其の三九 俺と………願いは。壱
「ラァアァアァッッ!」
「オォオォオッッッ!」
狐の脚と鬼の腕が交錯する。
それは一瞬だけ均衡し、直ぐに狐が飛ばされる。
「ガアッ!」
木に叩きつけられた狐は、轢かれた猫のように情けない声を出す。
全身に纏った妖力のお陰で、物理的なダメージこそ殆ど無いものの、衝撃だけは今のトロンにはどうしようもない。
薙ぐように振られた鬼の腕には権能こそ乗っていなかったが、それでも圧倒的なパワーを誇る。
人間一人を吹き飛ばすには十分で、例え妖怪だろうとも余程のことがない限りは蹂躙できるはずだった。
しかし、この一合では未だ勝負は決まらず、現に狐はまた立ち上がる。
「………ぐっ………! ハァ、ハァ………」
「貴様、中々、しぶとい、なッ!」
流れは狐にある筈であったが、疲労がより見て取れるのは鬼でなく狐だった。
それもその筈、基礎的な妖力量がまず違う。
数々の妖力を使い熟す事を前提に設計された、ナサニエル・バトラーという男。
彼には、生まれ付きの力を活かす為、通常よりも格段に多い妖力が備え付けられていた。
対して、まだ若く、それ程鍛えられてもいない、器用貧乏な妖狐。
最初のスタートラインからハンデがあるのは、仕方のない事ではあった。
然し、これまで十分以上も闘いを継続させていて、気力が衰える様子は無い。
どのように殴られようと、蹴られようと、彼は決して諦めなかった。
今まで自分を押し殺してきた、ナサニエルだからこそ分かる。
それが、どんなに勇気が必要で、その勇気はどんなに臆病な者の勇気であるかを。
分かっているからこそ、彼は手を抜かない。
そして今、新たにタガを外そうとしていた。
ソレが自分に組み込まれていると知った時には、使うことはないだろうと思っていた力。
「………なぁ」
「………? 何だ」
何とか体勢を立て直したトロンが、ナサニエルに対して言葉を投げる。
反射的にナサニエルは先を促す。
狐は、息を切らせて、フラフラとした足取りをしながら。
「ァ、はぁ………お前、何で俺を殺さない?」
「………何を言っている」
一瞬、鬼の意識が揺れる。
固めていた守りを無視するかの様な、狐の疑問。
余裕を貼り付けた不敵な笑みを零し、狐は続ける。
「考えてみろよ。お前みたいに見るからに強そうな奴が、未だにこんな新人を倒せないなんて。その様子だったら、他の仲間は―――」
「黙れ」
鬼は制止する。
狐にしてみれば、鬼の冷静を欠こうとしての発言で、特に他意はない。
然し、往々にして、言葉とは受け取る側のモノ。
ナサニエルは、違ったニュアンスでトロンの言葉を受け止めていた。
「貴様が余裕綽々だという事は、十二分に理解した。私が未だ貴様の膝を折っていない事実も、甘んじて受け入れよう」
自分についての事は良い。
それは確かに事実であり、悔しいが認める他ないのだから。
然し―――
「だが、私の部下を愚弄する事は許さん。貴様が如何に生意気であろうと、その点だけは見過ごせ無い」
そう、それこそは彼が立つ理由。
彼が掴み取りたい未来の、その姿であったのだ。
「私は、彼等の意思を背負って、此処に居るのだから」
その言葉が引鉄となる。
ナサニエルの身体に変化が起きる。
「………」
纏っていた橙色の妖力は、燃え上がる炎を髣髴とさせる真紅に染まる。
夕暮れをひっくり返したかのような鮮やかなオレンジから、沸々と沸騰する血液を思わせる赤色へと。
橙の管が無数に通っていた腕は存在感を増し、纏う妖力量は桁違いに跳ね上がる。
「貴様は後悔するだろう。それでいい。自らの無謀さに漸く目が向くだろう」
言いながら、ナサニエルは、相対するトロンすらも気圧する重圧を身に纏う。
ジリジリとトロンに向かって前進する、その一挙手一投足が、ともすれば必殺の一撃となり得るだろう。
何時の間にか、芯から紅に染まっていた双眸で、大鬼は告げる。
「………終了の時間だ。己の無力を嘆くが良い―――《模倣加速・鬼魂解放》ッ!」
その姿は、正しくバトラー《戦闘員》。
組み込まれた回路をフル稼働させて、彼は駆ける。
ともすれば、三分と持たずに妖力は尽きてしまう。
目の前の相手の妖力が火の車である事は、未だ経験の浅いトロンにも分かっていた。
だが、元々大量にあった妖力を使い切る勢いで使用すれば、その出力は果たしてどうなるのか。
「―――軽いな」
一瞬、何が起こったのか、誰にも分からなかった。
いや、正確に言うならば、ナサニエルが、如何にしてトロンに肉薄し、一瞬で弾き飛ばし、更に追撃に向かっているのか。
そしてソレを、如何にして三秒足らずで行ったのか。
「………ッ!」
妖力で護っていたとは言え、看過できない程の直接ダメージが狐の身体を軋ませる。
狐は白く飛びかけた意識を必死に押し戻し、体勢を立て直そうとする。
