BIRTH  作:西山太一

 ——‼ ——‼

 赤ん坊の泣き声がする。男は階段を下っていく。

 男は、新たな命を授かっていた。正確に言えば、授かっているのはその妻であるが、男はもうすぐ、その汚れなき脆い命を、その手、足、身体をもって、立派に育ててやらなければならない。やがてはこの社会の荒波に自信をもって送り出す。それまでは、男は何があろうと死なないつもり、その覚悟だ。

 ——‼ ——‼

 階段を下っていく。下っていくにつれて泣き声が大きくなる。きっと下にいるのだろう、と男は確信を募らせていく。

 赤ん坊の泣き声。どうも、これは単純にその音量なのか、音圧なのか、周波数か声の色なのか、よく分からないがすべての人間に危機感を与えるものだと男は感じる。

 下で赤ん坊が泣いている。

 そう男が気づいたのは、さっき、階段を上っているときだった。

 二つの高い壁に挟まれた、狭い階段。壁に絵画や自画像なんかを飾っていたりする洋屋敷のような趣のところであるが、そのようなものは何もない。見上げる階段の先は暗くて、そこに続きがあるのかどうか定かではないが、男はなりふり構わず上っていく。男にとって、その階段は上るしか選択が無いものだった。

 延々と、延々と、男は階段を上っていく。

 ——

 あるとき、男は何か、形あるもの、音、を耳にした。それは心の中で現れた音かもしれなかったが、しかし、もう一度耳を澄ましてみると、確かにそれはどこかで鳴っている音、誰かが発している音に違いなかった。

 ——‼

 下で赤ん坊が泣いている。

 男はそれで、後ろを振り返った。そして、男にとってはこれまで上るしかなかった階段を、初めて、下り始めた。

 不思議なことに、下りの道は随分と明るいのだ。視覚が捉えきる範囲の遠く遠くまで、階段が続いていることが分かる。

 そして不思議なことに、壁にはこれまでの人生で男が経験してきたことの中で、最も鮮烈な瞬間たちが絵にして飾られていた。

 ——ああ、これは妻と初めて会ったとき。

 大学三年の春、妻は一年生で、ある日、学食の相席になった。

 「お弁当ですか?」

 年下の女子が何か言って来たな、くらいにしか男はそのときは思っていなかった。その女子はAランチの盆を机にガタ、と置いた。

 「節約だから」

 男は短くそう言ってすぐに食べ終わり、弁当箱をたたんで席を立った。

 その次の日、その女子とまた相席になった。今度は偶然ではなく、「あ、いたいた」と言って男の目の前の席に座ってきたのだ。

 「弁当かい」

 男はそう言った。座ると一緒に、その女子は風呂敷包みの弁当箱を机にコトンと置いたのだ。

 「そ、節約だから」

 悪戯っぽく言ってきた。面白い子だな、と男は感じた。それから毎日、学食で相席になった。いつの間にか、二人は恋人になっていた。

 いまじゃ夫婦。いつどこで将来の伴侶と出会うかなんて知れないな、と男は絵を見て思った。言われてみれば、Aランチをガタ、と目の前に置かれたときに、どこか運命めいたものは感じていた。ピタ、と何かが一致したような感覚だ。

 男は、階段を下っていく。

 妻ともこれまで、いろいろあったな。

 甘い思い出に浸りながら階段を下っていると、やがて次の絵が見えてきた。

 今度は、——これは、上京するとき。

 大学受験に成功した青年は、ついに施設を出て行くことになった。記憶もないような頃からこれまで、母親同然に青年を育ててきた保母のマミさんは、

 「いいの? 園長」

 と青年に言った。青年はもう五年くらい、園長とは疎遠になっていた。

 「いいんだよ。俺がいなくなったことにも気づかないさ」

 言って、青年は施設を後にした。

 「カン」

 くたびれた駅のホームの前まで来ると、見慣れた老人が立っていた。

 しかし、青年は足を止めずに、その老人のすぐ近くを素通りした。本当は、感謝の意をその人物に伝えなければならなかった。天涯孤独だった俺を、今日まで育ててくださってありがとうございます。そう、誠心誠意こめて。

