武蔵野の天使様は、喫茶店でみかんジュースを飲む

汐海有真(白木犀)

武蔵野の天使様は、喫茶店でみかんジュースを飲む 前編

 僕はいつものように、高校からの帰り道を一人で歩いていた。都内だから、やたらと背の高い建物が多い。人混みを避けつつ近道をするために、人気のない路地裏を進んでいたときだった。


 道のど真ん中の空気が、突如として青白く発光し出した。とても驚いて、思わず足を止めた。そうして十数秒と経たないうちに――一人の少女が、光の粒を散らすようにして現れた。

 

 歳の頃は中学生くらいに見える。腰の辺りまで伸びた黒髪と、ぱっちりとした翠色の瞳。身に付けている真っ赤な着物には、大きな花の模様があしらわれていて、とても華やかだった。


 僕は唖然としながら、今目の前で起こった光景を見つめていた。


「えええ……ええ……?」


 僕の口からは、そんな困惑の声が漏れた。それもそのはずだろう。突如として目の前に、無から美しい少女が生まれたのだから。辺りには人がいなくて、この衝撃的な瞬間を見届けたのは、どうやら僕だけのようだった。


 少女は僕のことを見ていた。それからどこか困ったような表情を浮かべて、薄紅色の唇を開いた。


「はうう……出現する場所を間違えてしまったみたいです……」

「しゅ、出現?」


 聞き返した僕に、少女はこくこくと頷いてから、また話し始める。


「そうです! あっ、申し遅れました! しのの名前は、しの――『武蔵野の天使様』です!」

「む、武蔵野の天使様あ?」


 僕は少女――しのの言葉を、繰り返した。さっきから衝撃的なことが多くて、オウムみたいになってしまっている。

 しのは目を細めて、胸を張ってみせた。


「はい! 君はご存知ないかもしれませんが、全ての土地には一人の天使様がいるんですよ。しのは武蔵野の天使様なんです!」

「へ、へえ……そうなんだ。覚えて帰ることにするよ」


「ぜひぜひ、そうしてください! あっ、君のお名前を聞いていませんでしたね」

「あ、僕? 僕は須野皐月すのさつき。よろしく、でいいのかな?」

「もちろんです! しのと仲良くしてくださいね、さつきくん」


 しのはへらりと笑って、僕に向けて手を差し出した。僕は逡巡してから、彼女の手を取った。その温度は普通の人間と少しも変わらなくて、ちょっとだけホッとしている自分がいた。


「そういえばさっき『間違えた』って言ってたけど、何を間違えたの?」

「ああ、そうでした、そうでした! しのは普段は天上にいるんですが、五百年に一度、武蔵野の様子を見に来ることにしているんですよ」

「ほうほう」


「武蔵野は素晴らしい場所です。広がる原野、川のせせらぎ、可愛らしい野生動物、移ろう空模様――さつきくんは知らないかもしれませんが、とてもいいところなんですよ」


 しのは人差し指を立てながら、武蔵野について説明する。僕は頷きながら、頭の中にある武蔵野の知識を辿った。あれ、でも確か……


「そんな武蔵野に降り立ったはずが、今この場所から見えるのは沢山の高い建物ばかり。だからきっと、しのは間違えちゃったんですね。うーん、しのったらうっかりさんです」


 しのはこつんと、自分の頭に握りこぶしを当ててみせる。

 僕は恐る恐る、口を開いた。


「あのさ、しの」

「はいっ、何でしょうか?」

「その……多分ここ、武蔵野だよ」


 僕の言葉に、しのはぴたっと固まった。数秒の間そのまま静止して、それからへらっと笑ってみせる。


「あはは、さつきくんったら、冗談がお上手ですね! もう、しのをからかったらめっですよ?」

「いや、嘘じゃない嘘じゃない。マジで」


 僕はポケットからスマートフォンを取り出して、検索窓に『武蔵野 どこ』と入力する。出てきたホームページをタップして、画面をしのに見せた。


「ほら、ここ。今僕たちがいるのが東京都杉並区。で、武蔵野には杉並区も含まれるって書いてあるでしょ」

「……ほんとだあ……」


 しのは目を真ん丸にしながら、スマートフォンの画面を凝視していた。

 僕は再びスマートフォンをポケットの中に仕舞うと、しのに向き直る。彼女はきょろきょろと周囲を見渡してから、叫んだ。


「ということは……えええ!? 今の武蔵野、建物だらけじゃあないですか!」

「いやまあ、うん、そうなるよね」

「衝撃的です……ここ五百年で、一番衝撃的だったかもしれません……」


「というか空の方にいる間は、地上の世界を眺めたりしないの?」

「うん、しません。だってほら、『たまに』の美しさってあるじゃあないですか? 本当はずっと見ていたいですけれど、そうすると感動が薄れちゃう気がするんです」


 しのの言っていることは、確かに理解できた。好きな音楽も永遠に繰り返し聴いていると飽きてしまうように、感情の薄まりというものは絶対にある。……それにしても、五百年スパンは些か長すぎる気もするけど。


「うーん、困りましたね。しのは今日、武蔵野の大自然の中で楽しくお散歩する予定だったんですが、崩れちゃいました」

「それはそれは、可哀想に」

「どうしよう……あっ、いい案を思い付きました!」

「本当?」


 しのはにっと笑って、左手を腰の辺りに添え、右手で僕の方を指差してみせた。


「さつきくんが、現在の武蔵野を案内してください!」

「へっ?」


 口から変な声が漏れた。僕の動揺などそっちのけで、しのは笑顔で僕の手を取る。


「しの、今の武蔵野にも興味津々なんです! でも一人だと心細い……そこでさつきくんの出番です! 今の武蔵野を、しのに教えてください!」

「いやそう言われても、僕武蔵野に詳しい訳じゃないからね!」


「でもさっき不思議な機械で、武蔵野の場所について見せてくれたでしょう? あれを使えばいいじゃあないですか!」

「不思議な機械って……スマホのことね。うーん、どうしよう……」


 僕は目を輝かせているしののことを見る。正直そんなに気は進まなかったけれど、僕がここで拒否ったら、違う人に案内を頼みそうな勢いだ。

 それにしのは……何というか正直、めっちゃ可愛い。もしよからぬことを企んでる人にでも接触したら、面倒ごとになりそうだ。そもそも天使様って、どのくらい戦闘力が高いんだろう?


 色々考えてしまいそうになる思考を一旦放り出して、僕は頷いてみせた。


「……まあ、いいよ。僕がしのに、武蔵野を案内してあげる」

「うわーい、やったあ!」


 しのは満面の笑顔で、ぴょんぴょんと跳ねてみせる。僕は小さく溜め息をついた。

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