幸いにも飛ばされた方向には大木があり、ソレを足蹴にしてトロンは跳んだ。
狐は考える。
あれは不味い、後手に回ってはならない、先手を取っても直ぐに―――
「―――どうした? 御望みの通り、私の全力を以て相手してやっているのだが?」
「な、ッ!」
またしても、一瞬で肉薄する鬼の姿。
横から現れた鬼から逃げるように、狐は風で自らを押し流す。
然し、此処は森の中。
周囲には、木々が生い茂っており、四方八方に伸びている枝等を利用出来れば、機動には然程苦労はしない。
先程までは土の上を駆けていた大鬼が、木々を利用して立体的に動き始めた。
それだけで、一つのアドバンテージが消える。
そして、単純な機動力。
狐の少年が、少ない妖力を無理やり割いて作り出していた、移動用の風の力。
足元から飛び出てトロンの動きを補佐していた風の力だが、全力の一端を出した大鬼には些事である。
此処に、トロンの上乗せ分の要素は殆ど消え去った。
そして残るのは、単純な地力。
素体スペックと、今までの積み重ねだ。
依然狐との距離を保ちながら、鬼は言う。
「貴様よりも俺の方が性能が高い、貴様よりも俺の方が闘ってきた」
圧倒的な自負。
今までの自分ではなく、今までの自分と共に闘ってくれた部下達への誇り。
そういった、時間をかけてゆっくりと育てていくモノを、狐は未だ持っていない。
「貴様に、その重みが、凄みが、それら全ての辛酸が………分かってたまるモノかぁッ!」
「がぁッ!」
鬼は腕を振るい、小賢しい狐を弾き飛ばす。
それは、十分な致命傷だった。
肋骨が数本、呼吸の度に鋭い痛みを伝えて来るのが、トロンにもよく分かった。
今持ちうる、正しく全てを動員した、大鬼の執念、怨念、復讐心。
それ等程の積み重ね、煮え滾って火傷するような思いは、少年の中にはない。
鬼の全ては、少年の心をも折る程の重さを持っていた。
少年の瞳が虚ろに光る。
希望もなく、最善策も思い付かず、起死回生の一手すら、彼には降りてこない。
あぁ、もう神は俺を見放したのだ。
彼は本気でそう思い、命だけは助かる為に逃げようとする。
一端退いて、また少ししたら奏を追おう。
今は撤退すべきだ。
そう信じて、逃げ道を探している時。
「―――ッ」
見えてしまった。
木に縛り付けられ、朧気な意識を宿した双眸が、少年の姿を捉えている。
奏は、そこにいる。
俺の手は………届くだろうか。
いや、届かせる他に無い。
「………はぁ、はあ………確かに、俺にはお前の苦しみは分からない」
少年は語る。
今も此方に歩み寄る、鬼の意識を少しでも逸らそうと………しているのでは無い。
語らずには、いられなかったのだ。
「だけどな、俺にとっては、お前がどれだけ辛くてしんどい想いをしたかなんて、関係ない」
そう、彼は、そうした苦しみも、痛みも、今は持ち合わせていない。
故に、これまでの積み重ねと、現在の相手の背後の事情など、想像する余地もない。
だが―――
「俺は俺で、これからの
そう、それこそは彼の信念であり、譲れない未来は少年の中にも確かに存在していた。
たった今すくすくと伸び始めた、小さな誓い。
これは、未来を取り戻す為の戦いである。
ならば、何時までもぐずっては居られない。
「………貴様は何故、そこまで」
鬼は問う。
彼は、目の前の相手について知ってしまっていた。
その人の人となりを、理解してしまっていた。
だからこそ、ここで迎え撃つ選択をしたのだから。
そして同時に、目の前の相手らしからぬ行動に対する疑問の念も当然湧いてくる。
問われた方はと言えば。
「そんなこと、決まってる」
「まだ、あるからだ―――果たしていない、約束が」
「フ………」
少年の言う約束は、鬼には分からなかった。
だがしかし、そこにある信念は本物であると、今の一瞬で理解することができた。
少年の約束とは、彼と彼女の最初の朝のモノ。
『言うことを聞く』、そう言って、未だ果たされていない約束が二つもある。
衣食住、そのすべてを提供してくれている奏に対して、未だ果たした約束が一つであるなど、言語道断である。
狐が、自分の頭を納得させるには、それだけで十分だった。
理屈の理由に、『彼女を守りたい』という感情の動機の背中を押された少年を阻めるモノは、この世界に、いやどの世界にも存在しない。
「こっからは、本気で行くぞ」
「ああ、来てみるがいい………その最期、俺が直々に看取ってやるわッ!」
そうして、二人は衝突する。
持ちうるすべての妖力を動員して、狐は全力で抵抗する。
それがどれほど鬼に対して効いているかは、自信は無かったけれど。
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