 でも言えなかった。言う気はあった。勇気がなかったのだ。

 「カン」

 青年が素通りしたところで、老人はもう一度そう言った。それで青年は、ピタと足が止まった。

 「元気でな」

 青年は目からジワリと滲む涙を拭きもせずに、振り返って深々と、その老人に頭を下げた。

 「ありがとうございました!」

 そう、あの時だ、と男は思った。

 もう、園長も保母のマミさんもこの世にはいない。あれが、男にとって最後の別れだった、

 階段を下っていく。次は何があるのかと、少し男は楽しみを持った。

 次は、——中学三年の夏。体育祭でクラスリレーのアンカーを務め、優勝したとき。

 次は、——中学二年の春、帰りが遅い日が続き、園長から説教。つかみ合いになり、力加減を誤って園長を突き飛ばしたとき。

 ここから園長と疎遠になったんだな、と男は遠く昔のことを思った。次は、

 ——小学五年、地域のチームで野球を始めた最初の練習。

 この頃から、悪い先輩のグループに入ってしまった。

 ——小学一年生。親のいない授業参観で、クラスメイトから揶揄され喧嘩になったとき。

 ——幼稚園の年中組。施設以外のトイレで、初めて用を足したとき。

 これはなぜだか、鮮やかな記憶として残っている。

 男は、ああ、そうそう、こんなこともあったな、と絵を見るたびに思いつつ、次は何か、次はどんなものかと、ワクワクした気持ちで階段を降りて行った。

 しかし、

 ——‼ ——‼ ——‼

 飾られている絵に夢中になっていた男は、すっかり忘れていた。下の方で、赤ん坊がずっと泣いているということを。

 急がねば。

 男は階段を降りるスピードを上げた。


 ——あ、これは。

 急いで降りている途中、男はやがて、とある一枚の絵に辿り着いた。それは、まだ白髪とシワの少ない園長が、見たことの無い家の中で、赤ん坊を抱きあげているところ。

 いままでの絵は、どれも男がこれまでに経験してきたことだった。

 となるとこれはつまり……

 ——⁉

 男は、ピンときた。これは、園長がまだ赤ん坊だった男を助けた日。

 その赤ん坊は、男だった。

 泣いているその赤ん坊の両親はつい先日、二人とも暴走トラックにはねられて亡くなっていた。その赤ん坊は誰もいない家の中で、二日二晩、泣き続けていた。

 もうすぐその力も突き、ヒトとしての生命反応が断たれるかと思われたころ、通りすがりのある人物、つまり児童養護施設の園長が、窓を割って助けに来てくれたのだ。

 「もう大丈夫だ」

 絵の中の園長は赤ん坊を優しい腕で包み上げ、そう言っているように見えた。

 ——‼ ——‼ 

 下で赤ん坊がずっと泣いている。男は下るスピードを上げる。

 ——赤ん坊の泣き声に敏感なのは、園長譲りの本能かもしれないな。

 そんなことを男は思った。


 やがて、男は階段を降りきった。

 しかし、

 ——‼

 赤ん坊の泣き声はずっと止まない。どこからそれが聞こえてきているのか、ここからずっと遠い場所からなのか、分からない。

 階段を降りきりはしたが、まさか、赤ん坊はまだこの先なのか。

 男は走った。泣き声のする方へ、一本の細い廊下を。

 「おーい」

 「いるのかー」

 確実に、泣き声は大きくなっていった。しかし、この先に赤ん坊が見当たる気配がない。

 ——……!

 泣き声が、次第に小さくなり始めた。当然と言えば当然の話、その赤ん坊はずっとずっとさっきから、泣き叫んでいるのだ。生命反応が徐々に徐々に絶たれていく。

 「大丈夫かー!」

 「頑張れっ!」

 「もうすぐだ! もうすぐ行く!」

 男は、そう声を上げながら、ひたすら走った。

 やがて、目の前に扉が現れた。スライド式の扉だった。

 それを身体の動きで勢いよく開けると、突然、男は病室みたいなところにいて、そこで誰かが出産している光景を、目の当たりにしていた。

 「あっあっあっ——、フゥフゥ——、——くっグググッグ……!」

 誰かは知らない。かなり難産のようだ。

 ——!!! ——!!!

 これまでよりずっと大きな泣き声が聞こえた。

 はっ。

 男はそれで気づいた。その鳴き声は、この妊婦からしている。つまり泣いている赤ん坊は、この妊婦のお腹の中にいる。赤ん坊は、そこにいる!

 気が付けば、男は「頑張れっ! 頑張れっ! もう少し、もう少し!」とその妊婦、いや、その妊婦と中にいる赤ん坊に、声援を送っていた。

 「ギャーー‼ オギャーー‼」

 やがて、赤ん坊が妊婦のお腹から出てきた。今度は遠くに聞こえるものじゃない、しっかりとした肉声で、男の耳にはその赤ん坊から、泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

 よかった。

 男は心底、ホッとした。胸を撫で下ろし、深く深く、息を吐いた。

「涼子っ!」

 男の後ろから飛び出し、妊婦の下へ凄い形相で駆けていく男がいた。妊婦の夫らしい。

「よく頑張った! 俺たちの子を、よく産んでくれた!」

 夫に手を握られている妊婦は、気力を使い果たしてしまったのか、ほとんど反応を見せなかった。しかしその表情は、にこやかに落ち着いて、微笑んでいた。

 スライドドアの入り口から男はその表情を見ていて、やけにホっと、心が落ち着くのだった……


 「木島さんっ」

 呼ばれて、木島貫太郎は目を覚ました。

 「——はい」

 「もうすぐ、生まれそうです」

 ——⁉

 貫太郎は、いま見ていた夢とこの現実との焦点をはかり、そしてすぐに、そうだ、もうすぐ俺たちの子が生まれるんだ、と思い出した。

 付き添いは中には入れないようになっている。出産が行われている部屋の外で、前のめりにソファに座っている貫太郎。

 頑張れっ、のぞみ。頑張れっ、俺たちの子!

 神に祈る念を込めて絡めた両手に、額を付けて心の中でそう叫ぶ。

 何分か経ったが、それは男にとっては何時間にも、いや、何日にも思えた。

 やがて——

 「ギャーー‼ ホンギャーー‼」

 扉の向こうから、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。それは神の言葉よりもずっと偉大で、黄金の鐘よりもはるかに荘厳な響きをして、貫太郎の耳に聞こえてきた。

 生まれた!

 男は思った。それと同時に、さっきまで見ていた夢を思い出した。

 俺もいつの日か、こうして生まれたのか。

 これまで生きて来て、「なぜ俺は生きているのか」と自問したことが何度もあった。天涯孤独に放り出されて、それでもなお、男は不思議と生きてきた。

 なぜ俺は生きているのか。なぜ俺はあの日、生かされたのか。

 それは——

 「ギャーー‼ ギャァーー‼」

 命をつなぐため。次の世代に。

 扉の向こうから聞こえるバトンを受け取ったばかりの命の雄叫びを、貫太郎はしばらくの間、眺めていた。

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