『すずめの戸締まり』映画評 国が終わった後の国では人間は自分の腹から自分を取り出す

 既に私は新海誠の前作『天気の子』について、「天気なんて狂ったままでいいんだ」と宣言し、止まない雨を引き起こして都市を一つ滅ぼし、しかも「僕たちが世界を変えてしまった」と自己を破壊の第一原因としてみせる恐るべき子どもたちを描いた映画であると書いたのだが、今作はそれ以上に危険な作品である。つまり、傑作である。傑作はあなたを傷つける。傑作は危険である。奇しくも、劇場には「この作品には緊急地震速報システムのアラーム音が使われており」云々という掲示が貼られていた。あるいは、丸山真男も、ドストエフスキーの作品を読んだ時の衝撃を、こう書いていたではないか。


私はドストエフスキーに強姦されたのである。そのとき受けた傷から私は立上れないでいる。それは私の中にある心情的な左翼主義への傾斜にたえずブレーキをかけて来た。それだけでなく、本当にラディカルな思想とは何かに目をさまさせられた。


 さて、以上で執筆を終えて、後はあなたが劇場に駆け込むのを待つだけで良いのだが、私を含む、もう『すずめの戸締まり』を観た者たちのためのセラピーとして、批評を試みることにしよう。問いを立て、証拠を探し、解読し、文章にし、ワールド・ワイド・ウェブに公開し、頭を冷やすことにしよう。

 あなたはまだ劇場を出たばかりで呆然としているから、私が問いを提出しよう。

  これがこの映画の最大の謎であり、この映画の深淵である。

 彼女のすぐ背後には、彼女と旅をしてきた、彼女に命を救われた草太がいたのである。ところが、彼は彼女に自分の上着をかけてやるだけだ。これによって、彼女は完全に、ただ一人で自分自身を救うことになる。将来、過去の自分を「常世」から「現世」へと救い出す自分を救い出し、彼女は自分を自分自身の第一原因と転化させたのである。彼女は自分から生まれたのだ。

 このパラドックスについては、長々と書く必要もあるまい。幾つかのタイムトラベル物の作品を想起してみれば事足りる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『LOOPER/ルーパー』、『プリデスティネーション』、『バタフライ・エフェクト』等々(ここでは私は特に『プリデスティネーション』を勧めておこう。私はあなたをさらなる衝撃によって苦しめたい)。

 何故、こんなことになったのだろうか。このことを考えるために、まず、この物語の開始時点のことを考えてみたい。この物語はどのように始まるか。

 私は映画を観始めて、冒頭の十数分、実のところ、不安を抱いていた。これは完全に、私の趣味の問題なのだが、私は物語の奴隷のようなキャラクターが好きではない。これは、こう言い換えてよい。古い米国製ホラー映画に出てくる、自分からわざわざ愚かなことをして、その背後にいるホラー映画としてのシーンを作り出すことに四苦八苦する脚本家や監督の姿を露わにするようなキャラクターが好きではない。

 鈴芽というキャラクターは当初、まさにそのような、キャラクターに見える。彼女は自ら、危険なところへ、危険なところへと進んでいく。勇気と無謀とは違うという指摘が彼女にはぴったりである。彼女は物語の奴隷であるかのようだ。日常が壊れ、何かが開示される瞬間を求めているかのようだ。

 しかし、これは正しいキャラクターの造形であると、(既に観た)私はここに記そう。これは正しいのである。どのような意味でか。金の奴隷が金を激しく求める者を指示する言葉であるように、彼女は正しく、物語を激しく求める、物語の奴隷なのである。これは彼女の過去のためである。

 私の記憶では、劇中で彼女が東日本大震災で親を失ったであるとか、東北地方太平洋沖地震で孤児になったということが直接に、あるいは明示的に語られている場面はない。ただ彼女が彼女の過去を思い出すために読み返した日記の日付が「3.11」と表記されていただけである。とまれ、彼女が大勢の死者を出すような事件を大勢の者と体験しながら、彼女は生き残ったということだけが明らかにされている。

 そして、それこそが、彼女の行動原理の根本にある体験である。彼女にとって、自分が生きていることは常に別様にもありえることにしか思えない。思うしかない。もしも、自分が生きていることが肯定されるとすれば、それは、死んでいった者たちを否定することになる。彼女が「事件」以後も生きていることの必然性、生きていることに値する存在であることを説明できるとすれば、彼女は、また、「事件」において死んでいった者たち――例えば彼女の母――が死すべき理由を説明できてしまうことになる。彼女の存在理由は、直ちに、死んでいった者たちの不存在の理由を証す。

