウトの男が悪い人間であれば、そのままレイプされたりアダルト・ビデオに出演させられたりしてもおかしくはなかった。それでも私は義父より気味の悪いものはないと思っていた。だから義父でなければ何でもよかった。車はビルの地下駐車場へ潜り、適当なところに駐まった。

 私は事務所内のシャワー室で何日ぶりかのシャワーを浴びた。会議室のような長机ばかりの部屋でごはんを与えられて、食べた。スカウトの男が、女と交代した。

 「家出でしょ?」とその女は言った。「悪いやつに捕まって惨めな思いするより、最後にアイドルやってアイドルとして死にたいと思わない?」

 ≪アイドルとして死ぬ≫ということばは、そのとき私の前に燦然と輝いた。これほど強烈なことばはなかった。あの母親と義父の娘として死ぬのでもなく、家出して野宿のさなかに死ぬのでもなく、アイドルになって、≪アイドルとして死ぬ≫。何もないなら、死ぬしかないなら、いっそアイドルになって死にたかった。ほかのメンバーもだいたい同じだ。家族とうまくいかずに家出をして、街を歩いているところに声をかけられ、アイドルになった。殉教しても、家族のだれにも知られないままだろう。

 それからの定期ライブは、いつも来ていたファンが何人か来ていなかった。メンバーが卒業するといつもそうだ。自分の推していたメンバーが殉教すると、あと追いするファンがいる。私たちはアイドルとして生きたのだからアイドルとして死ねるが、ファンはどう突き詰めても、私たちを追いかけている外部の存在でしかない。結局は、ただの人間にすぎない。ファンとして死ぬのでなく、きっと単なる一人の人間として死ぬだけだ。

 定期ライブのあとの握手会は、感染症対策の透明な衝立を介して、受話器越しに話す。海外の刑務所みたいだとみんな話す。私もそう思う。

 ファンのなかには、やはり、よあちゃんが殉教するときは俺も死ぬから、と話す人がいる。三回忌くらいまでは生きていてくれ、とだいたい返す。

 そのときは十人ほどが私のもとに来て、話した。だいたいこんなものだ。

 最後の一人が受話器を取った。フードを目深にかぶった女で、若く見えた。

 「こんにちは。来てくれてありがとう」と自分のキャラクターに合わせ、静かに私は言った。

 「お疲れさまです、よあさん」

 女はフードをすこし持ち上げ、顔をわずかばかり私にだけ見せた。海丘みかだ。彼女は口元に人差し指をつけ、しゃべるなと私に合図した。

 「騒がないで聞いてください、よあさん。ふねこの家に行っておきますから」

 海丘みかはまた顔を隠し、足早に出ていった。誰も彼女に気づいてはいなかった。



 スタッフの車で送られるとき、ふねこといっしょに降りた。ふねこはずいぶん緊張していた。みおみかちゃんはもういます、と彼女は囁くような声で言った。二階建ての単身者向けアパートだった。

 ふねこが鍵を開けると、海丘みかが出てきた。ふだんになく硬直した顔だった。十八歳、九州出身の無垢な女。

 玄関から部屋の全体が見渡せる、廊下の途中にキッチンがあるワン・ルームに、三人が肩を寄せ合って座った。互いが探るように、あるいは単に言いだしにくいがために、沈黙していた。

 「なんで私なの」私が最初に口を開いた。

 「よあさんが、いちばんまともそうだったから、です」

 「まとも?」私は海丘みかを見た。

 「ほかのメンバーは、明らかに殉教を何よりもよいものとして見てる、というか、洗脳されてるっていうか、そういう感じがしたんですけど、よあさんだけは違う感じがしてました」

 「私だって殉教したくって「まぁたぁ」やってんだよ」

 ふねこには言ったよね、と彼女を見た。ふねこはやりづらそうにうなずいた。「それでも、いちばん中立的な感じはしてます」

 「それで、どうするの?」と私は冷笑ぎみに二人を見比べた。「殉教は止めてほしいっていうの?」

 「だっておかしいです。卒業のときに死ぬなんて」

 「でも契約書読んだんでしょ? さすがに説明なしなわけないと思うけど」

 「読みました。でもまさかほんとうに、ああして首つって死ぬなんて……」

 「アイドルとして死にたくないの?」

 二人は目をうち開いて私を見た。

 「いやです」と海丘みかが言った。

 「だから告発します」

 「告発?」

 「どうせ殉教なしで脱退するなんてできないでしょうから、私とふねこの二人で、    「まぁたぁ」がやってること、警察に全部話します。殉教なんて言ってるけど、これ殺人ですよ」

