第38話 またいつか

 夜も深まり、両親も寝静まった。

 僕は物音を立てないように部屋を出て玄関の戸を開けた。真冬の夜は寒い。しんとした冷たい空気に肌を切り裂かれてしまいそうだ。白い息が夜に溶けて消えた。


 僕はジャンパーのファスナーを首まで上げて夜道を歩く。

 田んぼの水も抜かれて土が露わになっていた。虫の声もカエルの声も聞こえない。

 全ての生命が停止しているように静かな夜だった。


 僕は小川の堤の上を歩く。やがて地主の屋敷が見えてきた。

 ここに来るのも久しぶりだった。いつ以来だろう、少なくとも前に来た時はまだ半袖を着ていた気がする。屋敷の部屋の電気は点いていない。もう地主の家の人々もみんな眠ったようだ。


 道を挟んで屋敷の向かい。

 あの物置小屋はもう無くなっていた。

 先月取り壊されて更地になった。地主の土地だし、また何かを建てるのだろう。更地だし駐車場にするのかもしれない。


 こうしてスミの痕跡は何もかも無くなった。

 僕は物置小屋があった場所に立ち、ポケットに両手を入れて俯く。

 この辺りにいつも布団が敷いてあって、ここが本棚だったか。その辺りに重そうな鉄扉があって、隣に梯子があった。


 それから、ここが格子窓だ。

 僕はスミが立っていた場所に立つ。小川がさらさら流れ、隣の桜は葉を散らして丸裸になっていた。これがスミの見ていた風景。これだけがスミにとっての外の世界。あまりに狭くて殺風景だ。


 僕はその位置から一歩前に出て振り向く。

 僕の定位置はここだ。いつも僕は格子越しにこうしてスミと向かい合っていた。僕はポケットから小ビンを取り出す。ビンの中でガラスの欠片のような粒がぱらぱら鳴った。


「スミ。今日はクリスマスイブだってさ」


 小ビンの中に入っているのは氷粒。

 あの日、神社で朝日を見ながらスミが流した涙だ。泣いているスミを抱き締めていたから、僕の服の中にもスミの涙が何粒か入ったみたい。


「本当は恋人同士で一緒にいる日なんだけど、僕もスミと一緒にいても良いかな」

 肉体も物置小屋も、スミの全てがこの世から消えてしまった。けれどもその涙だけは今でも溶けずに残っていた。

「いや、その……僕とスミが恋人同士だとか、そういうのじゃなくてさ。ほら、一番仲が良い女子って言えばスミだし」

 一人で照れ臭くなって小ビンを握り締める。氷の冷気が肘まで伝わった。

「今日はさ、ちょっとスミに言いたい事があってさ。前から言おう言おうと思ってたんだけど、どうしても言えなくて……」

 僕は土壁のあった場所に背を向けた。格子窓の中からスミがニコニコしながら僕の背中を見ているような気がする。

「前にさ、僕に言っただろ、ええと、その……大好きって」

 僕は頭を掻いて呻る。なかなか続きが出て来ない。僕は大きく息を吸い込んで、腹の中でくすぶっていた言葉を吐き出した。


「僕もスミが大好きだ。前から、今でも、これからもずっと――」


 僕の顔が火照る。真冬だというのに熱い。

 僕の両肩に疲れの塊みたいなのがじわりと溶けて広がる。僕は両目を固く閉じ、拳をぎゅっと握り締めた。こんなに恥ずかしいのは初めてだ。

 その時、僕の頬に何かが触れた。


 冷たい――。

 この感触、スミの手に似ている。まさかと思って目を開けた。


「これは……」

 雪だ。

 真っ黒な空から真っ白の雪がはらはら舞い落ちてくる。

 柔らかい雪は僕の肌に触れ、火照った身体を冷ましてくれる。冷たくて優しい。まるでスミに触れられているみたいだ。

「スミ。今、僕が言ったセリフ……聞いてたの」

 また僕の頬に雪が触れて溶ける。スミが僕に答えたみたいだ。淡く冷たい感覚だけが残った。


「大好きだ、大好きだ、スミの事が大好きだ」


 その度に雪は僕の頬に触れる。

 やがて草の上を雪が薄く覆い始めた。僕の頭や肩にも雪が乗っている。けれども僕は雪を振り払わない。

 僕の腕時計から電子音が鳴った。

 深夜十二時。


「日付が変わったね」

 メリークリスマス――。


 そう呟いて僕は夜空を見上げた。

 綿のような雪が止めどなく降り続く。白い息を吐いて両手にポケットに入れた。

 スミはどこにいるんだろう。

 天国かな、それとも見えないだけで今も僕の隣にいるのかな。

 分からないから考えるのを止めた。どこにいたって良い。


 僕の初恋は物置小屋のスミ。

 誰にも知られる事なく暮らしていて、いつも本ばかり読んでいる子。白いワンピースがよく似合っていた。笑うとすごく可愛い、拗ねて膨れてもちょっと可愛い。

 スミは病気で死んでしまった。

 だからもう会えない。

 けれども僕はスミの事を絶対に忘れないだろう。高校生になっても大学生になっても大人になっても年寄りになっても、スミは僕の心の中に住み続けると思う。


「またいつか、二人で朝日を見ような」

 夜空に温かい雪が踊った。

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物置小屋のスミ 可本波人 @kamohat

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