 かくして岩戸鈴芽は常世と現世の境界線上に立ち、死にながら生き、生きながら死ぬことになる。だから彼女はスクリーンのこちら側にいる我々、あるいは傍らにいる草太には信じがたいほど、危険なところへと自ら飛び込んでいく。彼女にとって現世と常世の区別は曖昧であり、それゆえに(常世へと近づく行為であるがゆえに)危険である行為と(現世に留まり続けることを志向する行為であるがゆえに)安全である行為の区別もまた曖昧になっている。彼女の存在の必然性は消え失せる。彼女は全く偶然に生きている。

 作品世界の設定もまた、彼女の世界観を裏打ちする。この映画では、地震の原因は「常世」に満ちている力が「現世」へと噴出することを封じることができなくなったことにある。そして、その封印の要(石)は一匹の猫「ダイジン」である。勿論、このダイジンは超自然的な猫であるのだが、猫の一般的イメージであるところの、気まぐれというパーソナリティを備えている。例えば鈴芽が自分の曖昧さを継続し続けることができなくなり、ヒーローズ・ジャーニーへと駆り出されるのは、ダイジンが「鈴芽の子になりたい」という理由で、封印の要であることをやめてしまい、地震が頻発することになったため、これを封印の要に戻すためである。そう、ここでは地震は完全に「気まぐれ」なものであり、ここにおいて、震災の被害から人為が消え失せ、全てが偶然と化す。

 私は何を言っているのか? 私が言っているのは、この映画では例えばこの国ではまだ原子力緊急事態宣言が継続していることや、名古屋市と同じ面積の帰宅困難区域が残っていることや、復興が完了する前に国際的スポーツの祭典のために税金や建設資材や労働力を消費することについての問題は黙示すらされることはない()。ただ僅かに、廃墟が続く海岸を美的に評価する大学生に対して、鈴芽が疑問を投げかける瞬間があるだけである。全ての震災被害は避けようのない、偶然の出来事そのものとなる。

 さて、私は物語の前提条件と開始の合図とを確認した。後は鈴芽が物語を通して成長し、自己の存在の必然性を確認して、あなたは癒やされ、劇場を後にするだけだ。勿論、これは嘘である。新海誠の朗らかな残虐性は、そんなことを許さない。もしもあなたが癒やされたとすれば、あなたはまだこの映画をよく見たとは言えない(「いたわるふりをして――人を殺す手を見たことのないひとは、人生をきちんと見てこなかった人だ」)。

 考えてみて欲しいのは、鈴芽にどのような「資源」があるのかということだ。新海誠の朗らかな残虐性が遺憾なく発揮されるのは、まさにこの点である。どのような「資源」もないのだ。もう「資源」などない。何の資源かといえば、生の偶然性を必然性へと転化するためのエネルギーを取り出す資源である。

 もう既に、権力や貨幣は役には立たないと説明されている。地震は、気まぐれな猫の手によって、引き起こされるのである。政治を通しても、経済を通しても、どうにかすることはできない。勿論、真理も役には立たない。真理を中心的価値とする科学を通しても、あの世のエネルギーは、どうにかすることはできない。家族はもう駄目だ。家族はもう、地震で「偶然に」死んでしまった。それ以前に、鈴芽はシングルマザーの子であり、今日の日本の標準的とされる家族の成員ではない。それでは例えば、性愛はどうだろうか? 愛は結合する。あなたは愛されたり、愛したりするために生まれてきた。これは良さそうだ。実際、そのような確信を得ることが成熟であり、成長であるとしている物語は幾らでもある。RADWIMPSも歌っているではないか(「愛の歌も歌われ尽くした/数多の映画で語られ尽くした」)。

 だが、物語の序盤で、鈴芽と旅をする相棒である草太は椅子に変えられる。しかも、足が一つ欠けている椅子である。草太は去勢されたのだ。これは俗流フロイト的な解釈ではない。鈴芽が封印を維持する仕事をしている「イケメン」である草太の怪我を手当し、話しているまさにその時に、ダイジンが現れて、鈴芽と二人きりになりたいのに邪魔をするからといって、彼を椅子に変えてしまうのである。もはや性愛も役には立たない。人間と椅子の間に性愛が生じる余地はない。

 では、宗教はどうだろうか? 宗教は、常に偶然性に何らかの理由を施すか、もしくは人がそれに耐えるための知恵を供給してきたではないか。

 新海誠の残虐性が、あなたの浅知恵を許さない。我々には宗教という資源すら、ないのだ。東京の御茶ノ水で、常世と現世との境界にある扉が開き、常世からのエネルギーが空に噴き上がっていくシーンを想起して欲しい。わざわざ地震速報を表示するスマートフォンの画面を描写し、そこに、震源地のすぐ右上、皇居があることを示しているのである。皇居の直下で事が起きてなお、それに対処するのは鈴芽である。新海誠がこの映画の設定に神道のモチーフを取り入れている以上、天皇制についてアンタッチャブルであることはできない。先の大戦が終わるまで、天皇は、この国の最も偉大なシャーマンであったが、神道指令が発動されるに及んで、国家神道と後に呼ばれるような、国家的規模での神道祭祀は皇室という一族の私的な儀礼としてのみ存続を許されることになるのである(だから私は戦前では『宗教』にカテゴライズされていなかった神道を『宗教』にカテゴライズして語ることができる)。

