第30話 近所の犬


 コトリ。コトリ。

 窯から出された器たちが机に静かに置かれていく。今回焼かれた陶器は店で手にしたカップの青ではなく、優しくくすんだ薄黄色だった。

 並べられる夏芽の皿と湯呑みは穏やかでまろやかだ。その隣で俺の皿はいびつに焼き上がり、なんだかみすぼらしく思えた。


「ううん、これはっていうの」


 夏芽はそんな小皿たちでさえ、かわいい子のようにそっと扱う。


「これにはナッツを入れて。ちょっと大きいこっちには冷や奴。いい感じじゃない?」


 大きさも一定じゃない皿。あの時つまみ用だと適当に言ったのをそのまま信じ、盛る食べ物を想像する夏芽は楽しげだった。


「……いいかもな」

「でしょ。使ってみればいいんだよ」


 小さく切って置いてあった新聞紙で皿をくるみ、ヒョイヒョイと渡してくれる。俺はそのままカバンに突っ込んだ。


「ありがとう」

「どういたしまして。そのぶん働いてもらうからね」

「は?」

「さあ、あたり屋にレッツゴーだよ!」


 にっこりと俺の腕を引く夏芽。つまり落語会の準備を手伝えということなのだろうが、ストーリーの持っていき方にもセリフにも昭和感があふれ出ていた。陳腐、あるいはレトロ。プロデューサーは誰なんだ。




「そりゃァあたしだよ」

「ですよね……」


 蕎麦屋に連行された俺は、大矢さんの満面の笑みに迎えられた。


「かがみんの席はあるか、て夏芽ちゃんに言われてね。んなモンもちろんあるけど、ご招待は遠慮するだろ」

「そんなの駄目ですよ」

「だから会場設営を手伝ってもらおうと思ったのさ」


 落語を聴くのは蕎麦屋二階のお座敷だった。そこに高座をしつらえお客さま用の卓と座布団を並べるのだが、まだ一階は営業中。従業員は忙しい。


「……わかりました、働きます」


 先生にしろ大矢さんにしろ、若者の面倒をみるのが好きすぎると思う。今どきこんなご近所づきあいが残っていることに驚くが、ずっとこの町に住んでいたのにそれに気づいたのは夏芽を拾ってからだった。人との出会いは奇妙な縁だ。

 大きな座卓を座敷の奥に据え、毛氈もうせんを掛ける。その上にフカフカの座布団を置けば高座っぽいもののできあがりだ。


「これ、着物で上れるかねえ」

「ちょっと高いかもしれません」


 座卓に足を掛けてみて言ったら夏芽が眉を寄せた。


「テーブルに上がるんだ?」

「今のこれは高座だし。なんだよ、お上品だな」


 そんなところで育ちの良さを垣間見せないでほしい。大矢さんが持ってきた踏み台を後ろに設置して、俺はずかずかとに上がり座布団に座ってみた。


「客席から見てどうですか。低くないですか」

「うんうん、いいんじゃないかな」

「――あれ各務、おまえ前座やってくれるの」


 ひょっこり顔を出したのは橘さんだった。不意をつかれて俺は何も返せなかった。挨拶もなしにいきなりそれは。大矢さんがいそいそと立ち上がってお辞儀した。


「さの助さん、お早く来ていただいてありがとうございます」

「こちらこそお声掛けありがたいことでございます。精一杯つとめさせていただきます」


 二人が頭を下げ合う隙にサッと高座から下りた。座布団をひっくり返すと橘さんがケタケタ笑う。


「やっぱり前座じゃないか」

「……そりゃまあ、自分が使ったままのに座らせるわけには」


 寄席では演者が高座を下りるたびに前座が出ていって座布団を返し、名が書かれたをめくる。客席に風も埃も立てずに静かに座布団を返すのを落研の一年生だった時にやらされたものだ。そういうのは体に染みついて抜けない。


「本当になんかやらない? 『子ほめ』とか『初天神』とかならいけんだろ」

「いけませんて。何年さらってないと思ってるんですか」

「……さらえよ」


 橘さんはブスッとしてジーンズのポケットに指を引っ掛けた。こうしていると噺家ではなく学生時代の先輩のままだと錯覚する。よくキャンパスでつかまって議論を吹っ掛けられていた時にこんなポーズだった。何故か俺にだけ妙にからむ人だった。それは今も変わらずに、無茶なことばかり言う。


「おまえ器用だし。俺の前座やって一緒にお座敷つとめて回ろうぜ」

「なんですその営業形態。俺、前座見習いすらやったことないんですよ。旦那方は噺家だからお座敷に呼ぶんでしょうに、そんなの詐欺じゃないですか」

「しゃべるプロなのは変わらないけどなあ」


 まったく本気じゃなさそうに橘さんは肩をすくめた。荷物の中から出囃子のCDを取り出し大矢さんに渡す。


「こちらのね、都鳥みやこどり前弾まえびきでお願いします」

「はいはい。手ぇついたあたりで消せばいいんでしょうか」

「あ、俺やりましょうか」


 どうやら出囃子はCDデッキで鳴らすらしい。座布団に上がって挨拶し、拍手が起こったところでフェードアウトさせるのだ。こんな機械を見るのも落研以来で懐かしく、操作を確かめていると夏芽が興味津々でやってきた。


「こんなの初めて見た。ラジカセってやつ?」

「カセットテープはついてないみたいだけど」

「なに、各務の彼女?」


 俺たちが気安くしゃべっていると思ったかそんなことを訊かれた。劇団員と付き合っていると教えたことはあるような気がする。夏芽はしれっと嘘をついた。


「えへへ、かがみんがお世話になってまーす」

「かがみん!」


 橘さんが爆笑する。俺は思い切りしかめ面をしてみせた。


「これは近所ののら犬です。ちなみに劇団のとはもう別れてますから」

「えーと……何からツッコめばいい?」

「誰がのら犬やねん!」


 何もツッコまなくていいのに犬本人が関西ノリできた。そのうえワクワク顔で迫ってくる。


「彼女いたの? なんで別れたの? 私が部屋に泊まったのとかまずかった?」

「んなわけない。汚れた犬を保護して何がまずいんだよ」

「各務、お泊りしたなら責任取ろうや」

「何もしてません!」


 本当に夏芽はそういう相手ではない。ただそこにいるだけの、だが空気にしては少々うるさくかまってくる奴。たまに頭をなでてやる近所の犬という言い方がいちばん似合う存在だった。


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