食卓と耳たぶ
「そういや、そろそろ有人星に着くよ」
ひとしきりポテトワッフルに騒ぎ、写真を撮り、皿のいろいろな角度から眺め回してポーチドエッグをつつき、大仰にそこへナイフを入れてようやく、朝食をとり始めたまどかがそう言った。
「ニィさんはよその星に降りるの初めてだからさ、楽しみなんじゃない?」
「……この間、食料を買い込んだところは有人星じゃないのか?」
仁の問いに、まどかは首を横に振った。
「あれは厳密には星じゃないの。星に見えるけど、人工的に作られた補給用の場所。浮遊衛星って言って、このあたりは銀河系の中でもまだ有人星が多いところだから、むかーしに作られたそういうのがたくさんあるんだ」
フォークで卵の白身をぺろんと引っ掛けながら、少女は続ける。
「ニィさんとこの星の近くにもあったんだけど、星の爆発に巻き込まれたら困るからちょっと遠くへ退避してたみたい。ま、それでなくともあの星は土が食べ物を作るのに適していたし、外に出る人も少なかったみたいだから、あんまし縁はなかったよね」
「……そうだな」
「これから飛んでいく先には他にもああいうところがたくさんあるよ」
そうか、と頷き、食後のコーヒーを淹れる。自分の分はミルクと砂糖を、食後には甘くないものがいいと言う雇用主にはミルクだけを入れて渡すと「ありがと」と笑顔とともに受け取られた。
「この調子なら宇宙標準時の明日夕方には着くと思うから」
「そうか」
〈到着地点の基本情報は貴方の端末に送ってあります。閲覧しておくと、行動計画などが立てやすくなるでしょう〉
「ありがとうな、ナナさん」
まどかの向かい側に座り直し、自分の携帯端末の画面を開く。送信されてきたデータに目を通していると、「普通に栄えてて移住先にはならなさそうな星だから、そんなに長居する気はないんだけどさ」と軽い声がかかった。
「でもニィさんとはほら、約束してたでしょ」
「約束?」
「今回の星、人はたくさんいるし結構しっかり街だから」
まどかがにこっと笑う。
「次のところが過ごしやすそうなら、いつでも出て行っていいからね」
——咄嗟に、言葉を返せなかった。辛うじてああとかうんとか言ったような気はするけれど、気付けばまどかは食事を終え「ごちそうさまでしたーっ!」と元気に声をあげて食器を洗いに行っていた。なぜだかそれに反応の一つも返せず、仁は手もとのマグカップに視線を落とす。
そういえば、そうだった。このひと月、のんびりと二人と一機(一人工知能?)と暮らしていたからつい忘れていたけれど、自分がここへ拾われた時の条件はそんなものだった。「ピンクの髪でネックレスつけてお菓子作って生きてっても奇異の目で見られない土地を探してみよう」なんて——そんな、吹けば飛ぶような軽さだけどその時の仁には希望に見えた言葉が、自分達の間には置かれていたのだった。
忘れていた、わけではない。その気持ちは今もある、と思う。ただ、ひと月も同じ船の中で毎日顔を合わせて、食事を作って食べさせて、暇な時にはカードゲームをしたり、宇宙を旅するために必要な知識を教わったりと生活していく中で、この船にもこの船の持ち主にも、情が芽生えないわけはなかった。立場上は雇用主で、船長で、料理人で、船員だったけれど、同時に友人のような親しみを覚え始めている。歳の離れた妹のようにも、知らないことを教えてくれる先達のようにも思える彼女との生活を、心地よく思っている己がいる。
(だが)
どうやらまどかのほうは違うらしい。あっけらかんと「約束」を思い出させたくせに、それが重大なことだとも思っていないようで、食洗機の中に皿を入れるとコーヒーを持って「じゃ、勉強の時間だから部屋にいるね」と手をひらひら振って戻って行った。
茫然と——茫然としている自分に対して、茫然とする。気に入っていたシャツの裾がほつれているのを見つけたような、あるいは買ったばかりの靴下にもう穴が空いてしまったような、そんな虚脱感。寂寞と呼ぶには平凡すぎる、心にぽこんと開けられた穴。
(あいつは違うんだな)
たぶん、そういう、突き放されたような感覚だ。共に重ねてきた時間の中で自分と同じくらいには情を抱いてくれているものだと思い込んでいたのがそうではないと思い知らされた。
〈仁、どうかしましたか〉