 さらにまた、思い出して欲しいのが、(明らかに神道をモチーフにした)常世への扉を閉じる儀式に殉じようしようした彼女がどうなったかということである。彼女はダイジンの代わりに自らが封印の要(石)になることで、草太を救おうとするのだが、これを、こう言って良ければダイジンに「邪魔」されるのである。私が「邪魔」と言うのは、こういうことである。すなわち、彼女が封印の要(石)となったのならば、死にながら生きている彼女は自らの状態を確定し、草太を救うということにおいて、自分の存在意義を証すことができた。しかしダイジンはまさに不安定な彼女を求めていたため、それを許さない。

 そして、鈴芽の旅を援助するのは、権力や貨幣、性愛から、初めから遠ざけられている者たちである。例えば、椅子となった草太を筆頭に、最初に鈴芽に寝床と食事を提供するのは、鈴芽と同年代だが、家族も重要な労働力とするような家族経営の旅館の若年労働者であり、次がシングルマザーで二人の子どもを育てている自営業者であり、さらに言えば、彼女の亡き母に代わって彼女を養育しているのは、独身のまま四十代になった、地方の漁協で働く女性なのである。私は、これらの人々が、まだ世帯主への給付を当然とするような社会保障制度が運用される国で、「標準的」とされる市民像であるとは、とてもではないが言えない。むしろ、社会の標準すなわちモデルが失効しなければ、常にマージナルと言われるような人々なのである(当然、椅子人間もまたそうである)。

 鈴芽には資源などないのだ。この国にはもう資源がないのだから、当然である。そう、この国には資源がない。

 私は既にこの作品では「全ての震災被害が偶然の出来事そのもの」になると書いた。恐らく、今後、この映画が批判されるとすれば、その批判の根拠は震災被害の結果としての廃墟は(猫の気まぐれによって生じた)「風景」ではなく、例えば原発事故のような「原因」を考慮すれば、一部は人為の結果であり、その点を看過しているという点だろう。

 しかし、私が新海誠の朗らかな残虐性と呼んで称賛するのは、まさにその点なのである。

 何故なら、あなたが現に、あなたが震災被害から生き延びたのが完全に偶然であるような国に、確かに生きているからである。それもそうであろう。原発事故が起きた時,日本のエリートで,行政を担うテクノクラートであるはずの原子力安全・保安院の院長は総理に質問されて「私は経済学部卒なので(わからない)」と答えたし、官邸に設置された対策本部はその部屋の位置のために電話回線が使えず、当時の大臣は電話連絡のたびに本部を出たのである(『プロメテウスの罠―明かされなかった福島原発事故の真実』を読むこと)。私たちの命は、このようなレベルのエリートの采配によって成立しているのであり、我々がこのようなレベルのエリートしか生み出し得ないのであるとすれば、それはもはや、我々がただ偶然に(例えば当時の首相がたまたま国立の工業大学出身で原子力の専門家を自分の個人的なコネクションで官邸に呼び出して助言を乞うたことで、あるいは『Fukushima50』として語られる、自己犠牲精神のある現場労働者がたまたま存在したことによって、あなたがまだこうして文章を読んでいるように)、生きていることの、何よりの証拠ではないか。

 私はこれ以上、何故、鈴芽が自分自身で自分自身を救ったことの理由を説明する必要があるとは思えない。単純なことである。鈴芽には、自分の他には自分を救済するものがなかったからである。彼女の不安定な生を確かなものへと転化させてくれるようなものが、何もなかったからである。初めから、彼女しか存在しない。そこで彼女は彼女自身が彼女の生存の根拠となったのである。それはパラドックスを生じさせるが、それが何だと言うのだろうか? 鈴芽は「超人」なのだから。

 さて、あなたはこの文章を読み終えて、実はまだ、この映画の恐ろしさを理解できていない。それはまず私の力不足のせいであるが、こういうことは理解するには時間がかかるものなのだ。だから、私は次のように提案しよう。夜、鏡に向かって、君は生きていていい、君が生きることを私が肯定しようと囁いてみよう。その時、あなたは自分の口が言ったことの空虚さに、震撼するであろう。もし、震撼しないとすれば、あなたは幸福であるか、超人なのだろう。

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