 海丘みかの口ぶりは、なぜか私へうかがい立てるようだった。

 その日は湿気が強く、鼻につく水のにおいや、乾ききっていないような肌の感触が不快だった。

 「みんな殉教したくてここにいるの。契約までしたんだから。告発なんか絶対に許さない」

 海丘みかの目はしんけんな鋭さをやわらげ、憐れむような冷ややかさを帯びた。息をつき、彼女は微笑した。

 その日はそれで終わった。交渉は決裂し、海丘みかと私のあいだには音のない決定的な隔たりがそびえた。ふねこは私を玄関まで見送った。済まなそうな顔で、お気をつけて、と言った。

 海丘みかからの文書が事務所に届いたのはその二日後だった。それはふねこと連名で、「まぁたぁ」の殉教なしの解散か、告発かのどちらかだと突きつけてきた。スタッフは始終、小さな声で議論し合っていた。ふねこは当然いない。ほかのメンバーは心配げな表情でひそひそと話していた。殉教ってそんなに悪いことなの、犯罪じゃないよね、みおみかまじめだから、等々。

 私がふねこの家に行っていたのを知ったスタッフが私を呼んで聴取する。会議室だった。

 告発のことを数日前には知っていたのか、そうだ。

 では、なぜわれわれに言わなかったのか、わからない。

 わからない?

 わからない。

 しかし彼女たちの警告を突っぱねて活動をつづければ、当然告発されて、こちらが不利になる。となれば解散しなければならない。ただ、殉教なしでという条件を向こうはつけた。スタッフからすれば、海丘みかと方舟のあの二人がどれほど本気かはわからないにせよ、恒例行事なしで解散するほうがいっそう穏当だ。警察やメディアが絡み、プロデューサーらが逮捕されておかしくない。だがアイドルの私たちは、「まぁたぁ」の私たちは、力みなぎる若いあいだを華やかな存在として輝いてまっとうしたい。みずからが一度信じたものを放棄することなしに、何にも邪魔されることなく貫徹したい。アイドルとして精一杯生きてから、殉教したい。この対立はいつまでも解消されず、スタッフと私たちとのあいだで一日中、ことばが交わされた。強引に解散ライブを敢行し、全員いっしょに殉教などすれば、二人はなおさら通報するにちがいない。

 スタッフたちに迷惑がかからないように、どうにかして殉教だけは残せないか。

 やっぱり海丘みかと方舟のあが邪魔だ。

 なら、二人を殺して、「まぁたぁ」をつづけるのがいい。

 私たちは二人を殺すことに決めた。私が声をかけると、ほとんど声に出さず、目くばせだけでみな得心した。スタッフにはないしょだ。事後報告でいい。

 自主練を≪珍しく≫全員でやり、その後のスタッフをはずしたミーティングのときにそのことを本格的に話し合った。呼び出して、私たちだけで二人を殉教させる。アイドルとして美しいままの天使にする。

 「絞首台はどうするの?」

 「さすがに運べないよねえ。手で絞めるしかないんじゃない?」

 「そうしたら、誰がやるのか決めなきゃね」

「一人はまーしーだとして……」

「よあちゃんは?」るななみが言った。「二人と話したんでしょ?」

「うん」

「そういえば、なんで告発の話、スタッフに言わなかったの? 二人と話したときには知ってたんでしょ?」まーしーが尋ねる。

「どう言ったって、結局、無駄だと思った、から。私からどんなに言ったって、向こうは絶対に気持ちが変わるはずがないし……。そしたら、どうやっても告発されるし、スタッフにあらかじめ言ったってどうにもならないと思った」