ナナの声にはっとする。端末の画面はいつのまにか暗くなっていて、ミルク入りのコーヒーはぬるくなっていた。
「……いや、何でもない」
熱を忘れぼんやりした味になった飲み物を流し込む。
〈データの中にわかりにくいところがありましたか? 補足情報が必要であれば聞いてくださいね〉
「ああ……いや、データは、大丈夫だ。実際に降りないと何もわからないと思うし」
〈そうですね、そのような考え方もあります〉
無機質な声は、仁を慮ることをしない。こちらの感傷など理解できないし、気にかけるようなシステムではないのだ。
まどかの「いつでも出て行っていい」という言葉だって、別に悪意があるわけではない。食事に頓着しないのと同様に、彼女は仁にも頓着しない。たぶん、それだけのことだ。そういう奴の使っている機械だって同じだろう。
「……俺も部屋で読むよ、これ」
〈はい。何か必要な時は、声をかけてください〉
それでも、次に辿り着く星がどのような場所か、なんて。そこは自分にとって生きやすいところか、なんて。……なぜだか今は、考えたくないと思った。
☆
どこか不貞腐れたような気分で部屋に戻った後、結局行き先のデータに目を通すことを諦め、代わりにナナの保有するさまざまなデータベースからいくらかのレシピを探して眺めていた。それから試したいものを考えて食糧庫を覗き、自室へ帰る途中、名前も知らない星々を窓から眺める。それなりの速度が出ているはずなのに遠いところにある星はあまり動いていないように見えるから不思議だ。何の法則、だったか。
機械が駆動する音だけが静かに鳴る。一人になればささくれだった心も落ち着いてきて、むしろまどかの言葉ひとつをこんなに気にした自分が恥ずかしくなるほどだった。まどかは自分達の間に交わされた約束を思い出させただけだというのに、こちらばかり感傷的になってしまうなど。
「みっともない、な」
ぽろっと溢れた言葉は、仁にとって馴染み深いものだった。大きく息を吐く。メイクや料理、指輪やピアスに興味を持ち始めたばかりの頃からよく向けられた言葉の一つだ。父が、祖母が、口にしていたその言葉がどうやら今に至るまで刺さっている。女の子のような趣味は、気質は、男が持つには「みっともない」と。
どちらももはやこの世にはいないのだから忘れてしまえばいいのに、その言葉は今でも顔を覗かせてくる。自分が「男らしく」ない感傷を抱いている時などにふっと、祖母の厳しい声が脳裏で響くのだ。
(男の子が、そんなめそめそみっともない)
「……わかってる、わかってんだよ、わかってるんだけどさぁ」
ガリガリと頭を掻き毟るとせっかく結っていた髪がぱらぱらと落ちてくる。その鮮やかなピンク色を見て手が止まった。仁はゆっくり息を吸う。そうだ、別に、誰も仁を責めてはいない。仁の料理をまどかは喜んでくれているし、感傷だって表には出していないのだから問題はない。ないはずだ。
「……よし」
みっともない、という脳裏の亡霊の声をどうにか鎮め、仁は背筋を伸ばした。まどかが自分をいつ出て行っても構わない相手だと思っていようが、その感傷が「男らしく」なかろうが、今の自分の仕事は料理で、自分は自分の生き様を貫いていける場所に辿り着くためこの船に乗っている。それ自体は変わらない。何も。
「昼飯、準備するか」
昼は魚をムニエルにしよう。夜は肉をトマトでじっくり煮込んで、そのソースを明日の朝のパスタに使おう、と算段を立て、仁は歩きだした。
☆
夕食の後はたいてい、二人とも何をするでもなく、セントラルルームで一緒に過ごしている。仁は黙って本を読み、まどかもソファに転がって端末でコミックを読んでいた。今日は午前中の勉強とやらが思い通りに進まなかったらしく、午後も難しい顔をしていたから、今がようやくの自由時間ということになる。
「そーいやさ」
静かな船内でふと、まどかが声を上げた。
「今日のニィさんのピアス、シンプルだけどかっこいいね。それ何?」
「あ? あー、黒真珠」
「真珠って黒いのもあるんだ? 染めたの?」
「染めたのもあるが、これは元々黒いものだ。真珠を作る貝の種類で色が変わる」
「へえ! そういうの、発見した人がむかーしにいたってことだもんね、すごいなぁ」
