第9話 俺の中の
今日の仕事は十八時にオーディションがあるだけだった。例のアニメのだ。
動画に進出すれば仕事も増えるかもしれないが、ろくに知らない作品。キラキラしたイケボ声優と肩を並べて女性ファンからもてはやされる未来なんてやってこないと思う。まあ最善は尽くす。
だがその前に、寄席の昼席に行くことにした。都内にいくつかある
十月になったとたん秋らしさが押し寄せてきた。インフルエンザも流行り始めて、俺は電車や人混みではマスクをするようにした。
車窓をかすめていく桜並木に黄色い葉が混じり始めるのを窓から眺めても俺の仕事に限れば季節感はまるでない。十一月には劇団ジョーカー含め公演が増えるが、それが精いっぱいの芸術の秋だった。
まだ上着を脱いだ人が目立つ街を行くと不意に寄席が現れる。現代の喧騒にあっては寄席文字も
その時やっていたのは奇術で、テレビで観ればなんとも思わないのに不思議と数十年巻き戻った気分になった。江戸の噺など掛かればさらに時代を飛び越える。
十五分ほどに短く切り上げる噺と色物をいくつか眺めてから、仲入りでも席を立たずに俺はスマホを確認していた。仕事の連絡はなし。橘さんに〈来た〉とメッセージを送ることもしなかった。それがプレッシャーになるような人ではないがニュートラルなさの助を聴きたい。
耳慣れた
「えーめっきり秋めいて参りまして、寒くなるとトイレが近くていけませんやね。あ、混んでましたかー?」
それは遅れて今戻ってきた客への問い掛けだった。
「年とるときれが悪いんだよ」
訊かれた方も堂々と答える。慣れた客だ。客席がケラケラと笑い、高座の橘さんもニコニコしてみせた。
「あたしはまだそんなでもないんですけど、うちの師匠がよくそんな事を訴えておりますなあ」
ペラペラとお決まりの口上を述べつつ入った噺は『
大きな笑いが起これば半秒にも満たないが間を取る。少しだけ声を張って噺の続きに引き戻す。生で客を相手にすると反射的にそんなことをするようになるのだった。今の寄席の空間は橘さんの手のひらの上だ。
声優にはそういうのはない。客はそこにいないから。俺たちの演技には間なんてものはなく決められたタイミングでしゃべるだけだ。ずれれば録り直しか、後で機械的に調整が入る。俺にできるのは尺の中で緩急つけるぐらいだった。
「『どうぞ
そこまでの勢いを畳んで噺を下げた橘さんが立ち上がり、引っ込む時にこっちを見た気がした。俺がわかっていたか。高座からだと隅々までよく見える。
噺そのものは何も考えずとも口をつくように稽古する。だからその日の客に合わせて高座を運ぶ余裕があるのだ。俺のことは橘さんからどう見えていたのだろう。
その答えはトリまで堪能した後、外でわかった。オーディションまで少し間があるのをどうするかと迷っていたら、ラフな格好に着替えた橘さんが出てきた。師匠と一緒だった。
「なんだ各務。出待ちとかやめろよ」
ニヤニヤと声を掛けられてムッとしたが三椒師匠の手前抑えた。
「この後どうするか考えてただけです」
「知り合いかい?」
師匠に言われて頭を下げる。
「落研の後輩です」
「ああ。噺はやめたの」
「この人は声優になってましてね」
橘さんが口を挟んだ。へえ、と師匠がおもしろそうにする。
「昔いたよ、ちょいと上の人で」
「え。噺家から声優、て人ですか」
「煙草で師匠をしくじってね。おまえさん明日から来なくていいから、て言い渡されてた。わざわざ楽屋で吸うこたないな」
それはまたヤンチャな人がいたもんだ。師匠は懐かしそうな目をしていた。
「それで次にどうするか、たらセリフをしゃべることにしたと平然と言われて呆れたなあ。しゃべらずにいられないのは、もう
その人はまだしゃべっているのだろうか。だが俺も経歴だけみれば同類と思われるはず。俺が負う業ってなんだ。師匠は俺をじっと見る。
「あまり癖のない人だね」
「は。俺ですか」
「落研の人はさ、妙な感じのも多いんだ。おもしろおかしくしゃべらなきゃ、て意識があるんだろうか。だからこの人に押し掛けられた時は嫌でねえ」
橘さんを横目で見て師匠は続けた。
「でもそこんとこキッチリ直してくれてよかったよ。おかしみ、てのはお客さまの中にあるもんだから。あたしたちはポイとそこに噺を出すだけだ」
「各務が笑わずに聴いてたのも、おまえの中におかしみがないからだな」
「橘さん……」
「寄席に来てしみじみ考えこんでるんじゃねえよ」
ほら、ちゃんと見えている。見透かすようなその瞳にやはり腹が立った。だが寄席に来て笑わない嫌な客になっていたのは俺だ。返す言葉がなかった。
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