飢餓ゲーム宣言

他律神経

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』書評 金の力の本質

 著 マーク・ボイル

 訳 吉田 奈緒子

 出版社 紀伊國屋書店

 出版年 2011年


 金の力とは何であるのか、そのことが本書を読めばわかる。この本は金の力をなくした男の本だからだ。我々が金の力のある状態と金の力のない状態を比較することを、この本は可能にする。とはいえ、あまり悲壮感はない。金の力を欲しながら金の力をなくした男の話ではなく、金の力を意識的に自分から切り離そうとした男の話だからだ。この悲壮感の欠如が、何よりも重要である。これは、あくまで金の力なしで「生活」しようとした本だ。例えば予め一年分の食料を買い込んで、意識の喪失している時間を増やそうと睡眠薬を飲み続けるとか、そういう話の本ではない。

 金の力など、もう、知り尽くしているとあなたは言う。あなたは金で苦労したり、金で快楽を味わったり、政府は信用できないが金融庁は信用して米国株インデックスをつみたてNISAで購入したりしている。しかしそれは金の力の一面に過ぎない。やはり、あなたは金の力を知るために、この本を読むべきだ。あなたは空気の力を知っていて、換気したり、深呼吸をしたりするかも知れないが、あなたは空気の力を私の言うような意味で知らないから、夕食の残りを入れたジップロックやUSBの差込口に息を吹き込む。

 では金の力とは何か。金の力は望むものを手に入れる力ではない。そのような力は他に幾らでもある。それは金の力の本質ではない。本書が示しているのは、まずはそのことである。あなたも、もうそれは薄々、理解している。だからあなたは自国通貨が毀損されて家計簿アプリの米国株インデックスの名目価格が上がった表示を見ると嬉しくて仕方ない。

 既に私は本書が「意識的に」金なし男となり、なお「生活」を試みる男の話と書いたが、そのおかげで、金の本当の力が明らかになる。彼はありとあらゆる手段を使って、金なしに食料を獲得し、トレーラーハウスを獲得し、トレーラーハウスを置くための土地を獲得し、金なし生活を開始する。さらにまた、金なし生活中にクリスマスに両親の実家へ訪れたり、海を渡ったりもする。具体的な手段の詳細については、あなたはこの本を図書館で借りて読むことで知ることができる。大まかには、あなたはここで読むことができる。大まかには、膨大なコミュニケーションによって、である。彼は実は本書執筆時点でフリーエコノミー運動という、自分の持っている有形無形の物をシェアするための運動の活動家なのだが、まずはそのコネクションがあり、食べられる野草の知識を得たり、必要とされなくなったトレーラーハウスにアクセスできる。また、巨大な農場を営む人々と繋がりがあり、彼は自分の労働を提供する代わりに農場の片隅にトレーラーを置かせてもらうように交渉し、成功し、家賃から解放される。実家には徒歩、ヒッチハイクなどを用いる。

 本書の記述の半分以上は、これである。つまり金なしに必要なもの、望むものを手に入れるための膨大なコミュニケーション、交渉、試行錯誤である。だから、私とあなたはこう言ってよい。金の力とはコミュニケーションの圧縮である、と。ある人とある人がお互いの有形無形の所有物を交換するという、この極めてありそうもない、マーク・ボイルがそれ自体で一冊の本を書くことができるほどに膨大なプロセスを、しかし明日も明後日も継続されるはずだと誰もが信じられるもの――すなわち経済システムへと転換させることができる、猛烈なコミュニケーションの圧縮、捨象である。あなたが金にうんざりしているが、金が欲しくて欲しくてたまらないのも、このためである。あなたはスーパーマーケットの店員(の実際は雇用主と株主)が、あなたがスーパーマーケットに行った時に欲しがるものを知らない。そこで、あなたは、九時から十七時(またはそれ以上)の時間帯にあなたの雇用主と株主が欲しがる労働に従事し、代わりに金をもらう。そして、この金を持っていくと、スーパーマーケットの店員(実際は雇用主と株主)もそれを欲しがり、店内の商品との交換を持ちかけてくる。だから、あなたはマーク・ボイルがしたような、スーパーのマネージャーや地元NPO団体と交渉したり、ゴミ箱を漁ったりすることなしに、なんだったらAirPodsを耳につけてSpotifyのストリーミングをする音楽を聞いてスーパーの店員など会話するに値しないという態度を示しながらも、スーパーの店員に殴られたりせずに商品を手に入れることができる。