まどかが端末を置いてこちらへ寄ってくるのを認め、仁も本を閉じた。触れたそうにしているから大人しく外して片方渡してやる。
「ありがと。すごい、つるつる……でもない? でこぼこしてる。そっか、貝がくるくるって核を回して作るから層ができるんだ」
「そうだな」
仁は生まれ故郷の星を出たのはこれが初めてだ。だから、外の世界——星々の間を旅するような人間にとっての常識は知らないことばかりだけれど、地上の産業や文化についての知識はこちらのほうがよく知っていることも多い。真珠のできかた、なんて、仁のいた星ではちょっと辞典を捲ればわかるようなことだったけれど、そもそもアコヤ貝の知識を積んでいたって何にもならない船団で生まれ育ったまどかには初めて耳にすることだったらしい。
「本物の真珠って面白いなー」
しげしげと眺め回しているまどかに、真珠のできかたを教えたのはつい先日のことだ。
「いいな。わたしも何かつけよっかな、かわいいの」
端末の内カメラで映しながら、自分の耳たぶへピアスを寄せる少女に、仁は肩を竦める。
「つければいいだろう。穴は開いているんだし」
「つけるもの持ってきてないからなー。必要ないと思って母船に置いてきちゃった」
まあ、要不要で言うならば、そりゃあ不要なものではあろうけれども。仁はまどかを見やる。こういうものに興味を抱く年頃の少女のくせに、彼女は時折非情なほどに合理主義だ。きっと、彼女の「仕事」だとか育ち——地に足をつけようがなく、何はともあれまずはその「地」を探さねばならないという思想が息づいた育ちだとかのためだろうが。
「……あまりつけないでいると穴が塞がるぞ」
「それは困るなあ」
仁は顎に手をやり、少し考える。
「……次の星で、いいのがあったら見繕ってきてやろうか」
「え、いいの?」
「ああ」
まどかはぱっと笑い、身を起こしてピアスをこちらへ差し出してきた。
「じゃあね、じゃあね、シャラシャラするのがいいな。動くと揺れるやつ! 可愛いのがいい。ニィさんのセンスで!」
「わかった」
「約束だよ! 楽しみにしてるからね」
「ああ」
心のどこかで安堵する。とりあえず、これで「戻ってきてもいい」理由はできた。別に出ていけと言われたわけではないが。それでも、野良猫にでも言うような口振りで「いつ出て行ってもいい」なんていう少女のもとに、理由を携えずに戻れば出て行かなかったことにケチをつけられやしないかと——むろん彼女がその類の無為な言葉を吐かない人間であることは理解しているものの——不安に思わずに済む。
「……あんたは」
「ん?」
ピアスを付け直しながら、ほんの少し迷い、結局問う。
「……何色が好きなんだ」
「好きな色?」
きょとんとした顔でまどかは首を傾げる。
「うーん、何だろ。キラキラしたのとか好きだから、虹色? それじゃ好きな色って言わないか。いろいろな色があると可愛いかも」
「カラフルなのがいいのか」
「そういうのもいいなー」
「わかった」
仁は息を吐く。
聞いたけれど、たぶん、彼女に好きな色なんて概念はないのだろう。食事の好みの話と同じだ。そもそもピアスをつけたいという言葉すら、大した意味を持たないかもしれない。目の前にあったから言った、とかそんな理由だろう。自分を拾ったのと同じだ。
いたから。ちょっと惜しいと思ったから。他愛ない理由で言葉をぽろぽろこぼす少女なのだ。その言葉ひとつが仁を生かしたのに。
彼女は発した言葉のどれもに執着がない。仁に着いてきて欲しいと言ったのも、ピアスをつけたいと言ったのも、きっと誰かに拾い上げられようが踏み潰されようが、興味はない。彼女にとって、大いなる母船団からの仕事以外はそんなものなのかもしれない。
それを薄々感じながらも、それでも、仁は彼女の言葉を真面目に受け取る。彼女の言葉に耳を傾け、その言葉のひとつひとつを丁寧に覚えておく。……別に彼女だから、ではない。そういう性分だった。それゆえに勝手に突き放されたような気分になったって、変える方法がわからない。
「……似合うのを探すよ」
そう告げて、本に視線を戻した。嬉しそうな声で礼を言うまどかに頷きながら、時計を見上げる。
到着まで、宇宙標準時丸一日を切っていた。
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