第25話 溶けていく
入院して眠っているという美紗に俺ができることはもう何もなかった。メッセージなども送らずにそっとしておいて下さいと乃木さんに言われた。
医療機関と家族が引き受けているのだから他人の出番などない。しかも駆けつけたのは母親――美紗のトラウマになった人だ。出会った当初から美紗はああだったのだしそれと向き合うべきはまず家族なのだが、だからといってホッとしてしまった俺は薄情すぎる。
「私たちは手を出せないんですね」
乃木さんは寂しそうだった。友人に真摯な気持ちをかけられるこの人は本当にもまともだ。
飲みに行くかというジョーカさんの誘いをお断りして帰ると、隣の二○二号室は起きているようだった。遅いというお叱りメッセージでもまた来ないかと思ったが、シャワーを浴びて出てきても今夜は着信がなかった。
翌朝はさすがに鬱とした気分がぬぐえずに目を覚まし、夕方の仕事まで間があることに安堵した。心を上げておかないと声に乗ってしまうのはまずい。
案件はローカルCMのナレーション。柔らかく優しく明るく、聞いて心地よく。ギャラもいいので結果はきちんと出し、次につなげたい。
リリ、という鈴が外で聞こえた。夏芽の鍵だ。あいつがふさいでいると大矢さんが言っていたが、何かあったのだろうか。
「コーヒー、飲みに行くか」
インスタントの瓶を手に取って動きをとめた。俺を少し持ち上げる何か。それには美味しいコーヒーと〈喫茶・天〉の時間はふさわしいかもしれない。
ぼかしてでも愚痴をこぼせば先生は聞き流してくれるだろう。大矢さんがいれば大家さんぽく親身になってくれそうだ。夏芽は女の立場から俺を罵倒するだろうか。でもあいつならきっと明るく面罵してくれる。
「夏芽だもんな」
俺は小さく笑った。昼に行ってみよう。だがそう考えて気づいた。今日は定休日じゃなかったか。
「あ……」
上がりかけていた気持ちがむしろ叩き落とされた。嫌になった俺はベッドに転がるうちに二度寝していたらしい。
ふと気づいたのは遠いインターホンだった。そしてドンドンとドアを叩く音。うちじゃない。
「夏芽! 出てこい!」
抑え気味だが高圧的な男の声がした。廊下だった。夏芽、と呼び捨てる若そうな男とは何者だろう。俺はズルズル起き上がった。
また苛立ったようにインターホンが連打された。感じが悪い。というか通報案件じゃないのか。夏芽が帰っていないのなら警察は保留でいいが、とにかく静かに玄関まで行ってみる。
「くそ、どこ行った。店は閉まってたのに……」
ドアレンズをのぞくと忌々しげにつぶやく男の姿が横切った。スーツを着て、三十代ぐらいに見えた。定休日の喫茶にも行ったが、アトリエのことは知らなくて夏芽に会えなかったのか。階段を下りる足音が乱暴だった。
なんだ今の。
時間を確認すると昼だった。仕事には早いが、俺はまずいコーヒーとパンを腹に入れて支度をし部屋を出た。
建物脇の小道を商店街から一歩入った扉がアトリエの入り口だ。軽く開いているそこをコンコンと小さく叩く。
「夏芽」
呼びながら中をうかがうと夏芽はちゃんとそこにいた。振り向いた顔には表情があまりなかった。
「――かがみん?」
「作業中か」
「いいよ」
つかみどころのない反応は何かに集中しているからだろうか。それとも何か問題を抱えて心ここにあらずなのか。一歩アトリエの中に入っても夏芽が今何をしているのか俺にはわからなかった。ぼんやりと座り込んでいる。
「何してんの」
「本焼き」
指差しながらひと言で答えられた。電気窯があると言っていたのは隅の金属製の四角い箱のことのようだった。アトリエがほんのり暖かく感じるのは窯を焚いているからなのかもしれない。
「仕上げの焼きのことだっけ。邪魔してごめん」
「ううん。温度管理は自動でできるから、本当はついていなくていいんだけど。そばにいたくているだけ」
夏芽は静かな目を窯に向けた。
「掛けた釉薬が今、変わっていってるの。溶けて染み込んで。まだ千度ぐらいだけど中はきっと輝いてるよ」
「まだ千度?」
「千二百五十まで上げる」
「……すごいな」
陶器とはそんな温度で焼くものなのか。俺は赤く滾る溶鉱炉の鉄を思った。そういうドロドロとは違うのだろうが、あの冷たかった粘土は今まさに熱の中で溶けた釉と合一し器になっていく途中なのだ。
「あ……で、さっきおまえの部屋に誰か来てたぞ」
「誰か?」
「スーツの男。俺よりは上かな。ピンポン鳴らしまくってドア叩いて、出てこいって怒鳴ってた」
ここに寄った用件はそれだった。どういうことかはわからないが、女性の部屋にそれはちょっと穏やかじゃない。たとえ夏芽に非があることだとしても見過ごすわけにはいかなかった。
「ああ……」
夏芽は憂う顔になった。
「そう。うちに」
「心当たりあるんだ?」
「ん……」
それきり黙り込む。
なんだよ夏芽らしくもない。あれはどういう奴でとペラペラしゃべり文句を言えばいいのに。
そう思ったが、俺はそのまま口に出すことができなかった。こちらから夏芽に踏み込んだことなどない。俺が言えるのは一般的な注意喚起だけだった。
「気をつけろよ。危ないと思ったら警察呼べ」
「そだね」
へへ、と力の入らない笑い方をした夏芽はうつむいてしまった。唇だけ動かす。
「わかってるんだ。頼ってちゃ駄目ね。かがみんの言う通りだよ」
「ん?」
そのまま答えずぼんやりする。所在なくなった俺は、じゃあ、と小声で告げて外に逃げた。
午後早い時間の商店街にはまったりした空気が漂っている。奇妙に現実感を失ったように感じる町を歩いていると、ドアを叩く男もいつもと違う夏芽も入院した美紗も、何もかも存在しないんじゃないかという錯覚におそわれた。
CMの収録に向かう自分だけが何故か鮮明で、道端の掲示板には大矢さんが貼りつけたチラシに橘さんの笑顔が不鮮明で、なのにくっきりと俺をあおり散らかしていた。
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