 しかし、どんな力も常に両義的なものである。金の力とは、コミュニケーションを圧縮する力なのであるが、そのことが問題を引き起こす。この本が、今や自国通貨の価値を毀損するしか経済政策を持たないどこかの国の書店に平置きされている、どこかの国の輩が書いた節約本と違うのは、そのことを直視しているからだ。そもそも、マーク・ボイルが金なし生活を始めたのが、その問題のためであった。マーク・ボイルはもうビジネスマン生活に疲れたとか、家族や地元の人と助け合ってくらしたいとか、金なし生活を始めた理由を幾つか書いているが、その中の一つを引用しておこう。


お金は、富を簡単に、しかも長期間しまっておくことを可能にする。この便利な貯蔵手段がなくなったとしたら、地球とそこに住むあらゆる動植物の収奪を続けようと思うだろうか。必要以上の量を取っても利潤を簡単に長期保管できる方法がなければ、おのずと、そのときどきに必要なだけの資源を消費するようになるだろう。熱帯雨林の木々を誰かの銀行預金残高に変えることもできなくなるから、毎秒一ヘクタールの熱帯雨林を伐採する理由自体がなくなる。木が必要になるまでは地面に植わったままにしておくほうが、ずっと理にかなっている。(p.26)


 これはつまり、金の力すなわちコミュニケーションを圧縮する力の、別側面、別の視点からの描写である。あなたがランチの時に入る、駅ビルの珈琲チェーンのことを考えてみてもよいし、あなたが退勤後に買う死んだ動物の一部や、衣服のことを考えてみてもよい。あなたが金の力なしに、そこで売られていたものを手に入れようとすれば、あなたはそれを作っている過程について考えなくてはならない。マーク・ボイルはそうしている。これはマーク・ボイルが環境活動家だから、という、ただそれだけの理由ではない。彼は、自分が環境問題を意識しており、またビジネスに疲れ果てて金なし生活をしている身であるから、こうして交渉してあなたに所有物を渡して欲しいと頼んでいると交渉せざるをえない。だから彼は地元のNPO団体や有機農家に接触するのである。だから、彼は、金の力によってコミュニケーションを圧縮し、イデオロギーを問われないあなたのように、フェルキッシュな入植政策を続ける国に献金して標章されたCEOのために稼働する珈琲チェーンの珈琲を飲み、病原菌だらけの現場で移民に解体作業をさせたあと、繁忙期が終わったので移民局に通報して解雇の手間を省く食肉業者の供給する死肉を食べ、自動小銃を突きつけられながら裁縫する児童労働者の指紋のなくなった指から生まれた衣服を着ることになるならば、血の臭いや血の味や血の色を無視することができない。逆に言えば、金の力があれば、それを無視することができる。そして富と問題が蓄積されていく。

 あなたはまだ金の力を理解していない。だから、この本を読むべきだ。忙しく、また繊細なあなたはこの記事を読むことで金の力を知ったつもりになり、この本を読む時間を圧縮し、金の力をいつまでも享受できるように証券会社のアプリに指紋認証でログインする。または節約して、確定拠出年金の拠出額を増やそうとする。だが、あなたはまだ金の力を理解していない。何故って、あなた――あなた方の老後の二千万円のために、今日も株主たちはあなたの人件費を圧縮するように経営者を怒鳴りつけているからである。

 このあと、マーク・ボイルはいよいよ「テクノロジーを使わずに生きることに」なり、その成果を一冊にまとめることになる。それについては、別の機会に書くことにしよう。とにかく、この本は金の力のメリット・デメリットがともにわかる傑作なので、読んで損はない。どちらかだけを強調する人間が多すぎる世の中にあっては。

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