終幕壱 俺と彼女のエンドロール 壱

「ねえ、トロ」

「なんだ?」


 背中に背負った奏から声がする。

 その声は小さくて、掻き分ける草の音で消えてしまいそうだったが、俺の耳にはしっかりと届いた。

 さらに言えば、その声には若干の申し訳なさが込められていて、俺は少しだけその先に続く言葉を予想できた。


「ごめんなさい」

「………奏が無事なら、俺は大丈夫。心配するな」

「そのことじゃなくて………約束すること、まだ伝えてなかった」


 そう、言った。

 約束すること、それはおそらく、俺が奏に一方的に言った、『出来る事なら何でも言うことを聞く』の事だろう。

 命令、ではなく約束、と捉えている辺り、奏の優しさが垣間見えた気がした。


「あぁ、あのことか。そっちもまぁ、気にしないでいいさ。奏の好きなタイミングで」


 確か、最初の回数は五回。

 二回分は、『名前を教える』『料理を教える』で使われて、残りは三回だ。


「うん、じゃあ、今言う。私のお願い」

「そうか? 疲れてるだろうし、後でも全然………」


 突然、感触が変化した。

 今までも体重を預けられていたが、前に回された手が、ぎゅ、と強くなる。

 身体にのしかかる重みは、奏の真剣さそのものなのだと理解できた。


「だめ。今が、いい」

「………そうか」


 だったらもう、言うことは何もない。

 身体全体を使って下山をしながら、奏の次の一言を待った。


「………」


 奏の一言は、俺を驚かせることは無かった。

 むしろ、一番可能性が高いとさえ思っていた。

 だから。


「それは無理だ」

「え───」


 奏の力が、ふっと弱まる。

 まるで綿でも背負っているかのような感覚に変わったが、俺はそのお願いに対しては、その権利を使うのを認めてやるわけにはいかない。

 だって、


「そんなこと、約束するまでもあるか。少なくとも俺は、もう奏のそばから離れるつもりはないぞ」

「あ………」


 俺はいつからか、これが当たり前だと思っていた。

 最初に出会った時から放っておけないとは思っていたが、次第に奏の人柄そのものに引き付けられていた。

 ただの宿主と居候では、なくなっていた。

 背中に生気が戻る。

 俺の口にした言葉に、奏は戸惑っているようだった。

 奏が発したのはたった一文字だったが、その一文字にはたくさんの意味が込められていたと思う。

 心配をかけた自分のそばに誰かがいてくれる、それだけで、人はどんなに救われることか。


「………ッ、うぅ」

「奏? ………奏ッ!? どうした、何処か痛むのか!?」


 泣き出した奏に大いに慌て、俺は立ち止まった。

 何か、鬼どもに受けた傷が痛むのだろうか。

 それとも、思い出したくない過去でも思い出したのだろうか。

 突然のことで、奏を下ろすべきなのか否か逡巡している俺に回された腕が、その力を取り戻す。


「あり、がとう。あり、がと、う………!」

「───」


 思わず言葉を失う。

 大切な人がいて、その人が近くに居る。

 そのことのありがたみは、俺は容易に想像できた。

 背中に、しっとりと濡れた何かがくっつく。

 暖かくて、何処か嬉しさの混じるそれは、俺の服にしみていく。

 奏の涙だったら、どれだけの量でも、胸を張って受け入れよう。

 だが、泣いている女性を前に何もしないのはマナー違反だ、という自覚はある。

 背負っている奏に気を遣わせないようにしながら、ポケットにあるハンカチを探した。

 奏に買ってもらったズボンは泥だらけになっていたが、ポケットの中のハンカチはきれいなままだった。


「これ───」

「う、ぅ、う、ひぅ」


 差し出したハンカチが視界から消え、後ろの方でごしごしという音が聞こえる。

 ちっぽけなハンカチでも奏の役に立てたことに安堵して、俺は取り敢えず再び歩き始めた。

 ガサガサという小気味のいい音と、春のデュエットレベルの虫の歌が、聴覚を埋め尽くす。

 奏が泣き止むまでは、こうして二人でいることを、しみじみと味わった。


「ごめん、ね」

「一体何度俺に言わせるつもりだ? 俺は、奏が幸せならそれでいい。手を叩こうとは言わないが、幸せならそうと言ってほしい………ちょっと不安になるからな」


 すでにちょっと不安になってきているので饒舌になっている。

 奏が泣き出した理由も、それが暖かみを帯びたソレであることも分かってはいた。

 でも、確信はあっても証拠はなく、俺は直感で奏に言葉を送った。

 それが吉と出たか凶と出たかも、分かっていたけれど、それでもすべてを知っているわけじゃない。

 だから、伝えてほしい。

 そう、俺は、先に伝えた。

 多分、奏に聞こえた俺の声は、ひどく頼りなくて、幻滅したっておかしくなくて。

 でも、次の一言も、なぜだか察していた自分がいた。


「あ………ありがとう」

「応。どういたしまして」


 それだけで、全て伝わった。

 言葉足らずな俺の言葉でも、奏なら察してくれるとは思っていた。

 体温が、呼吸が、声音が、そのすべてが、柔らかな安心となって、俺の中を満たしていく。

 俺の中だけでは飽き足らず、奏の中にも戻っていき、そこに暖かな時間が流れた。

 日向のように柔らかくて、何処かほっとする世界の片隅で、月が燦然と輝いていた。


「そうだ、帰ったらご飯にしよう。お腹、空いてるだろ?」

「………うん」

「よし、じゃあ、家にある食材で、何が作れるか、考えとかないと、な。奏は何が、食べたいとか、ある、か?」

「………」

「奏?」

「………」


 奏は押し黙ったままだ。

 やがてか細い声で、彼女はこう言った。


「トロ、むりしてるなら降りる」

「………いや、そんな、ことは」

