『ぼくはテクノロジーを使わず生きることにした』書評 自らの力の奴隷としての人類

 著 マーク・ボイル

 訳 吉田奈緒子

 出版社 紀伊國屋書店

 出版年 2021年


 結局、これは何の本なのか。金を使わずに暮らす生活実験を三年行い、社会運動における暴力の必要性を語り、ついにアイルランドの、今はもう寂れてしまった島で自給自足的な生活を開始したマーク・ボイルが、自身の暮らしについて書いた本である。邦題は『ぼくはテクノロジーを使わず生きることにした』なのだが、原題は『THE WAY HOME』であり、つまり「帰り道」である。邦題はマーク・ボイルにその地位を与えた『ぼくはお金を使わず生きることにした』に寄せており、マーケティング上、それは致し方のないことだが、この本がテクノロジーを厳密に拒否して原始時代に帰るという本だと思って読み始めれば、あなたは確実に裏切られる。そもそもこの本自体が、(長々とその判断について内省してみせるが)マーク・ボイルが手書きで書いていたものを、彼自身がラップトップPCを使って打ち込み、出版エージェントに送った結果できたものなのだから。だから、これはテクノロジーを拒否する生活の本ではない。そうではなく、人の力について再考する試みの生活についての本であり、人の力が適切に発揮される地点にまで帰ろうと模索する本である。原題は、そう、『THE WAY HOME』だった。何故なら、テクノロジーは人の力だからである。

 マーク・ボイルがこの邦題に何を考えたかは確認できなかったが、彼は今回の限りなく自給自足的な生活の実験を始める前に、もう、既に、テクノロジーを拒否することの難しさを正確に理解していた。彼は冒頭、この生活のルールを明確化することは難しいと書いている。鍬、斧、さらに火まで、テクノロジーと考えることができなくはないし、またルールを明確化するに拘ると、何か人生が勝敗を決めるためのゲームのようになってしまうと書いている。なるほど、確かに、お金を使わずに生活することは、ルールを明確化できる。法定通貨を使わない。ただ、それだけだ。ところが、テクノロジーを使わないとなれば、彼の言う通り、ルールの明確化は困難である。本書内には、地元のパブに行って金を払って酒を飲む場面も何回もあるし、さらに(これがマーク・ボイルの偉大なところだが)、自分が住んでいるいわゆる「オフグリッド」な小屋とは別に、訪問者に開放している家があるのだが、そちらには電気も水道もWi-Fi環境もガスもある。

 何故、このような「困難」があるのか。マーク・ボイルのために、それを私が解き明かせば、それはテクノロジーとは人の力だからである。既に社会化された我々は、社会以前の人間の状態について記述できないとしても、どの記述された歴史の始まりには常にテクノロジーがあった。ここで私が言っているテクノロジーとは――マーク・ボイルも概ね同意してくれると想像しているが――ダーウィン流の進化論的淘汰に打ち勝つために、環境を改変する能力のことである。もちろん、ビーバーはダムを作り、チンパンジーは棒を蟻の巣に挿し込む。だが、やはり人間だけが「自己」を意識の対象とし、「自己」と「外界」とを区別する能力を持っている。これは全く、万物の霊長などという傲慢な自称を裏付けるものではない。アダムとイブは自己意識を持ったことで、楽園を追放される。楽園にいる者は楽園を意識してはならないが、彼らは自己意識を持ったことで、今や改変すべき対象としての楽園を意識することができるようになった。裸で暮らすことはおかしいのではないか、などという意識を持ってしまう。


彼等園の中に日の清涼き時分歩みたまふヱホバ神の聲を聞しかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面を避て園の樹の間に身を匿せり ヱホバ神アダムを召て之に言たまひけるは汝は何處にをるや 彼いひけるは我園の中に汝の聲を聞き裸體なるにより懼れて身を匿せりと(旧約聖書、創世記第三章)


 そこで、私とあなたは、この本は人と人の力との関係を探るために、限りなく人の力を弱めて暮らすことを試みた、その記録であると言うことにしよう。お金の力を使わないことでお金の力を同定しようとしたマーク・ボイルは、今度は、人の力を使わないことで人の力を同定しようとする。

 商品の生産過程に起きた悲劇の記憶を全て消去することができる金の力を放棄したマーク・ボイルは、自分の生活を成り立たせるために必要な諸々の悲劇について、全てを認識せざるをえない。彼はついに、「お金を使わず暮らす」ためのテクノロジーである自分のフリーエコノミー運動のサイトを閉鎖し、SNSのアカウントを消去し、ガスも電気も水道もない小屋で暮らし始めることになる。本書の記述の殆ど半分近くが、近所の零細農家ですら所有しているような工業機械を持たないため、非常に時間のかかる農作業の具体的な工程や、様々な家事を行っている描写である。彼には洗濯機すら、ない。

