其の一六 俺、職場に行く。

 麻。

 間違えた。

 朝。

 いかん、昨日が遅すぎたせいで、いつもよりだいぶ寝惚けているようだ。


 ここはリビング。

 間違えた。

 俺の部屋。

 ………じゃないな。

 天井が違うし、それ以前に、昨日は布団で寝たはずなのに、体に残る感触は明らかにそれではない。

 うん、間違ってないな。

 リビングだ。


 どうやら俺は、リビングにあるソファーで、眠ってしまっていたらしい。

 晩御飯のあと、軽くシャワーを浴びて、疲れの余りすぐに眠ってしまったのだろう。

 昨日はちょっと、疲れが溜まりそうな日だったからな。

 背中や首が若干痛むのは、そのせいだろう。


 軽く背中を伸ばそうとして起き上がろうとすると、俺とソファーの背もたれの間に、何か柔らかいものがあることに気がついた。

 なんだろうか。

 そう思い、きっと昨日少女が掛けてくれたであろう毛布を捲り、確認する。


「………やっぱりな」


 思わず呟いた。

 確認したところ、『柔らかいもの』は、件の少女だった。

 短めの、茶混じりの黒髪が天使の羽根のように跳ねる少女。

 あ、描写した後に気がついたけど、羽根と跳ねをかけたわけじゃないからな。

 高校生という肩書きに似合わぬ若々しさ、と言うか小ささ。

 それこそが、俺の恩人で、この家に暮らす綿貫奏その人だ。


「………」


 ふと、なにか悪い予感がして、俺はチラと壁に掛けてある時計を見る。

 短針は七と八の間に。

 長針は一〇と一一の中間あたり。

 要するに、現在時刻は七時五十分過ぎ。

 にしても、なかなか洒落たデザインの時計だ。

 壁に直接ローマ数字やら漢数字やらの数字を貼り付け、長針、短針共にカラフルで、さらに少しだけ中腹がカーブしている。

 ぜひ製作者の顔を見たいものだ。

 違う、そうじゃない。

 問題は俺ではなく、俺の隣の女子高生だ。


「おーい、奏やーい」

「………ん、むぅ」


 揺さぶり、声をかけても、起きる気配はない。

 別段予定があるわけではないだろうが、休日でも休み過ぎは良くない。


「時間、大丈夫か?」

「………すゃぁ」


 リアルにすゃぁ、とか言う人いるんだな。

 これは間違いなく起きているパターンだろ。


「おーーい、おーきーなーはーれー」

「むにゃむにゃ………もうたべられないよぉ」


 これまたテンプレな。

 昨日のことを思い出しているかも、と思うと、少しこそばゆい。

 もちろんそうじゃない場合だってあるが、そう考えるのは止められなかった。


「………はぁ」


 仕方ない、そんなに食べたいなら食べさせてやろう。




「む、む?」

「お、起きたか」


 あれから十分間が過ぎた。

 リビングに広がるのは、暖かなスープの香り。

 そして、トーストされたフランスパンに、マーガリン。

 皿には、トマトとレタスのサラダ。

 一端の朝ごはんがそこにはあった。

 俺がもう一品付け加えるかどうか悩んでいた頃、奏は目を覚ました。


「おおー」

「ほら、早く顔洗ってこいよー」

「りかいした」


 まだ眠気が見受けられる彼女の瞳は、半開き。

 あっちこっちと、心もとない足取りで、彼女は洗面所に向かった。

 さて、俺は俺で、まだ続きをするかな。




 結局あの後、俺はベーコンエッグを追加した。

 奏は、「おいしい………!」と言いながら頬を膨らませて食べていた。

 単純な俺はそれだけで嬉しくなったので、また作らせてもらおうと思う。

 身だしなみを整えて家を出た奏を見送り、俺は結んであったシンミに連絡を取る。


 《こちらトロン、こちらトロン、応答セヨ》

 《うわっ! ビックリした~》

 《あ、すまん、お取り込み中だったか》

 《いや、そうじゃないけどね~》


 意味ありげなシンミに、俺は本題を切り出す。


 《昨日言ってた、お前の職場、いつ行ってもいいんだよな?》

 《! もちろーん! 我が『ファースト探偵事務所』は、いつでも新入社員募集中~!》


 よし、言質は取った。


 [***]


 色々あって。

 と言うか、具体的に言うと家を出て庭を通って玄関から家に入り、使用人の部屋みたいな所に来ていた。

 俺は現在、埋め合わせとしての職場にいると言うことだ。


「あ、今日はどうもよろしくお願いします」

「いえ、つい先日、メイドが立て続けに辞めてしまいまして。人手に困っていた所です」


 朗らかな笑顔を俺に見せながら、そう言ってくれたのは、綿貫家の執事、井川さんだ。

 紹介しよう。

 とってもジェントル。

 以上。

 と言うか、他は基本言うことなしの凄い人だ。

 にしても、財閥の家にしては敷地内の人が少ないと思ったら、そういう事情だったのか。


「あと、昨日は突然だったのに、お金、ありがとうございました」

「いえいえ、お嬢様のお気に召すまま動くのが、我々使用人の務めですから」

「そう言っていたただけて、スッキリしました」

「そんなに気負わなくて結構ですよ。これからは仲間なのですから」

「はい」


 とりあえず一日だけだが。


「さあ、仕事を始めましょうか」

「なにとぞ、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします」


 そして、俺の仕事が始まった。

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