「さっきから、息がちょっとおかしい」

「無理、なんて―――」


 言いかけたけど、止めた。

 確かに、強敵ナサニエルとの戦いや一般兵との戦いで、妖力は底をつきかけている。

 ナサニエルとの戦いでは、多分骨も何本かイってしまっている。

 どれだけ言っても、俺が奏のことを分かっているように、奏も俺のことをよく分かっていることを、痛感した。

 こちらが深淵を見ているとき、深淵もまたこちらを見ているとは、ニーチェの言葉だったか。

 流石に深淵とまでは行かなくとも、それなりに強い繋がりを持っているものの間では、そういうこともあるだろう。

 何を言っても誤魔化しにしかならず、向けるべき言葉は決まっている。

 だったら。


「俺は、無理はしてないよ。確かに大なり小なり体は軋むけど、それ以上に奏を送り届けたい気持ちのほうが強い」

「でも、―――」

「俺が嘘言ってるように見えるか? 俺は、今はこうしていたいんだ」

「………それは」


 これはズルいやり方だとは、分かっている。

 既に一回、『今』という大権を使用した奏は、俺の言うことを断れない。

 だけど、それでも俺のしたいことは変わらない。

 ただ今は、奏と共にいたいだけ。

 それ以上でもそれ以下でもなく、投げやりなわけでもから回ってるわけでもない………お互いに。

 少しでも一緒に居たいと思うなら、居ればいいじゃないか。

 どうせすぐに傷の治る妖怪の体、今ばかりはこうしていよう。


「うん………でも、大変になったら、すぐに降りる」

「あぁ、分かった」


 それきり、この話にはお互いに触れなかった。

 意識的なものか、安堵による無意識か。

 そのどちらなのかは判然としない、というか表裏一体なのだと思う。

 思いやることは、自然でないといけない。

 俺の持論だった。




 さて、山を抜けた俺は、奏を背負ったまま獣道の入り口に立っていた。

 そこは、俺が最初にここに入り込んだときに使った道。

 本来の手はずであれば、ここにはビズがいるはず。

 だと、思ったが。


 《おいビズ、お前今どこにいる、何してる》

 《ン、おオ、トロン。そうさなァ………、或いはかナ》

 《はぁ? 今何処だよ?》

 《………悪いガ、そいつぁ言えねぇなァ》

 《………》


 ビズに飛ばした念話の返答に、少しだけイラッとする。

 向こうにもなにか事情はあるのだろう。

 人間、幾つか秘密は持っているものだし、いい意味でも悪い意味でも、相手に知られないほうが良いことだってある。

 ただ、わざと隠そうとしている言い方なのは、追求の余地はあったけれど。


 《………まぁ、無事ならいいか。ちゃんと帰ってしっかり寝ろよ》

 《マミーかヨ》

 《マミー?》

 《いヤ………すまん、忘れろ》

 《あぁ、忘れる》


 と言うと思ったか。

 コイツからは出そうにないフレーズが出て、かなり印象に残ったわ。

 わざわざ伝わるように強く念じたりはしないけど。


 《じャ、今日はお疲れナ》

 《応。お疲れ》


 そう伝えて、念話を終える。

 今日は疲れているから、早めに会話を切りあげようとしてくれたのだろう。

 そういう細やかな配慮は利く人間(妖怪)なのが、ビズなのだ、実力はともかく。

 そもそもの話、俺がビズを気にかけているのは、ここにいる連中の中で、俺の次か俺よりも弱いと思っているからだ。

 単純に戦闘を見たことがないし、戦うタイプとも思えない。

 妖怪によって得意なことは違うから、平気だとは思うが、残党がいる可能性のある今の森では、少し不安だ。

 まぁ、どの道なにかアクションを起こすかと言われると、それはノーなワケだが。


 ………なんだか思ってもみなかった方向に思考が進んでしまったので、一旦ここで打ち止めにしよう。

 意識して奏の体温を感じる。

 そうすれば、今の俺は、奏との俺になれるから。

 そこに余計なモノが入る余地はない。

 あぁ、ここだけは断言しよう、少なくとも今の俺達にとって、あののっぺら坊は余計であると。

 もっと言えば謎であると。


「………ふぅ」


 空を見上げる。

 自分は、初めて会った妖怪の素性すら、満足に知らないのか。

 そんなことを発見した。


「トロ?」

「ん、あぁ、いや………月が綺麗だからな」


 実際、とても月が綺麗だ。

 丸々とした黄色の衛星は、ともすれば距離感を錯覚しそうなほど明るく光っている。

 運の良いことに雲も殆ど無く、丸い月のシルエットがはっきり観測できた。

 ふと、思う。

 あの月は綺麗だが、太陽の力無しには輝けない。

 太陽も、月等の星の光源になることで、その光を発露させる。

 案外不思議な関係だ。

 中学の授業では、さも月は虎の威を借る狐のように教えられたものだが、そうした生活から離れたことで見える光景もある。

 離れたからこそ、言うべきなのかも知れない。

 まぁ、今の俺には奏との時間に比べれば、些細な事だが。


「うん………綺麗」

「………今日は月見蕎麦にでもするか」

「うん」


 蕎麦生地も、奏の実家ならあるだろう。

 あのくらいの金持ちだったら、何を持っていようと驚かない気がする。






 ………本当にあった上に専門店で使われるようなこだわり食材でした。




【第一章 出会いと優しさと 完】

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【第一章完結!】Devil’s patchwork ~其の妖狐が神を討ち滅ぼすまで~ 國色匹 @kuni-iro-hiki

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