 しかしマーク・ボイルは稀代のエッセイストではあるが、アジテーターではない。彼に結論など、ない。あなたは原題が『THE WAY HOME』であることを思い出さなくてはならない。どんな力も両義的なものであり、その二つのせめぎ合いを、マーク・ボイルは生き抜こうとする。

 彼はアイルランドの僻地の、高齢の農家が頻繁に描写することは、マーク・ボイルの問題意識の表れであることは間違いない。彼らがそこで生活できるのは、明らかに、発達したテクノロジーのおかげなのだから。それは昔から、そうである。むしろ、マーク・ボイルが昔の島の様子を島出身の知識人の本から頻繁に引用するためわかることだが、島の人々は船や釣り竿、家畜の飼育など、優れたテクノロジーの使い手であり、そのために知識人を生むほどに豊かであった。また、本書と『ぼくはお金を使わず暮らすことにした』との顕著な差異として、都市やWEB上で大いに活躍しているアナキストやエコロジストの活動家は殆ど出てこないのだが、出てきた彼らの一人はこう言っている。


「でも、とてもじゃないけどできないなあ、食器洗い機を手ばなすなんて」。しかし、彼の言わんとすることもわかる。自分が使った皿をいちいち手で洗っていたら、生態系や社会に起きている――食器洗い機などが引き起こしている――問題について、告発する文章を書いたり反対運動を展開したりする時間を、どうやって捻出できようか。(p.82)


 ところで、あなたはテクノロジーを使い、生活を拡張しようと試み、高めのゲーミングパソコンを机の上で光らせたり、SNSで人脈を広げようとするが、何一つうまくいっていない。あなたは疲れ果てている。それは当然で、テクノロジーがあなたに仕えているのではなく、あなたがテクノロジーに仕えているからだ。既に市民は誰もがインフォメーションテクノロジー労働者である。あなたがこの記事を無料で読めるのは、この記事の上か下に貼り付けられた広告があるからだ。あなたは広告を読むという仕事の報酬に、このサービスを利用している。もちろん、私もそうだ。広告など、些末な問題だ。あなたは今や家賃、車の維持費、次の最新のiPhone、特急電車の座席、身綺麗に見える衣服、コミュニケーションを円滑にするための諸々のコンテンツ、エナジードリンク、家系ラーメン、アルコール、ガチャ、スター、YouTubeプレミアム、Amazon Prime、あらゆる物を買わなければならない。ミニマリストになっても逃れることはできない。あなたはあらゆる所有物の維持をアウトソーシングできる条件を手に入れなくてはならない。あなたが最新の技術を導入し、生活をより効率化しなければ、あなたはあなたが何よりも忌み嫌う路上生活者か、地元のハローワークを出入りする失業者に仲間入りをしなくてはならない。

 これこそ、人の力の今一つの側面である。人の下僕であったはずの人の力が、今や人の主人となる。それなしに生活できなくなる。それを獲得し、利用し、維持することが、あなたの全生活になる。アイルランドの僻地の農家も、あるいは出版市場から金を得なくてはならない環境活動家にもおいても、同じことである。アイルランド本島が猛烈な好景気にわき、島から若者が次々と出ていくに及んで、僻地の農家は機械を導入し、効率化を考えなければ、地元経済の衰退を止めることができない。食洗機で時間を節約し、次の執筆、次の運動の時間を作らなければ、議会政治と出版市場で環境活動家は負けることになる。「グローバル化する世界においてテクノロジーとは、最高のテクノロジーの持ち主らにのみ利益をもたらす」。これはつまり、グローバル化する世界において力とは、最高の力の持ち主らにのみ利益をもたらすということの言い換えである。これが人の力の、別側面である。

 この本は、テクノロジーすなわち上述の二つの性質を持つ人の力、人が人である限りは放棄しがたい人の力についての本である。些かルール不明確な、『ぼくはお金を使わず暮らすことにした』よりも(物理的にも)暗い生活実験の記録であり、彼が人の力の二つの性質が最も調和する点を探ろうと試みた本である。もはやテクノロジーに奉仕している意識すらもないほどに奉仕しているあなたはこの本を是非読むべきだろう。あなたが既にAmazonでワンクリック購入し、倉庫労働者に排尿を我慢させて発送作業を命じた後ならば、もう特に私には言うことがない。ただ民間人を宇宙空間へ送り出すことと、人に排尿を我慢させることを同時に行う、人間という生き物の力について思いを馳せるのみである。

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