「でも報告はできたよね?」

「うん。そうだね。ごめん」

「まあ、じゃあ、よあよあがふねこをお願いね」

それから、どこへ二人を呼び出すか、遺体の扱いはどうするか、等々を話した。


 計画どおり、事務所の会議室に二人を呼び出すと、海丘みかと方舟のあはすなおに来た。二人は私たちが本気で説得しようとしているのだと思ったらしい。

 長机が正方形に並んだうち、部屋の入口の一辺に二人を座らせ、残りの三辺に上座・下座の関係なくほかのメンバーが座った。

 「どんなに言われても、先輩たちがやってきたことがおかしいのは変わらないと思います」

 「ほんとに、ただアイドルやりたかったから「まぁたぁ」に入ったの?」とまーしーが聞く。

 海丘みかはうなずいた。方舟のあも遅れて同意した。

 「でもそれって契約書をろくに読まなかった二人に落ち度があるんじゃん。だいたいプロデューサーにもとりあえず一回聞いてみるでしょ、変だなって思ったら」

 でも、と海丘みかは言い淀んだ。

 もちろんこんな話し合いに意味はない。二人は殉教を否定しとおすだろうし、私たちは固持するだけだ。議論がまともにできるはずがない。

 日曜日の事務所は静かだった。数時間だけとスタッフに開けてもらい、待機してくれている。説得のため、と私たちは言った。殉教させるためだとは思わないだろう。

 はるか遠くまで静かだった。救急車が外を走っていた。

 しばらくの沈黙のあとで、たみゅが、でも告発はまずいもんなーとつぶやく。これが合図だ。まーしーが、二人の突きつけた解散か告発かの二択のうち、解散を選ぶことを伝える。二人は安堵したようだ。自分たちの思いが伝わった、やっぱり殉教がおかしいという意識は誰もが持つものなのだ、という確信に満ちた、誇らしさの混じった安堵の顔。違う。メンバーの誰にとっても、≪アイドルとして死ぬ≫のは絶対だ。邪魔なのはアイドルごっこで終わらそうとしている二人だ。

 仲直りと別れの握手を、とまーしーと私が二人に向かい、みんなが私も私もとあとにつづく。方舟のあは緊張した顔つきだが、海丘みかは感動すらしているようだ。それがそのときはずいぶんおもしろく見えた。

 面と向かうとすぐに手を差し出してくる方舟のあのその手を取らず、私は彼女になかば飛びこむようにして首に手をかけた。まーしーが海丘みかにやったのと同じタイミング。みんなは両側からいっせいに集まり、長机をどけ、みおみかの、ふねこの手足を持って床に倒す、口をふさぐ。私は夢中でふねこの首にかけた手へ力をこめ圧する。祈り手に結ぶように絞めるため、両手のあいだに挟まったその首を潰すようだった。ふねこは抑えられた手足をもがきながら首を振り泣く。死にたくないという顔。笑顔、笑顔だよふねこ、と私は言った。ふねこの首の熱の感触が生ぬるくて気持ち悪い。

 「ふねこ、だいじょうぶ。アイドルとしてきれいに終えようね」

 「よあよあがちゃんとやってくれるから、ほら笑顔!」

 「がみたんもほかの先輩も、みんないるから、だいじょうぶだよお」

 向こうで、み・お・み・か、み・お・み・かと聞こえた。最後のコールだ。さーりんはみおみかのソロ曲を口ずさむ。私もふねこの曲を歌ってあげた。ふねこの、やだ、やだ、という口の動き。


 ふねこの顔が青くなる。


ふ・ね・こ! ふ・ね・こ! ふ・ね・こ!


ふねこの体が痙攣する。


ふ・ね・こ! ふ・ね・こ! ふ・ね・こ!


ふねこの体が動かなくなる。


ふ・ね・こ! ふ・ね・こ! ふ・ね・こ!


 終わった。オフ。海丘みかと方舟のあは卒業。真玉しのと夜明よあの手を借りて、無事に殉教できた。私たちの代わりに、るななみとさーりんが、動かなくなった二人の首をそれぞれさらに五分、締めつづけた。いつも麻縄だったから、うまく殉教させられたか不安だった。赤黒くのぼせたような顔はそんなにきれいじゃない。二人とも顔が涙で濡れていた。

 たみゅとなぎみん(凪海せな)がスタッフを呼びに行った。血相を変えたスタッフが来て、二人の脈を確認する。脈はなかった。殉教。むりやりな作戦だったが、どうにか成功した。

 「でも、うまくできなかったかも。みおみか苦しそうだった」

 「ね、踊ってるときの笑顔、すごくかわいいのに」

 「ふねこも苦しそうだった」と私は言った。

 事務所にいなかったスタッフたちが招集されて、二人の体が運び出された。別にスタッフの誰も怒りはしなかった。規定であれば≪絞首台を用いた縊死≫だが、用意できそうになかったから、急遽メンバーの手で絞め、殉教を手伝ったのだ、と誰彼なくひとりごとのように言い合った。私たちはそのまま帰らされた。明日は緊急でミーティング、あさってはもしかしたら二人の葬儀、とその場で決まった。

 やることはまだある、と私は思った。みおみかとふねこを、卒業ライブなしに殉教させたのだから、ファンには謝らないといけない。あと出しでもいいからそのための特別ライブを行うべきだ。そのこともきっと、次のミーティングで話されるだろう。



 その夜、長風呂でスマホをいじっているときにスタッフから連絡が来た。

 「ミーティングはあす月曜日、午後一時開始。いつもの会議室。二人の葬儀は火曜日。葬儀場まで手分けして車で送ります」

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